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【BL】しあわせなお人形

作者: いろわに

激しい雨の降るハロウィンの夜、郊外の森林にぽつんとある洋館の扉を激しく叩く者がいた。この晩の為に仕立てたのだろう上等ながらも痛んでいるかのように作られたフロックコートを身にまとい、大粒の雨が強風に乗り強く打ち付ける中を傘もレインコートも無くしたのか酷く濡れそぼっているのはまだ二十歳にならないだろうと思われる長身の青年で、普段であれば女性も男性も目を奪われるだろう整った容姿は雨のせいか真っ青で血の気が引き、ハロウィンに現れた人を惑わす美しいゴーストのようでもあった。

見るからに重たそうな両開きの扉の片方が、やがて静かに開いた。自分が叩いたくらいではまるで響いた様子もない重厚な扉を前に半ば絶望しかけていた青年は喜色を浮かべ次に絶句した。

扉を開けたのは燕尾服に身を包んだ巨漢だったのだ。眉の無い酷薄そうな彫りの深い顔立ちに剃っているのか元から無いのかわからない見事なスキンへッド、長身の青年をしてなお見上げねばならぬ身の丈と青年がその男に腕を回したところで背中まで手が届くかわからない鍛えられた巨体を執事然とした衣服に包んでいるのは余りにもちぐはぐだった。

だが青年が呆然としていたのは一瞬だった。彼には一刻の猶予も無い事情があり、存在に違和感しかない大男に意識を向けている場合では無かったのだ。気を取り直す為にまばたきをしてから窮状を訴えようとしたところで静かに青年を見下ろすだけだった巨漢が体を横にずらすと青年を屋敷に迎えるべくエスコートした。

外から見たときは時折落ちる雷に照らされるばかりで邸内に明かりらしいものは無かったはずが、青年が一歩屋敷に足を踏み入れると足元の更に下、地下でもあるのだろうそこから何かが動きだしたような低い音が微かに響き、屋敷が息を吹き替えしたように明かりを灯していった。何がなんだかわからず困惑しきりの青年は、背後の扉が閉まる音に振り替えると変わらず佇んでいる巨漢に安堵を覚えた。足元から響いた起動音らしい音も落ち着きひっそりした屋敷は青年を伺っていると錯覚しそうで先ほどまで嫌というほど耳についた雨の音は遠く、別世界のようなこの屋敷にひとりぼっちで放り出された不安が青年の胸を占めたのだ。だが、巨漢はいなくなることもなく静かに佇み青年の言葉を待つように見下ろしていた。

青年は改めて自分が何者で、何が起こったのかを巨漢へ必死に説明した。


自分はワダツミノゾミという者です。家は裕福なのですが一年ほど前に両親と祖父母を事故で亡くし、巨額の遺産を急に継いでしまったばかりに遺産目当ての輩が多く現れ、家族を亡くしたばかりだというのに泣いていてはそのまま自分も死ぬかもしれぬほど気が抜けない休まらぬ日が続いていました。それでも自分を守ってくれていた数少ない親族が気遣ってハロウィンパーティーを楽しもうと招いてくれたのですが……


そこまで一息に話したワダツミと名乗る青年は、込み上げるものを押さえるように息を止めたが、瞳に浮かぶ涙を止める術は知らなかったようで巨漢を見上げたままほろほろと泣き出した。ワダツミの涙で巨漢が何かしらの反応をするより先に彼はうつむき、深く呼吸をするとまた止まらぬ涙はそのままに顔を上げ、時折しゃくりあげつつも話を続けた。


……自分の味方だと思っていた者達もまた自分の相続した遺産を欲していたんです。招かれたこの都心を離れた地で自分は殺されかけました。必死に逃げて逃げてここまで来たものの、慣れない土地とこの雨で時間も場所もわからないのです。礼ならどんなことでもしますからどうか自分を助けてください。とにかく彼らから逃げ延びて自分は帰らねば。生きて帰って彼らには法を与えなければならないのです。


