0 異世界デスクワーク
0 異世界デスクワーク
「あら、ジョージさん、ここに誤字がありますよ」
「ん? ああ、ホントですね。ありがとうございますヴィオラさん」
そう告げた承治は、ヴィオラから受け取った書類の誤字に取り消し線を引き、訂正印を押す。
そして内容を再度確認し、〝清書行き〟と書かれたラックに書類を入れた。
それは、承治がこの世界に来る前から、幾度となくやってきた動作だ。
そして承治は思う。
異世界に来ても、サラリーマン時代とやってること変わらなくない? と。
承治の働くこの場所は、現代日本のオフィスなどではない。
室内に電灯はなく、プラスチックのような石油製品も一切見当たらない。石作りの壁に木製家具の並ぶその室内は、中世ヨーロッパを思わせる古風な空間だ。
そして忘れてはいけないのが、この世界はエルフや獣人、ドラゴンや魔法といったファンタジーが蔓延る〝異世界〟だと言うことである。
そんな世界で承治に与えられた今の仕事は、俗に言うデスクワークだ。
己の作成した公文書や企画書、稟議書などを上司であるヴィオラ女史に閲覧してもらい、決裁を受けている。
当然、大事な書類に誤字脱字があってはならない。
――誤字脱字は仕事をしていない証拠だ。
それは、かつての職場でカミサマと崇められていた部長様の口癖だった。
部長は、ひとたび誤字脱字を見つけると鬼の首を取ったかのように喚き散らし、その書類に判を押した人間全てを呼びつけ、「お前たちは何を見ているんだ」と、よく叱責していた。
昔の職場のことを思い出した承治は手を動かしながら背筋を震わせる。そんな経験も、今や過去の思い出だ。
今の承治に与えられた職場環境は、以前に比べて格段に居心地が良かった。
承治が淡々と仕事をこなしていると、席を立ったヴィオラが声をかけてくる。
「ジョージさん。そろそろ休憩にしましょう。お茶、いりますか?」
「あ、お願いします」
上司であるヴィオラは、端的に言えばとても偉い役人だ。
ヴィオラは己の立場を鼻にかけることもなく、また高慢に振る舞うこともない。
美しく聡明で、心優しい気の利いた素晴らしい上司だ。
その上司自ら部下にお茶を出すなんて、前の職場では考えられなかった。
飲みたくもない缶コーヒーを部長に奢ってもらった事はあったが、あれはカウントしなくていいだろう。
承治がそんなことを考えていると、エルフ族特有の長い耳をヒョコヒョコと揺らしたヴィオラがティーカップを差し出してくる。
「はいどうぞ」
「すいません、こんなことさせちゃって。お茶出しなんて、部下である僕がすべきなのに……」
「フフ、相変わらずジョージさんは生真面目ですね。私はそういうの気にしませんから」
ヴィオラの気遣いに顔をほころばせた承治は、受け取ったティーカップを口元に運ぶ。
その瞬間、承治の舌は未だかつてないほどの強烈な刺激を受けた。
「辛っっっっっら! えっ、なにこれ! えっ、苦いの? 辛いの? 味ヤバイでしょコレ! 飲み物じゃないってコレぇ!」
その反応に、ヴィオラは驚いて申し訳なさそうに両手を口に当てる。
「ご、ごめんなさい! つい、貰い物のエルフ用のお茶を出してしまいました! その、これはマンドレイクのお茶で、滋養強壮にはいいらしいんですが……」
マンドレイクって、あの根っこに顔がついてて引き抜くと勝手に歩き回るというアレですか。モンスターじみた化け物すらお茶にしてしまうとは、さすが異世界といったところだ。
承治は、悲鳴を上げながら切り刻まれるマンドレイクの姿を想像しつつ、お茶を綺麗に吐き出して、己の身を案じる。
「これって、人間の僕が飲んでも大丈夫なんですか?」
「さあ……」
さあ、ってアンタ。この世界に食品衛生法が無いことが悔やまれる。
とりあえず己の体に異常がないことを確認した承治は、気を取り直してヴィオラの気分を害さないように平静を装う。
「普通のコーヒーとか、ハーブティとかってないんですか?」
すると、ヴィオラはパッと表情を明るくして応えた。
「それでしたら、近くの森で取れたエレメンタルハーブのお茶がありますよ! なんでも、地脈から多くの魔力を吸い上げて育ったもので、精霊の力がすごい蓄えられてるんですって。私も力の成長を試す儀礼の前にはいつも飲んでて……」
「ああ、やっぱり僕は普通の水でいいです。その辺の井戸で汲まれたやつで」
そんな承治の投げやりな言葉に対し、ヴィオラは耳を垂れ下げてしゅんと表情を暗くする。
今後は人間用のお茶も調達する必要がありそうだ。仕事に関係のない嗜好品ではあるが、それくらいの経費なら福利厚生費で落しても文句は言われまい。
などと、事務屋らしいことに頭を巡らせた承治は、コップに注がれた井戸水を飲みつつ仕事に戻った。