老人とコウモリの島
これは、僕がこの島「老人とコウモリの島」に漂流したさいに記した手記だ。
読む前に1点注意してもらいたいことがある。
もしあなたがこの手記を「老人とコウモリの島」で発見しその場ですぐさま読もうとしているなら、好奇心を抑え安全な場所まで移動してから読んでもらいたい。
なにせ、この島には人食いの獣がいるのだから。
僕は貿易船の甲板員で、それは人生で四度目の航海での出来事だった。
照りつける太陽の下、貿易船は貨物室一杯になるまで香辛料を詰め込み、熱帯の海を進んでいた。
僕は甲板から海を眺めていた、海は穏やかで雲一つない昼下がり。
時間で変化するのは日差しだけだ。
ところがその夜、僕らの乗る船は大シケに襲われた。
空は真っ暗で星一つなく、船は荒波に翻弄されていた。僕はといえば甲板の上で必死にロープにしがみついていた。
そんな混乱の中、船が岩礁に激突し舟艇に大穴を開けた。船はその後、波を受けるごとに1片1片もぎ取られていった。
やがて、僕も海に投げ出された。荒波の中で必死になって船から剥がれ落ちた木片にしがみついた。
そこで僕の記憶は途切れている。気が付いた時には僕はこの島の砂浜に横たわっていた。
僕の目に飛び込んできたのはヤシ、バナナ等の果実樹の森だ。栽培されたものではないため普段僕らが食べているものと比べると小ぶりではあるが、食料として頼りにはできそうである。
木々をよく観察してみると、ところどころに高さ70cmほどの黒い物体がぶら下がっていた。接近したところそれは、眠っている巨大なコウモリだった。そのあまりのサイズに恐れおののき、震える足でゆっくり後ずさりをした。しかし、木の根に足を取られ僕はしりもちをついた。コウモリは物音で目を覚まし、眩しそうな眼を僕に向けた。1秒ほど両者は向かい合ったが、コウモリは自分に攻撃する気がないことを察すると再び眠りについた。
僕は呼吸と整え立ち上がろうとした。その時に、地面に白い棒状のものがあることに気が付いた。それは40cmほどの太い骨のように思えた。奥の地面に目を向けると、肋骨のように見える白い何かが転がっていた。大きさから考えると人間の可能性もあった。頭蓋骨でも発見できたなら、人間だと断定できただろう。しかし、僕は探す余裕もなかったし、見たくもなかった。今の最優先事項は夜までに安全な場所を見つけることなのだから。
人間にとって暗闇は危険な場所といえるだろう。危険が迫っているのに危険だとわからない状況が一番危険なのだ。それならば今行うべきことは火の確保だ。幸いにも僕のポケットにはマッチがある。だが、これでは一晩中灯し続けることは不可能だろう。僕は薪に使える乾燥した木材を求め島の内部に向かった。
薪木を求める最中に僕は、人間のものと思われる足跡を目にした。その足跡は、僕と同じほどの大きさだが深さは2倍であり、最も注目すべき点はここ数時間のうちに出来た思われるほどハッキリと刻まれていた。足跡の主は体格の良い成人男性か、もしくは何か重いもの運んでいたのだろう。足跡の主に接触するのは一種の賭けであったが、悪魔じみたコウモリよりは安全だと判断し、足跡を追うことに決めた。
足跡を追いかけていると、逆方向の足跡が並ぶようになった。足跡の主はこのルートを往復したのだろうか。もしかしたら、この先には住処があるかもしれない。逆向き足跡は僕のものと同程度になっており、住処に重いものを持ち運んだのだと予想した。
追跡をしているうちに、空が赤らみ始めた。あの巨大なコウモリたちが空を飛び始めた。その中の一匹が木にとまり、握りこぶしほどの物体を両手で弄び、かぶりついた。コウモリの口から液体がこぼれ落ちた。
恐怖に駆られ僕は足跡を全力疾走し、前方に煙が立ち上っているのが見えた。
足跡の先には、かがり火にあたっている髭を蓄えた老人がいた。
老人は僕に気が付くと、人懐こそうな笑顔をたた
え、かがり火の近くに来るように手招きをした。
僕は促されるまま、かがり火のそばに腰を下ろした。
老人は強い訛りで僕に話しかけてきた。
「お若いの、あんたは運がよかったですな。この島には人食いの獣がいての、流れ着いた遭難者はみんな奴らの餌食になってしまうのです」
「その獣というのは、巨大なコウモリのことですか。あいつらの近くに人骨が散らばっていましたが、本当に人を食ってしまうのですか」
「そのとおりですぞ。私に会っていなかったら、今晩に食い殺されていたはずです」
僕は身震いした。老人を面白がってさらに不安を煽ってきた。
「私のような老いぼれと違って、若いあんたは絶品ですからね」
老人は固まっている僕に、「この島でとれた一番立派な獲物の燻製を特別に食わせてやるからそこで待っていなさい」と言い残し奥の高床式の建物に入っていた。
僕のものの二倍の深さのした足跡を思い出し、野生のシカか猪か何かを仕留めて持ち帰ったのだと予想した。
老人も持ってきた燻製は、今まで食べたどの肉とも異なる味がしていた。しかし、空腹のせいもあってか今まで食べたものの中で一番美味しいと感じたのだった。
食事が終わると、老人は夜の間はかがり火から離れぬように僕に忠告した。僕は横にしたが、感覚が冴えわたり眠れそうにない。だけれども、体の疲労はたまっているらしく起き上がる気にはなれなかった。
