3 side・バルジオーザ 【花嫁の匂いに包まれて】
イドラーバの城で暮らしているのは、我とその配下およそ五十数名だ。
配下は基本、王たる我の力を吸収して生きているので、人間のような食事をとる必要はない。
しかし、必要のためではなく純粋に楽しみのために食べることがあるし、また角の小さな者は力の吸収が少ないので、食べ物からも力を得なくてはならない。角のない者はもちろんのことだ。
そのため、角の小さな者やない者たちはそれなりに農業を営み、狩猟・採集も行って一部を城に納めている。それらを調理する料理番もいた。
「花嫁様、さかな、食べられた? よかったですぅ」
しわくちゃの顔で笑い、片言のイドラーバ語で話すのは、料理番の老女エドラ。
彼女は、珍しい「混血」……つまり、イドラーバの民とフォッティニアの民の混血である。フォッティニアではそのような存在は忌み嫌われるらしく、彼女にはイドラーバで暮らす以外の選択肢はなかったようだ。
「急に、フォッティニア人の食事を用意しなさい、言うから、国境の川で魚を釣って、あとパンしか作れなかったよぅ。倉庫の食べ物、傷んでる。いっぱい捨てました」
エドラは困り顔だ。フォッティニア人のオリーヴに、いきなりイドラーバの食べ物を食べさせるわけには行かない。
「そうか。フォッティニアの食材は、皆それほど好まないからな」
我は鼻を鳴らし、そしてニヤリと笑ってみせる。
「待っていろ、すぐにオリーヴの分を奪ってくる」
わざと軍用の食料の馬車を襲い、戦いに持ち込むのは、たまにやる遊びのひとつだ。ついでに食料の一部を奪っては来るのだが、イドラーバの民は自国の食材の方を好むので、食べないまま腐らせることも多かった。
エドラはにっこり笑った。
「王様、最近、あまり戦いに行ってなかったですもんネー」
そしてふと、瞳孔が縦に開いた目を見張る。
「あ、今日、王様ここ来るの珍しい!」
確かに今までは、用があれば我の方から呼びつけていた。わざわざこの厨房──エドラの住処にもなっている──に足を運ぶなど、普通はしない。
「他に用があった。ついでだ」
我は身を翻すと、厨房から外廊下を通って裏庭に降りた。
このあたりは元々は他国の領地で、この城にも人間の領主が住んでいたが、打ち捨てられて久しい。我らイドラーバの民が住み着き、徐々に王の力が籠もって、我らにとって心地のいい空間になった。
そんなわけで裏庭には、人間が住んでいた頃の名残で洗濯小屋がある。我らは布類のほとんどは汚れ朽ち果てるに任せ、新しいものに換えてしまうだけなので、この場所はたまに使用人が使う程度だった。
しかし、オリーヴが、このような場所が欲しいという。花嫁の望みだ、応えてやらねばならない。
我は石造りの小屋の入り口に立つと、両手を扉の枠にかけた。目を閉じ、力を込める。
小屋の空間がたわむ。裏庭の空気が遠くなり、逆にオリーヴのいるあの部屋の空気が近づく。
やがて、オリーヴの部屋とこの小屋が、扉でつながった。
そうだ、井戸もいる……外にある井戸もつなげて……これで良い。いや、待てよ。
我は天井に細工をして、フォッティニアの青空が見えるようにしてやった。
「青空の元、壁に囲まれた洗濯場。オリーヴの家の裏庭……我とオリーヴの、出会いの場所のようだ。ふっ……」
我は前髪をかきあげると、振り向いた。
エドラがじーっと我を見ており、首を傾げた。
「王様、ご機嫌?」
「うるさい」
言いながらも、我は機嫌良くその場を後にして城に入った。
後は、オリーヴのために食材と、フォッティニアの空気をこの小屋に引く準備をしてくることにしよう。ここに必要な細かいものは配下に用意させて、我が戻ったら最終確認だな。
「そう、我の服も洗うと言っていたな。出発する前に置いておくことにしよう」