ここまで強く訴えてふとワダツミは自分がここに逃げることも親族達は折り込み済みで、逃げ延びたと思っていたのが実は罠だったのでは無いかとワダツミなど簡単に殺せそうな体躯の巨漢を見上げて不安になったが、そんなはずはないと考え直した。親族達は明らかにあのパーティーの場でワダツミの命を奪う気で、彼が逃げ出すのは誤算といった様子だった。自分は逃げきれたはすだ、生きて帰れるはずだと祈るように巨漢をワダツミは見つめた。涙は一瞬よぎった不安で止まっていた。


巨漢は一度だけ目をそらすかのように背後の扉へ視線を向け、またワダツミを見下ろしそして口を開いた。

「この屋敷の主は貴方のように巨額の富を持つがゆえに人の醜さを知り、なげき、ここで人々から離れた暮らしをしております。貴方のご心情は察してあまりあるでしょう。私たちは貴方を助けることにまるで否やはありません」「ですが、」

淡々と言葉をつむぐ巨漢の言うことにワダツミは救われたかと安堵したのだが、無表情のように思われた巨漢がやや困ったような顔をした。

「この屋敷は地下のボイラーと蒸気機関を使った電力で独立しているのですが電話やパソコンといった特に外との連絡手段は無く、定期的に都心から配達を頼んでいますがそれも今日の昼に来てしまって次は来月なのです」「私どもも屋敷から出ることが無いので車等の移動手段もなく、外への救いを求めるようでしたら貴方ご自身がなにかしらお持ちで無いことには……」

そこまで言われてワダツミは慌ててポケットをまさぐり己のiPhoneを見てみたが、案の定圏外の表示がされていた。

「……いや、大丈夫です」

けれどワダツミが途方に暮れたのは一瞬だけだった。独り言のように呟くと手元に向けていた顔を上げて巨漢を見た。

「とにかくこの雨が止むまで休ませてはもらえないでしょうか。それだけさせてもらえれば長居はしません、自分はここを出ます」

どうであれ、帰らねばならぬと言うワダツミに巨漢は何かを言おうとしたが外が気になるのかまた扉に目を向けた。ワダツミも続いて伺おうとしたが、厚い扉の向こうからは微かに雨と風の気配が伝わるばかりでまるでわからない。どうしたのかとワダツミが問うより早く、ワダツミに視線を戻した巨漢が口を開いた。

「これからの事はまた改めて話しましょう。それよりもいつまでもそのように濡れたままでは風邪をひきます」

ポタリポタリと雨に濡れた足元で水溜まりが床を侵食している己に改めて気がついたワダツミは慌てたように体を払ってみるがまるで意味をなす行動では無かった。先程から幾度も扉を気にしていた巨漢が初めてワダツミの後ろ、屋敷の奥に顔を向けた。

「彼に貴方の世話を任せましょう」

言われて振り向いたワダツミの目の前に、顔が広がっていた。沢山の顔では無く、ひとつの巨大な顔だ。それの身長はワダツミと同じくらいかややワダツミより大きいようで気持ち見下ろされている気がワダツミにはした。日に焼けた巨大な顔の横幅はワダツミが両手を広げた程の広さでワダツミの胸元から頭より少し高いくらいの縦幅だ。その顔の下にはこれだけの重量を支えるに必要だろうと思える頑丈そうな体が巨漢と同じような燕尾服に包まれていた。顔はワダツミと目が合うとにぃと大きな口を横に広げて笑顔を浮かべた。人懐こいのかもしれないが、正直に言って怖い。今日一日でワダツミは色々な事を体験したが、この顔が目の前に来たのが一番衝撃で顔の笑顔に何かを返す術もなく、ただ巨漢と顔を交互に見やることしかできなかった(ワダツミとしては気絶しなかっただけでも称賛に値すると主張したいだろう)。

