94 ヴィオラの休日
94 ヴィオラの休日
休日であるその日、私はいつもより早く起床した。
普段は日の出を告げる鐘の音で目が覚めるが、今日は半時くらい早いだろうか。
窓の外は薄明るい程度だが、既に小鳥がさえずっている。
昨日は寝付きもあまりよくなかった。
やはり、〝今日の予定〟が楽しみで目が冴えてしまったのだろうか。
それを思うと、私は己の単純さに呆れてしまう。
とりあえず、風呂の準備が整うまでは今日着て行く服を選ぶ時間に充てる。
外出に相応しい格好、という基準で服を選んでいるつもりが、いつの間にかジョージが喜んでくれそうな格好、という基準になっていた。
それに気付いた私は、再び頭を抱えて一人で恥ずかしがる。
そんなこんなで服を選び終えると、いつの間にかお風呂の時間となる。
私は普段通り私室を出て、離れの浴場へ向かう。
貴族用の女湯である離れの浴場は、相変わらず寂しいくらいに空いているが、湯女だけは十分すぎる数が揃っている。
私はいささか過剰すぎる待遇にいつまでも慣れずにいたが、湯女に体の手入れを頼みつつ、ついつい長風呂を楽しんでしまうのが常だ。
「なんだか、今日はご機嫌よろしゅうございますね」
ふと、体を洗ってくれる最年長の湯女に、そんな言葉をかけられる。
やはり、傍目からもそう見えてしまうのだろうか。急に恥ずかしくなった私は気の利いた返しもできず、「いえ」だの「はい」だの適当な返事をしてしまった。
考えてみれば、ジョージとの外出を楽しみに思うことに、引け目を感じる必要はない。だが、不思議と気恥ずかしさが先行してしまう。
昔から、こういうところが〝素直じゃない〟と自分でもよく思う。人目を気にしすぎると言うか、自意識過剰と言うか、こればっかりは自覚していても直すことができないから困りものだ。
そんなことを考えつつお風呂を上がった私は、朝食を済ませてから私室に召使いを呼び、着替えを始める。
普段は薄い色のドレスを好んで着ているが、今日は少し赤みが強く首周りが開いているものを選んでみた。少し派手すぎだろうか。
「政務かお食事以外で外出されるのはお久しぶりですね。よくお似合いですよ」
などと、着替えを手伝ってくれた若い召使いが声をかけてくる。
言われてみれば、仕事と夕食以外で外に出かけるのは久しぶりだ。先日、ジョージと一緒に収穫祭見物をして以来だろうか。
私は基本的に出不精だ。というより、休日でも仕事が気になって王宮内をウロウロしてしまう。
もともと、休日に羽を伸ばすが苦手なのだ。
そして、着替えを済ませた私は召使いを帰して独り私室で佇む。
予定では、ジョージが部屋まで迎えに来てくれることになっているが、細かい時間までは決めていない。
ジョージが来るまで特にやることはなかったが、ついつい鏡が気になってしまう。
何度鏡を見ても、メイクや服装、髪のセットに問題はない。手慣れた召使いに手伝ってもらったのだから、それも当然だ。
しかし、身なりに拘ったところで、ジョージはあまり小さな変化には気づいてくれない。
ジョージは、仕事や立ち振舞いは割と気が利く方だが、その視線は常に私の顔か胸元にしか向いていない。男というのは、皆そういうものなのだろうか。
ただ、さすがのジョージも、普段は着ないこのドレスには驚いてくれるだろうか。
そんなことを考えていると、不意に部屋の扉がノックされる。
驚いた私は椅子から飛び上がり、高鳴る胸の鼓動を感じつつ出入り口へ向かう。
そして、軽く深呼吸をしてから扉を開け放った。
「すいません、遅くなっちゃいました」
すると、普段とまったく同じ格好をしたジョージが扉の奥から姿を現す。
私が適当に返事を返すと、ジョージはさっそく私の格好を見て驚いてくれた。
「なんて言うか、今日は随分と可愛らしい格好してますね」
そんな漠然とした褒め言葉でも、面と向かって言われると嬉しくなる。
どうやら私は、素直じゃないけど呆れるほどに単純らしい。
などと自覚しながら、私はジョージに連れられ部屋を後にした。
* * *
今日の外出は、特に目的地が決まっているわけではない。
収穫祭の時に中断された王都案内の続きをするため、適当に街を散策するといった予定になっている。
とは言え、カスタリア王都はそれほど観光地が多いわけでもないので、収穫祭でもなければさしたる見所はない。
主要な市場や名所を回り終えたところで、私達は王都の南端である正門前に到達していた。
開け放たれた正門の前は広場になっており、出入りする商人や旅人が積み荷のチェックや手続き待ちで一休みしている。
私達は広場から少し離れた城壁のたもとに腰を下ろし、軽く休憩をとることにした。
季節はそろそろ冬になるが、今日は天気もいいので歩き続けていると少し汗ばむくらいの陽気だ。
「とりあえず、私がご案内できそうな場所は全部回り終えました」
そんな私の言葉に対し、ジョージは申し訳なさそうに頭を下げて応じる。
「すいません、僕から誘っておいて案内までさせちゃって……」
その言葉通り、この外出を誘ってくれたのはジョージだ。
私はジョージが一緒であればどこで何をしようとそれなりに楽しめるので、案内役くらいお安いご用なのだが、それを恐縮されると返す言葉に困ってしまう。
そもそも、ジョージは基本的にとても腰が低い。一応付き合っているのだから、もう少し気楽に接してくれてもいい気はする。
と思いつつ、私もジョージに対しては未だに敬語を使っているので、人のことは言えない気がしてきた。
やはり、恋人同士にしてはよそよそしすぎるだろうか。