ふふ……と低く笑っていると、城の天井にいたコウモリたちが、なぜかあわてたように飛び立ち逃げていった。
フォッティニアでの「用事」を済ませ、城に戻る。
さっそくオリーヴの部屋に行ってみた。扉を細く開けてのぞくと、寝台に彼女はおらず、洗濯小屋に通じる方の扉が開いていた。
小屋に通じる方の扉から、覗き込んでみる。
オリーヴがあたりをキョロキョロ見回していた。
どうだ、気に入ったか? 我の心遣いがわかったか。
……いや、しかし、我に惚れるなよ。「あの予言」を成就させないためには、我らはなるべく近寄ってはならないのだから。我が遠くから、一方的にお前を愛でるだけでいいのだ。
オリーヴが振り向き、我に気がついたので、声をかける。
「望み通りにしてやったぞ。自分がどれだけ恵まれているかわかったら、これ以上の欲をかかずに大人しくしていることだな!」
厳しく言い残すと、我は翼を広げて窓から外に出た。
ふふふ、オリーヴは喜んでいることだろう。さて、少し自室で休むか……
気がついたら、夕方だった。
何たることだ、オリーヴを遠くから愛でる時間を、ずいぶん無駄にしてしまった。食事はしっかり取っただろうか。
我は急いでオリーヴの部屋に向かう。扉を細く開け、中を覗き込むと……
寝台に、オリーヴが横になっていた。枕に頭を載せるのではなく、寝台に対して横方向に身体を横たえ、足は膝から下が降りている。疲れてしまい、ちょっと横になって……といったところか。
我は静かに、彼女に近づいた。
洗濯をしていたのか、美しい黒髪は結い上げてある。横顔、後れ毛のかかる白いうなじ。まくり上げた袖から、すらりとした腕。眠っている間に落ちたのか、片方の靴が脱げて、愛らしい指が見えている。
まるで絵画のようだ……
見とれていると、ぴくり、とオリーヴの瞼が動いた。
我はサッと身を翻し、扉の向こうへ退避した。そして改めて、顔をのぞかせる。
「ん、おっと、寝ちゃった……あ」
オリーヴが身を起こしながら、我に気づいた。やや表情が硬くなる。
「何か、御用……?」
「どうしようと、我の勝手だ。ここは我の城なのだからな」
我は凄んでみせる。
お前のことも、どうにでもできるのだぞ……寝顔を見つめることも、遠くから愛でることもな!
オリーヴはそれには答えず、急に立ち上がると、
「そうだ、アレ」
とつぶやくなり小屋の方の扉を開けて出て行く。
何だ。どうしたのだ。
我も小屋の方の扉に行くべきか迷っていると、彼女はすぐに戻ってきた。
手に、白いもの──我のシャツ。
「血の汚れ、落ちました」
寝台の上で手早くたたむと、オリーヴは我に向き直って少しためらってから、ゆっくり近づいてきた。我はサッと、頭を引っ込める。
ち、近づくなっ。
「人間風情が近寄ってすみません、これ渡すだけだから。はい」
すっ……と、扉の隙間から、シャツを持ったオリーヴの手が出てきた。
「アイロンがないから、ちょっと皺はあるけど」
「…………」
我はサッとシャツを奪い、そのまま無言で廊下を走り去った。
窓にとっては幸いなことに、窓は開け放したままだった。割ることなく外へ飛び出し、同時に翼を広げる。
玉座に戻り、腰を下ろすと、我は手にしたシャツに視線を落とした。
オリーヴが洗った、我のシャツ。
確かに、血の染みは消えているな……と見つめていて、ハッと気づいた。顔を近づけてみると──
──あの匂いだ。いつもオリーヴから香る、あの不思議な。
染み抜きや洗濯に使う、ハーブの匂いだったのか。
「つまり……オリーヴに我の衣類を洗濯させれば、我はいつもオリーヴの匂いに包まれることに!」
何という至福!
すーはー、と匂いを嗅いで彼女を想像していると、
「王様ー、たまにはお食事はいかが……」
と玉座の間に入ってきたエドラが、ささっと回れ右をして出て行った。