「ああ」

ワダツミの動揺に巨漢は気がついたのか軽くうなずく仕草をしたあとワダツミの背に手を軽く添えて顔の元に彼を促した。

「ネコの事ならお気になさらず、彼は少々人間が下手ですが闇雲になんでも食べる輩ではありません」

なにそれ

何一つの理解にも安心にも繋がらない。ワダツミにわかったのはそれだけだった。あと顔の名前はネコ。

ギャギャギャギャギャ

笑い声もどうかしている顔ことネコが愉快そうに巨漢からワダツミを引き受けた。

「とにかくお前風呂だにぁ」

しゃべり方もおかしい。ついてこいとネコがワダツミを先導する。戸惑うワダツミの後ろで扉が外から激しく殴られる音がした。そして、声。開けてくださいと訴える落ち着いた声にワダツミは覚えがあった。ネコのお陰で一瞬忘れていたが、今日自分を殺そうとした首謀者だ。追い付かれた、見つかった。その事実に足がすくむ。ワダツミと扉の間に佇む巨漢はただネコに目配せをし、ネコは世話のかかるお客さんだにぁとワダツミを肩に担ぎ上げた。動くことができなくなっていたワダツミは驚き、ずんずんと進むネコの肩の上でどうにか身を起こして扉を見やると巨漢がワダツミに向かって深々と頭を下げてみせた。

「……っ」

その姿はワダツミに安心するように言っているのかもしれないが、つい数時間ほど前、信じていた相手に裏切られたばかりのワダツミとしては、不安の方が大きかった。やがて屋敷の角を曲がり扉も玄関ホールも巨漢もワダツミの視界から消え、ただ見知らぬ屋敷の廊下ばかりが続いた。

「下ろしてください」

自分で歩けると言うワダツミの声は不安と動揺で小さく細かったがネコには届いたようで、また独特の笑い声と共に否定が返された。

「こんなに濡れた奴に歩かれたら後が大変だ。抱えて歩く方がまだましだにぁ」

俺は濡れるけどにぁと笑うネコは一度ワダツミを抱え直した。

「今にも喰われる鼠みたいだけど安心しろ。俺たちのナワバリに迎えたお客さんに酷いことなんてしにぁし、させにぁからにぁ」

ネコの肩に抱えられたワダツミはネコに目を向けようとしたが大きすぎる顔はまともに視界に収まらず、ただネコの黒髪だけが目に入った。

「そう言われてそうかと信じると思いますか」

「無理か」

「……ごめんなさい」

ワダツミの返事にネコは気を悪くした様子も無かった。また独特の笑い声を上げながら、信じられにぁのに素直に謝るのかと愉快そうに言い、ワダツミを赤面させた。

「信じられにぁってのは俺たちにはどうしようもにぁな、ま、お前が信じられなくても俺はオロチに任せておけとしか言えにぁけどにぁ」

オロチというのがあの巨漢のことだろうか。ワダツミは特に聞き返さないまま大人しくネコに抱えられ運ばれた。やがて幾度か廊下を曲がった後、広い浴室に続くのだろうパウダールームでワダツミはネコに下ろされた。

「その濡れた妙な服は適当に籠に放り込んでおいてくれていいぞ。俺は着替えになりそうなものを取ってくる。風呂はお前を歓迎してる、勝手に動くから操作の心配はいらにぁぞ」

ワダツミがネコに何を言っているんだお前はと返す間もあらばこそ、ネコはさっさと着替えを探しに行ってしまった。取り残されたワダツミの足元で早く脱ぎなよとばかりに籠がガサガサ動いていてわりと泣きそうだ。この屋敷から逃げたところで待っているのはワダツミを殺そうとしている相手だけだと思うと死ぬよりましかと思えないことも無いわけがなかった。死ぬのも嫌だがこの屋敷も死ぬほど怖い。間違いなく。せめてもう少し普通の屋敷のふりをしてくれないものだろうか。なんでこんな堂々と化け物屋敷ですと主張してくるのだ。しかも怖がらせてくるわけでもなく、むしろ怖くないよと歩み寄ってくる感じなのがより嫌だ。ワダツミの足元の籠はいつまでも脱がない事ですねだしたのか、うつぶせに震えている。どうしたらいいの。

「……ごめん」

生まれて初めてワダツミは籠に謝罪した。もしかしたら人間として初めてかもしれない。どうでもいい。

「よい造りだね。こんな濡れた服を入れて大丈夫かな、痛んだりはしない?」

生まれて初めてワダツミは籠に気を使った。もし以下略。

気を使われた籠は、一回転して仰け反るようにジタバタと足元で元気に動き、気にするなと主張しているようだった。ワダツミは静かに目を閉じると何も考えまいというていで黙々と一枚一枚丁寧に籠へ衣服を入れていった。実際は助けてという言葉で頭の中はいっぱいだ。

