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3 side・オリーヴ 【魔王城で、洗濯と染み抜き】

 魔王が部屋を出ていってすぐ、廊下で何かが割れる音がして、あたしはまたギョッとしてしまった。

 こ、今度は何よ……色々と割れる城だなぁ。


 しばらく耳を澄ませたけれど、あたりは静まりかえっている。

 あたしはエプロンをつまみ上げ、外しながらため息をついた。お酢くさい……さっきはいきなり魔王が入ってくるから、びっくりしちゃった。

 お酢が、自殺用の毒薬に見えたわけね……まあ、突然謎の瓶を取り出したら、怪しいっちゃ怪しいか?


 でも、これではっきりした。

 魔王は本当に、これっぽっちも、あたしを殺すつもりはないんだ。理由はわからないけど。


 ……腰を据えて行こう。

 さっきあたしが、「この城のカーテンや絨毯を綺麗にしたい」って魔王に申し出たことには、意味がある。この城のあちこちの布類を、部屋から出て取りに行って、戻って綺麗にして、また部屋を出て元の位置に戻す──これだけで、身体をイドラーバの空気に少しずつ慣らすことができるじゃない。しかも、城の中を偵察しながら。逃げる算段も立てやすくなるはず。


 あたしはカバンから手布を取り出すと、ボウルの脇に置いた。そしてその上に、油の染みた布を載せると、どうせなので酢の染みたエプロンでポンポン叩いた。後はお湯で洗いたいところだけど、今ここにはボウル一杯分の水しかないので、それで洗う。……よし、落ちた。

 あとはこのお酢くさいエプロンだけど、洗うには水が足りない。どうしよう……


 ……魔王って、何だか、あたしよりずいぶん年下──十六、七歳くらいの男の人に見えるから、警戒心が削がれちゃうわ。もちろん魔族だから、実際の年はどうなのか知らないけど。これが、見た目も年上で背も高くて、だったら、きっともっと怖かった。

 あたしの要望、ほんとに聞いてくれるつもりなのかな。


 キイッ、と、扉がきしむ音がした。

 振り向いたあたしは、ギョッとして後ずさった。その拍子に寝台の脇の台に身体が当たり、カタンとボウルが鳴る。


 額から血をダラダラ流した魔王が、また顔だけのぞかせていた。


「……オリーヴ。お前の望みは何だったか。もう一度言え」

 えっ。ええと、さっきの話か。聞いてなかったのね。

 あたしはうろたえながらも、言いたいことを全部言うことにした。

「あの……染み抜きとか洗濯とかしたいから、たくさん水がいるの。できればお湯も沸かしたいけど、この部屋じゃダメよね……それと、干す場所も……あっ、干すのはこの部屋じゃなくてもいいけど」


「おとなしくしていろっ」

 魔王は怒ったような口調で言うと、静かに扉を閉めようとした。

「あの」

 呼び止めると、ぱっ、と扉が開く。

「何だっ」

「おでこ……」

 おそるおそる指さすと、魔王は少し目線を上げてから、軽く鼻を鳴らした。とたん、シュッ、と音がして魔王のおでこから煙が上がる。……傷が、ふさがった?

「このような傷など、何ともない。我はイドラーバの王だからな」

 ぺろり、と舌を出し、口の近くまで垂れていた血を舐めとって見せる魔王。不気味だ。

 それ以前に、さっき出て行ったばかりなのに、何であんな怪我したのよ……自分の城で。

 あたしはつっこみたくなったけど、それには触れずにこう言った。

「血の染みも、放っておくと落ちなくなるから……その服」

 魔王はよりによって、白いシャツを着ているのだ。襟んとこまで、血、垂れてるんですけど。


「なっ」

 魔王の顔に、サッと赤みが走った。

 しまった、また余計なこと言って怒らせた!?

 ビクビクしていると、魔王は怒鳴った。

「我の服まで洗うと言うのかっ!」 


 えっ。

 そこまで言ってませんけど! 気になっただけで!


 何もいえず口をパクパクさせていると、魔王は「ぐおおっ」とうなり声をあげるなり、扉を荒っぽく閉めた。数歩の足音の後、ガシャン! とまた何かが割れる音。

 びくっ、と身体を竦ませながら耳を澄ませる。……静かになった。


 あたしは寝台に座り込んで、深呼吸した。胸がバクバク言っている。

 ちょっと、怖かった……怒らせちゃった。あの魔王、怒るとモノに当たり散らすんだ。きっとあのおでこも、何か割った時に破片で切ったんだろうな。


 でも、あたしには直接は、暴力を振るわないんだ。望みも聞いてくれるつもりらしいし。

 そんなに恐れなくても、大丈夫……?


 はっ、とあたしは我に返った。

 何考えてんだろ、イドラーバの魔王はフォッティニアに攻め込んでは人間を殺してるのに。あたしのことだって、色々してくれてはいるけど、ここにさらってきて閉じこめてることは変わらないじゃない。

 どういうつもりかまだわからないんだから、気を緩めないようにしないと!


 寝台の背板に洗った布を干し、少し酢のついてしまったスカートも替えて(なけなしの着替えをカバンにつっこんできて良かった)、何もすることがなくなってゴロゴロしているうちに、いつの間にか眠っていたらしい。

 ふうっ、と意識が浮上すると、天井の青空が見える。

 あたしは何気なく寝返りをうって──


 ハッとして起き上がった。


 この部屋には元々、廊下に通じる扉があるけれど、寝台の横にもう一つの扉が出現している。

 いつの間に……?

 寝台から降りたあたしは、恐る恐るその木の扉を開けた。


 そこは、石壁に囲まれた中庭のような空間だった。扉の上には屋根があり、その屋根は石壁に沿って横に伸びていて、屋根の下にかまどや薪置き場がある。

 屋根をくぐって庭に出ると、真ん中に井戸。物干し竿にタライ。木製の作業台。これだけあれば、洗濯も染み抜きもできそうだ。

 見上げると、青空。……うーん、この青空は相変わらず偽物っぽいけど、空気は澄んでる。


「これって、あたしの希望通り……」

 中庭の中央でぐるりと見回してから振り向くと──


 あたしが出てきた扉が半開きになっていて、魔王の顔がのぞいていた。

「望み通りにしてやったぞ。自分がどれだけ恵まれているかわかったら、これ以上の欲をかかずにおとなしくしていることだな!」

 びしっ、と指を突きつけると、すーっ、と扉が閉まった。


 心の中で三つ数えてから、あたしは扉に近寄って、開く。

 左手、廊下に通じる扉が閉まるところだった。魔王は出て行ったらしい。


「……うん……まあ……深くは考えないようにしよう」

 あたしは肩をすくめると、寝台の横から布カバンを取って中庭に戻った。染み抜きに使う材料を出しておこうと、作業台に近づく。

 作業台には、何か白い布が置いてあった。何気なく手に取り、広げて、あたしは「えっ」と顔をしかめた。

「……やっぱりこれ、あたしが洗うんですか……」


 それは、魔王の血のついた白いシャツだった。

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