「そう言えば、私達ってずっと敬語のままですよね」
そんな私の問いかけに対し、ジョージは真顔で言葉を返す。
「じゃあ、二人きりの時は敬語やめようか?」
私は、そんなジョージの言葉遣いが可笑しく思えて、ついつい笑いをこぼしてしまった。
「フフ、なんだかすごく無理してる感じ。まあ、無理やり言葉遣いを変える必要もないんでしょうけど」
「なんか、お互い敬語に馴染んじゃってますもんね」
そんな言葉を交わし、私達はクスクスと笑い合う。
すると、不意に左手にこそばゆい感触が伝わる。
視線を下げると、どうやらジョージの右手が偶然私の左手に触れてしまったらしい。
「あっ」と声を上げたジョージは、すぐさま右手を引き上げる。
と思いきや、ほんの少し間を置いてから再び私の左手に手を添えた。
この接触は偶然ではない。
今のジョージは、意図して私の手に触れている。
それを思うと、まるで左手から伝わる温もりが全身に伝播したかのように、体全体が熱くなっていく。
驚きはしたが、不快感はない。むしろ、嬉しくさえ思う。
だけど、今の私は顔も耳もバカみたいに赤くなっているだろう。
私は、手が触れているという事実よりも、自分の顔色が気になってしまい、ジョージから顔を背けてしまう。
だけど、ジョージから求めてきたこの接触を、拒絶しているとは思われたくなかった。
私はその意思を主張するため、視界の外で左手を動かし、ジョージの右手にゆっくりと指をからめていく。
そして、固く指を交り終えると、全身を覆っていた緊張が徐々に安堵へと変化していく。同時に、心がぽかぽかと温まっていくような幸福感が沸き上がってきた。
なぜ、手を握っただけで幸せを感じるのか。
それは、こうして肌の温もりを交わすだけで、互いの気持ちを直に感じ取ることができるからだ。
互いの気持ちを確かめるのに、必ずしも言葉が必要というわけではない。
ましてや、言葉遣いなど些細な問題でしかない。
ジョージは、私のことを愛してくれている。
そして私は、私を愛してくれるジョージのことを愛している。
言葉にすれば気恥しいそんな気持ちも、手と手を重ねただけで簡単に伝えあうことができる。
この接触は、言わば対話だ。
ジョージは私を求めた。
そして私は、その気持ちに応えた。
私は今まで、他人に縋ることに強い抵抗感を抱いていた。
他人に縋れば、迷惑をかけてしまう。だからこそ、常に自立していようと心掛けていた。
だが、そんな私をジョージは変えてしまった。
ジョージは私を求めてくれる。私の全てを受け入れてくれる。だからこそ、私は安心してジョージに縋ってしまう。いや、もっと縋りたいと思ってしまう。
そして、ジョージはそんな私の心を見透かすかのように、真剣な眼差しを私に向ける。
私は、たまらずその視線に誘われ、吸い込まれるかのように目と目を交わす。
こんなのって、卑怯だ。
だって、ジョージに求められたら、私はもう拒絶できないのだから。
もう死にたいくらい顔と耳が真っ赤だろうに、ジョージは私を逃してくれない。
だから、私は全てを諦めて目を閉じた。
いや、諦めじゃない。私も期待しているのだろう。
本当に、ジョージは卑怯だ。
そう思うと同時に、唇にこそばゆい感触が伝わる。
その感触に、ジョージの想いが乗せられている。とても力強く、底抜けに優しい、とても単純な想い。
同時に、私の気持ちも伝わっただろうか。
アナタに縋っていたいという、子供のように我儘で、素直な気持ち。
そんなことを考えていると、不意に視界の外から口笛のような音が響く。
続いて、はやし立てるような声が続いた。
「見せつけてくれるねぇ!」
それは、正門前で一休みしていた旅人の声だった。
驚いた私は、すぐさまジョージから顔を離し、深々と俯く。
それもそうだ。
こんなところですれば、見られて当たり前だ。
私は自分の軽率な行動を酷く後悔し、ぎゅっと目を瞑る。
だが、ジョージと繋いだ左手だけは、決して離さなかった。
「す、すいませんヴィオラさん。あの、これは何というか……」
ジョージもすっかり普段通りの態度に戻り、情けない声をかけてくる。
だけど私は、そんな風にしてすぐ弱気になるジョージのことも、嫌いになれそうになかった。
だから私は、全てを誤魔化すために、無理やり笑うことにした。
フフフと声にもらし、徐々に肩を震わせる。
そして、気付いたときには腹を抱えて大笑いしていた。
自分でもはしたないと思った。
だけど今は、笑わずにはいられなかった。
「あの、ヴィオラさん?」
そんな私の姿を見たジョージは、かなり当惑した様子だ。
だが、すぐに耐えきれなくなり、私につられて笑い始めた。
すると、私達の姿を見ていた旅人も終いには笑い始める。
「お幸せに!」
旅人は、笑いながらそんな言葉を吐いて門の外へと消えて行く。
そして、彼の背中を見送った私は、をようやく心を落ちつけることができた。
同時に、今日はなんだか素直になれそうな気がした。
正直な自分の気持ちを、言葉にできる気がした。
だから私は、だだをこねる子供のように、上目遣いでゆっくりと口を開く。
「ねえジョージ。私のこと、ずっと好きでいて……」
それは、ジョージの心を縛りつける卑怯な言葉だ。
だけど、ジョージも私に卑怯なことをしているのだ。だから、これはお返した。
そんな気持ちを込め、私はイタズラっぽく笑みを浮かべる。
そんな私の要求に対し、小さく「うん」と呟いたジョージは、指を絡めた手に力を入れていく。
そして、永遠の愛を誓う印を、私の唇に捧げた。