浴室に入ると待ちかねたと言わんがばかりに湯船とシャワーが歓迎してきた。熱いが気持ちが良いだろうお湯をシャワーは勢いよく出し、広い湯船は早く入れと言わんがばかりに気持ち良さそうだ(それがより嫌なのだが)。正直予想してはいたが予想通りの事態に膝からくずおれそうになるも、こんな見知らぬ屋敷で全裸によつん這いにだけはなりたくないしそんなところにネコだのオロチだのに来られたらと思うと目も当てられない。なんで自分はこんな事で平静を装わねばならないのだと思わないでもないが、何食わぬ顔でワダツミはシャワーに向かった。ら、浴槽が明らかにショックを受けた。

なんなの

「いや……さっきの籠もだけど、君も相当よいものだよね。まずは汚れを落としてから使わないと」

そもそもワダツミは祖父母両親が健在だった頃からその生まれ育ちで人から気を使われ、称賛される側であってこのように気を使い、称賛したことなど無い。更に言えば受けて来た称賛のほとんどが大げさで空虚な、ただワダツミの家に生まれたから与えられている言葉であって、年若いワダツミにもわかるほど上辺だけのものばかりだ。しかし、今ワダツミが籠や浴槽にかける言葉は途方に暮れたものではあったがワダツミが真実思うもので嘘ではない。自分で投げ掛けたものだが、嘘を与えられない籠や浴槽が少し羨ましい。ワダツミの胸のほとんどを占めているのが何をやっているんだ自分は、であろうとも。

広い浴室は半分が大きな窓でビューバスの造りだったが今は豪雨の為かブラインドカーテンが降りていた。中庭に面しているのだろう窓の外にやや興味もあったが、カーテンを少し開いて外を見ても窓を叩きつける雨と真っ暗な外が見えるばかりだった。あとちょっと広げられたカーテンが恥ずかしそうでげんなりしながら謝った。

汚れを落とし、冷えていた体温も回復させパウダールームに戻ると先程とは違う籠にバスタオルと衣服が入って置かれていた。これらも自分の使命にやる気満々なのだろうかと不安になったがうんともすんとも反応は無く、こちらの水分を吸う気満々のバスタオルの相手をしないで済んだことには心から安堵した。身につけるもの、まとうものには流石に意識は無いのかも知れない。タオルの問題を解決したあとにワダツミを悩ませたのが置かれている衣服だった。下着が無く、白い生地に膝丈で前ボタンがついている下履きとくるぶしまである裾がやや広がった長いシャツというクラシカルな屋敷に相応しいかもしれないが、現代で普段着用するものではないデザインなのだ。シルクなのが無駄にワダツミを苛つかせた。これしかないから置かれているのだろうか。ネコやオロチも普段これらを着用しているのだろうか。自分を含めた三人が着ている所を思い浮かべてワダツミは半笑いになった。せっかく戻った体温を冷まして風邪をひきたくは無い。渋々ながらも着用したワダツミが室内シューズを履いて廊下に出ると、オロチでもネコでもない長身で燕尾服の男が待っていた。オロチもネコも横に筋肉質で大きな体をしていたが、彼は(オロチほどではないが)縦に長く他二人よりやや細身だ。

「あんたがオロチ様が言ってたお客さんかい?」

大仰な身ぶり手振りで話しかけてくる男は名をネズミと名乗った。食堂へ案内するから着いてこいとネズミに言われてワダツミはようやく空腹を覚えそっと腹に手を添えた。途中玄関ホールを横切ったが扉の前の床にはもうワダツミの作った水溜まりもなく、来客があった様子は無くなっている。

「自分以外にお客さんはいないんですか?」

「うん?俺は聞いてないっすね」

先を歩くネズミがワダツミの質問に肩越しに振り返って答えた後、問うように天上に視線を向けた。なにかカサコソとした気配だけはワダツミにも感じられたがそれくらいしかわからない。

「あんただけみたいっすわ」

だがネズミには何かがわかるのかまたワダツミをチラリと見下ろすと前に向き直った。

大丈夫、全然慣れないけど大丈夫。ワダツミが自分に必死に言い聞かせている間に食堂へ着き、長いテーブルの次席の位置に一脚だけセットされていた椅子がひとりでに下がりだす。