深夜、日付が変わった頃だろうか、老人が起き上がりかがり火から離れていく気配を感じた。僕は用を足しに行ったと思い、寝たふりを続けた。だが、なかなか戻ってくる様子はなかったため、不審に思ったかがり火のそばに置いてあった松明を手に取り周りを見渡した。
燻製が入っているらしい高床式の建物から物音が聞こえてきた。唾を飲み込む音と石か何かをこすり合わせるような音だった。老人が何をしているのか突き止めようと建物に近づいたときに、中から声が聞こえた。
「おやおや、起こしてしまったようですな。早くかがり火まで戻った方がよいですぞ」
僕がさらに建物近づこうとすると、僕を制し、建物の中からヤシの殻を割った容器に入った飲み物を手渡してきた。
老人曰く、島の果実で作った酒で栄養があり、よく眠れるとのことだ。
僕は老人の言葉に従い、かがり火に戻ることにした。戻る途中で目の前で何かが落下するのが見えた、次に頭上から物音が枝や葉が揺れる音がして、見上げると1mほどの翼を広げコウモリが飛び去って行った。僕は驚き酒の注がれていたヤシの殻を落としてしまった。
ヤシの殻を拾おうとしゃがみ込みコウモリの糞が落ちていることに気が付いた。さっき目の前に落下したものはこの糞だろう。その糞の中には種子が詰まっていた。
ヤシの殻は凹の方を下にして落下してしまったため、中身の酒はすべて零れてしまっていた。
かがり火まで戻った僕は、コウモリの糞に混ざっていた種子について考えていた。
糞を見る限りでは、巨大コウモリは植物食もしくは雑食性だろう。
そもそも、本当にあのコウモリは人を捕食するのだろうか。
確かに、コウモリは巨大だった。だけれども、重さは僕の4分の1だろう。
その体重差がある中でわざわざヒトを襲うだろうか。おそらく無い。おいしい果実がそこら中にある環境で、わざわざケガするリスクを冒してまで自分よりはるかに大きい生物を襲うことはないだろう。
しかし、安心はできない。僕は人間を捕食することが可能な種にすでに遭遇してしまったのだから。
しばらくすると、老人がかがり火まで戻ってきた。
「おや、まだ眠っていないとは。先ほど渡したものは飲まなかったのですか」
老人の声はどこか神経質な感じがした。
「ええ、残念なことにコウモリの糞に驚いてこぼしてしまいました。今になって見ればそこまで必死に怖がるものでもなかったのかもしれません」
老人は口を閉じ瞬き一つせずに、僕を見据える。
「怖がるべき相手はコウモリたちではなかった。僕がこの島で見つけた生物の中で人間を狩って食らう生物は一種だけでした。……一匹といったほうが正確かもしれません」
老人は俯きながら笑い声をあげていた。老人は顔を上げ僕を嘗め回すように見ながら淡々としゃべっている。
「失敗したな。もったいぶらずに息の根を止めておくべきだった。コウモリの糞か、忌々しい畜生どもめ……」
僕は松明を手に取った。
「……やれやれ、気づかれてしまった。これは、難しい……難しい……」
僕は老人を見ながらゆっくりと夜の闇に後退していく。
「諦めるには実に惜しい、若いあんたは絶品ですからね……」
僕は松明を掲げながら夜の進んでいた。老人が追ってきている気配はないが、足を止める気にはなれない。本能が逃げろと告げていた。
やがて僕は浜辺にたどり着いた。この島にたどり着いた時と同じ砂浜である。
砂浜に松明を突き立て、水平線を見つめた。
この海の渡ろう。なんとしても、あの老人から逃げなくては……。
僕は何も考えずに水平線を見つめ続けていた。
空が明るんできた、顔を出した太陽が僕を読んでいるような気がした。
僕は太陽に向かって歩き出した。
この島の海は遠浅でどこまでも歩いて行ける気がした。けれども、水平線いつまでも平坦でどこにもたどり着くことはなさそうだ。 後ろを振り返れば老人とコウモリの島が、水平線に浮かぶ唯一のランドマークとして存在している。
「お前の行き場はここしかないぞ」と言わんばかりに。
照りつける日差しは体の水分と視力と方向感覚を奪い去り、僕はゼンマイ人形のように右へ左へよろけ足で進み続けた。
気が付くと僕は砂浜に倒れこんでいた。近くには燃え尽きた松明。結局のところ行き場はこの島しかないようだ。
例の老人にどう対処するかを考えた。
どうすれば、この島一匹唯一の人間を狩って食らう生物から身を守れるだろうか。
この島でとれる一番立派な獲物は、狩られて捌かれて焼かれて食べられて、食べきれない分は燻製にされるほかないのだろうか。
その答えを腹の音が答えた。
「お腹がペコペコだ。何か食べよう。例えば肉とか」
そうだ。あの老人に……
この島で見つけた生物の中で人間を狩って食らう生物は一種だけだが、一匹だけではないことを思い知らせてやろう。
突然だが、手記の記載はここで終了とさせてもらう。
もしあなたが僕の生死に関する結末を知るためにここまでこの駄文を読んでくれたのなら申し訳ない。
言い訳になってしまうが、老人と僕でどちらが生き残るかという情報はそこまで重要だろうか。
どちらが生き残ったとしても、この島には人食いの獣がうろついているという事実には変わりがない。
その個体が老いているか、はたまた若いか……。その程度の微々たる差だ。