70 心配
70 心配
「危ない!」
熊男が間近に迫ったその瞬間、承治は咄嗟にヴィオラを庇うように突き飛ばしていた。
二人が地面に倒れ込むと同時に、熊男は脇を抜けて走り去っていく。
「二人とも大丈夫ですか!」
すると、既に虎男を組み伏せている長岡が声をかけてくる。
承治は長岡に返事をすべく体を起こそうとしたが、ふと左腕に違和感を覚えた。
そのまま視線を下げると、自慢のスーツが肩から袖口まで真っ赤な鮮血に染まっている。
どうやら、熊男とのすれ違いざまに斬りつけられたらしい。
「クソッ、アイツにやられたのか。結構深いな」
あまり痛みを感じなかったので取り乱さずにいられたが、血が大量に流れているところを見ると嫌でも気分が悪くなる。
だが、そんな気分を吹き飛ばす大声が傍らから轟いた。
「ジョージさん! 血、血がこんなに……とにかく、安静に! 体を動かさないでください!」
そう告げたヴィオラは、顔を真っ青にして狼狽し始める。
承治はそんなヴィオラの反応が少しオーバーに思え、逆に冷静になってしまった。
とりあえず、止血が優先だ。
そう考えた承治は、スーツの上着を脱いで傷口に当て、そのまま袖の部分が腕から垂れるように調整した。
「ヴィオラさん。この袖で傷口をきつく結んでもらえますか?」
異様に冷静な承治の指示に対し、ヴィオラは慌てて止血に取りかかる。
震える手で袖をしっかり結んだヴィオラは、そのまま上着に覆われた傷口を両手で強く押さえた。
すると、滲み出た鮮血がヴィオラの手を染め、綺麗なドレスを汚していく。
「血で汚れちゃいますから、後は僕が押さえますよ」
そんな言葉に耳も傾けず、ヴィオラは血に染まる手でひたすら傷口を押さえつける。その様子は、明らかに冷静さを欠いていた。
そんなヴィオラの姿を見ていると、承治は徐々に申し訳ない気分になってくる。
そして、自然と自嘲じみた言葉を口走っていた。
「僕ったら、何やってんでしょうね。ヴィオラさんくらいの実力があれば、あんなヤツ返り討ちにできたかもしれないのに……勝手に邪魔して怪我までして、みっともないですね」
「違います! 私が精霊魔法を行使できなかったのが悪いんです! でも、どうして……」
そう告げたヴィオラは、片手でポケットをまさぐりウラシムの宝石を取り出す。
そして、宝石を覗き込みつつ唖然とした様子で口を開いた。
「魔力が枯渇していたんですね……私ったら、使った後に確認もしないで……」
どうやら、原因は魔力不足だったらしい。先ほど、黒煙を吹き飛ばすために風魔法を一回使っていたので、それが最後の力だったのだろう。
だが、結果的にヴィオラは傷つかずに済んだ。
熊男は取り逃してしまったが、ヴィオラが無事だったなら怪我をした甲斐があったというものだろう。
「とりあえず、ヴィオラさんが無事でなによりです」
そんな何気ない承治の一言に対し、ヴィオラは声を荒げる。
「なによりって、承治さんは怪我しているんですよ! どうしてそんな、平気みたいな顔して……」
その刹那、ヴィオラの瞳からはらりと一筋の涙が流れる。
不意の出来事に、承治はかなり驚かされた。
なぜ、ヴィオラは泣いているのか。
承治がそんなことを考えていると、いつの間にか長岡がヴィオラの傍らに立っていた。
「すいません。捕まえた強盗からなかなか手が離せなくて……ヴィオラさん、もう大丈夫ですよ。大月さんには僕が回復魔法をかけますから」
そう告げてヴィオラと場所を入れ換わった長岡は、承治の傷口に手を当てて呪文を唱える。
『ハイレン』
すると、承治の肩に刻まれた切創は一瞬にして癒えてしまう。
承治が回復魔法をかけてもらうのはこれで三度目になるが、相変わらず凄まじい治癒力だ。
これがあれば医者いらずのように思えるが、魔法の源となるウラシム鉱石が希少であることを考えると、実際はそこまで気軽な技でもないのだろう。
そもそも、ウラシム無しでいくらでも魔法が使える長岡自体が、この世界では特別なのだ。
「いやぁ、助かったよ。相変わらず長岡くんの回復魔法は凄いな。すっかり元通りだ」
そう告げた承治は、ヴィオラに結んでもらった上着をほどいて目の前に広げる。
怪我は綺麗に治ったが、止血帯代わりに使ったスーツの上着は血に染まり、斬りつけられた肩口は破れたままだ。
そのスーツは、承治が転生に際して持ち込んだ唯一ともいえる日本製品だった。
元は紳士服チェーン店で買った安物だが、今では承治が元日本人サラリーマンだったというルーツを示す、大切な品になっていた。
もちろん、服なのでいつかはダメになると思っていたが、いざ失われるとそれなりにショックを受ける。
だが、承治は服なんかのことよりも、先ほどヴィオラが見せた涙のことが気にかかっていた。
初めて見たヴィオラの泣き顔は心底切なげで、何かを訴えかける悲痛な感情が内包されているように見えた。
ヴィオラは、そこまで承治のことが心配だったのか。それとも、怪我や血を見て感情が昂ぶってしまっただけなのか、ヴィオラの本心は窺い知れない。
とは言え、そのヴィオラを心配させた怪我はあっけなく治ってしまった。
腕が問題なく動くことを確認した承治は、立ち上がりつつヴィオラの様子を伺う。
手と服を血で汚したヴィオラは、どこかいたたまれない表情を浮かべて呆然としている。まだ完全に落ち着いてはいないようだ。
承治としては、ヴィオラの危機を助けたつもりだったが、結果的にヴィオラへ変な気を遣わせてしまったようだ。
その事実にどこか釈然としない感情はあったが、ヴィオラが怪我をするよりは何倍もマシだろうと思った承治は、気を取り直してヴィオラに声をかける。
「とりあえず、どこか水場を借りて血を流しましょうか」
そんな承治の提案に対し、ヴィオラは弱々しく頷いた。