とにかく生きて帰りたい。その一念だけでワダツミは椅子の様子に触れる事なく着席した。

テーブルにはパンとスープが置かれ、添えられているゴブレットには水が入っている。酒で無いのはワダツミの年齢が未成年とも成年ともつきにくい微妙なくらいであるからだろうか。温かな湯の後の温かな食事を前にここでとうとうワダツミの緊張が限界を迎えてしまった。本意では無かったがまたほろほろと小さく震えながら涙がこぼれだした。まだ何も終わっていない。むしろこれからだ。ワダツミの命を狙った親族は人脈も広く権力もある壮年の男だった。対してワダツミにあるのは若さと金と容姿くらいである。帰って訴えた所でもしかしたら存在ごと握りつぶされるかもしれない不安は多いにあり、もしかしたら、もしかしたら、あのとき殺されていた方がよっぽど楽だったかもしれない。目の前の温かな今とこれからの冷えた未来の差にワダツミは耐えられ無かった。テーブルナプキンがおろおろとうつむいて顔を覆うワダツミの両手をおっかなビックリつついてきた。両手を微かに開いたワダツミが泣きながらも苦笑ぎみに鼻はかまないから安心してと言えば逆に意を決したように涙も鼻水も拭うべく飛び込んできてワダツミを驚かせた。

「馬鹿だな」

まだ微かに涙がうかぶ赤い目でワダツミはナプキンを見つめると、そっと膝に広げた。食器類もどうやら意識がありそうだったが空気を読んだのか大人しい。ふと、パンをちぎりながらワダツミがやや遠くの食堂の扉の前に立つネズミに声をかけた。

「オロチさんやネコさんはどうしました?」

「俺ならいるぞ」

ネズミが答えるより先にネコが食堂の奥、厨房から現れた。

「お客さんにはしゃいでやつら全然落着きにぁ。片付けも満足にしようとしにぁから大変だ」

やつらと言うほど大勢の気配は厨房からはしない。ワダツミは改めて色々な事を考えまいと無の顔になりながら大変ですねとだけネコに言った。

「オロチ様は」

ネコの登場を待ってネズミがオロチについて口を開いた。

「ご主人を連れてくるそうっす」

いたのか

正直なところワダツミは主人の存在を忘れていた。そういえばワダツミと似た境遇だったか。人を嫌い郊外に暮らすまではわかるものの、どうしてこんな屋敷にしたのか、どうしてこんな屋敷で暮らせるのかまるで理解ができない。ソワソワと落ち着かない気持ちでパンを食べ、スープを飲み食事が終わる頃、ノックの音が食堂に響いた(食器たちは現れたカートに自ら飛び乗り退場していった)。ことさら恭しくネズミが扉を開くとのっそりとオロチが現れた。緊張したワダツミが息を詰めてオロチの後方を見やるが誰もいない。

「?」

困惑気味にワダツミがオロチに目を移すとこちらに向かってくるオロチは大事そうに50㎝はありそうな精巧な人形を抱いていた。オロチ達とは違う、やや古風で豪奢なスーツをいかにも主人然とした様子で着ている。

「人嫌いの大富豪!?」

あまりの事にワダツミは立ち上がって叫んだ。突然のワダツミの動きに椅子が驚いてたたらを踏んでいる。オロチは静かによくわかりましたねとワダツミに答えた。そういう事じゃない。

勢いよく立ち上がったものの、立っていられず腰が抜けたようになるワダツミを椅子が慌てて受け止めた。ワダツミの様子に構わずオロチは人形をそっと上座に置くと、座るワダツミを静かに見下ろしおもむろに語り始めた。


我々の主人の主人にあたる人間は遠い遠い過去の人です。今も尚使いきれる事の無い財産を持ち、それであるがゆえに醜い人間たちに囲まれ、醜さを嫌うあまりに病んでしまった方でした。彼は、美しい人形を造り、あたかもそれを己の子であるかのように接し、財産を人形に与えました。そして彼は、


自分を生け贄に私を喚んだのです


沈黙が食堂を包んでいた。ワダツミはオロチが始めた語りの着地点が読めず、ただ己を見つめるオロチを見返すしかできない。


人形を主人として護れ、それが彼の願いでした。ですから私は、この人形と人形が持つもの、土地、屋敷、財産全てをこれからも護っていくことでしょう。


淡々としたオロチの話にワダツミは居心地が悪くなっていた。今さらオロチの話を狂ってると否定する気は無い。ただ、何故そんな内輪の話を通りすがりと言ってもいい自分に言うのかがわからない。


「そこへ貴方が現れた」


いよいよ本題が自分に来たとワダツミは身のすくむ思いでオロチの話の続きを待った。


「貴方は」「私に」「どんなことでもするから」「助けてくれ」「と依頼と報酬を提示された」


ここで早々にワダツミは自分が言ってはいけない相手に言ってはいけないことを言ったのだと悟った。

「いや待ってください、落ち着いてください。あなたにはもう主人がいるでしょう。増やしていいものなんですか?」

「主人というならこの人形で二人目です。一人目は私を喚びだした富豪、そしてその富豪の願いで主人となったこの人形」「私は喚びだした相手だから願いを叶えた訳ではありません。報酬を与えられた依頼だから叶えるのです」

絶句するワダツミに何を思ったのかオロチは安心させるように微笑んだ。

「大丈夫です。だからといって願いの相反する依頼を次々同時に受けるなどということはしません」「例えば、貴方を護ると受けた依頼と同時に貴方を殺すなどという依頼はいくら報酬を示されても受けません」

そんなことは言われるまで思いつかなかったワダツミは親族より先にオロチに会えたのは不幸中の幸いなのだろうかと少しだけ安堵した。

「私にも好みがあります」

好みか。つっこみかけて今はそれどころじゃないとワダツミはぐっとこらえた。

「でもですよ、こちらは主従とか今さら求めていません。そういうのは改めてせめて友人はどうでしょう、こう、依頼報酬とか考えずに」

オロチが良いものなのか悪いものなのかワダツミにはわからない。ただ人ではないのはよくわかった。人でない以上、どんな価値観倫理観を持っているのかわからない。どんなことでもと言った報酬に何を求められるのか全くわからないワダツミはなんとか撤回しようと訴えた。

「わかった。ではノゾミ、」

「態度改めるの早いな!?」

「おかしかったか」

「いや、それでいいんですけど」

「で、だな。どんなことでもと言う話だったがこの人形になってはくれないか?」

「依頼報酬は考えずにとも言ったはずなんだけど!?」

「順番がある。最初にどんなことでもという報酬で救いを求め、次が報酬は抜きに友人となろうと言っただろう」

「好みで選んでいるんだよね!?」

「それは依頼人の話だ」

「僕はそんなにお前の好みに叶っていたの!?」

会話がどうでも空回りしているようでワダツミはとうとう投げやりな気分になってきたが、オロチは至極真面目な顔で頷いた。

「この上なく」

ワダツミの容姿は整っている。一目惚れだと言い募られたこともあるが、オロチの目に叶っていたとは思えず、彼の真っ直ぐな返事に何も言えなくなった。

「特に、己を殺そうとした相手に同じ復讐を考えずただ法に任せようとしたお前を俺は救いたいと思った」

「いや、それは別に普通では」

「俺の最初の主人は多くの欲に振り回され病みに病んでいた。お前は多くの欲に振り回され、信じていた相手の欲すら目の当たりにしてそれでもまだ病まずにただ助けてくれと訴えるばかりでどこに増悪をぶつけるでも無く生きようとしている」


それのなんと美しい事か


オロチの価値観がワダツミにはやはりわからなかった。

「だからそのままでいるためにも人形にならないか?」

オロチの価値観がワダツミにはやはり本当にわからなかった。危うくほだされかけた。

「人形にお前が宿るだけで死ぬわけではないんだ。お前は人形を護れと言う依頼、助けてくれと言う依頼で二重に俺が護ろう。そして俺たちには生きた美しい主人であり友人ができる」「良いと思うのだが」

屋敷のそこかしこで期待が高まるのをワダツミは感じた。思えばずっと彼らはワダツミに喜んでいた。この屋敷は長い間命に飢えていたのだ。

「……このままどうしても断ったとしたら、僕は助けてはもらえないのだろうか」

だからといってはいそうですかと人形になれるわけがない。逡巡しつつワダツミはオロチに問いかけた。

「いいや」

人形は持ちかけてみただけだ。

残念そうにオロチは言った。それならそれでお前の言う報酬でいい。

「それに友人を見殺しにはできないしな」

苦笑するオロチを見上げてワダツミは心の底から血迷ってハイなんて言わなくて良かったと内心で自分に拍手喝采した。

未来は冷たく暗いかと思われたがオロチのような味方ができたのだ。きっと生き抜いてみせる。ワダツミは椅子にもたれてほっと息をついてからこんどはゆっくり静かに立ち上がった。このような寝間着をよこすくらいだ、きっと寝室も用意してくれているだろうとネコに聞こうとしてふと改めて人形を見た。ワダツミと同じように真っ直ぐな黒髪でシルエットだけ見れば自分と似てなくもないが、人間の自分と違って完璧な計算の元に造られたその顔と似ているといえるほど流石にワダツミは自分の容姿に自惚れてはいない。

ワダツミという主人を手に入れ損ねてか、どことなく屋敷中が消沈しているように思えたのもあったが、助けてくれという願いを聞き届けてもらっておいて彼らの期待に応えられない申し訳なさもあり、主人を丁寧に抱き上げるオロチへワダツミは心から言った。

「君のその主人に君の願う魂が宿るよう、僕も願うよ」

言われたオロチは驚いたようにワダツミに目を向け、破顔した。


「その言葉を待っていた」



11月も末の頃、一台の配達トラックが郊外の森の奥にあった。そこには手入れの行き届いた美しい洋館が佇んでいる。もう少し交通の良いところにあれば観光客を呼べそうなくらいで、屋敷の裏口にトラックを止めた配達員はいつももったいないと配達を受け取る屋敷の者に言ってはそればかりだと笑われていた。いつも通りに思えた仕事に配達員はふと違和感を覚えた。推された印鑑がいつもと違っていたのだ。

「ああ、オーナーが変わったんすよ」

長身のまるで似合わない燕尾服を着て執事を気取る青年が言った。推されたワダツミの名は配達員も少し知っていた。今月の初め頃親族に命を狙われ生還した主人公として数日ワイドショーの主役だったのだ。親族は行方不明だと指名手配され、ワダツミ本人もプライバシーを優先されたのかテレビそのものに映る事は確か無かった。同じワダツミかどうかはわからないが、いるなら顔を覗けないものかとチラリと屋敷内に目を向けたがゴツい執事がやけに丁寧に人形を運ぶ姿がチラリと見えただけだった。

「うわ」

配達員を咎めるように太ったネズミが足もとで鳴いて走り去っていく。

「あんなでかいの初めて見た」

「ちょっと前までいいもん食ってる肉ばっか喰ってたっすからね」

「駆除業者呼んだほうがいいですよ」

「屋敷のネズミってわけじゃないっすからね」

「ああ」

屋敷を囲う鬱蒼とした森を見て配達員は同情するようにため息をついた。

「ではまた中旬くらいに配達表送りますんで」

「うっす、よろしくっす」

去っていくトラックを見送るネズミの足もとに現れたネズミがまた抗議するかのように鳴いた。

「だから呼ばねーって」



美しい人形は自分を大事そうに抱えるオロチの腕の中でため息をついた。手入れされた中庭に面するサンルーフへ行きたいと願って連れていってもらっているところだ。もう少ししたらネコもお茶のセットを乗せたカートを押して来るだろう。

ワダツミの体はまるでおとぎ話のように主寝室で眠っている。ワダツミの魂があるかぎりはそのままで存在するのだそうだ。百年より長く、永遠にきっと眠り続けるのだろう。

この屋敷の者にとってワダツミの価値は富では無くその在りようだと言う。そんなに間抜けなお人好しが好きかと聞いても拗ねるなと穏やかに笑われるばかりだ。そっとワダツミは腕をあげてオロチの顎下から喉を撫でた。本人が気がついているのかは知らないが、オロチはこれが好きなようでワダツミがすると嬉しそうにどうしたと見てくる。ここには常にワダツミを取り巻いていた空虚がない。オロチ達がワダツミにはわからない価値観でワダツミを選ぶなら、ワダツミもオロチ達がわからずワダツミに与えているものをもらおう。運ばれたサンルーフは穏やかにワダツミとオロチを迎えた。

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