2 side・バルジオーザ 【後をつけたり、覗いたり】
部屋から出てきたオリーヴは、あたりを見回してから歩き出した。
我は物陰に隠れながら、後をつける。
逃げ出そうというのだろうか。しかし、この城には長きに渡って我の力が満ちている。幻を見せ、好きな場所へ行かせるのも我の思うがままだ。階段を上っているように思わせておいて下らせたり、同じ場所を巡らせたりできる。
そういった力を駆使して、あまりあの部屋から離れないようにさせねばならない。なぜなら……
その時ふと、オリーヴがつぶやいた。
「よく考えたら、あのかっこいい軍人さんはあたしの家に、あたしを助けに訪ねてきたんだもの。きっと今頃、あたしのこと探してる。ここまで助けに来てくれるかも」
かっこいい軍人……だと!?
オリーヴの家に行ったときにいた、あいつか!?
ムカッ、とした気分が、角からピーッと音を立てて噴出したような気がした。
そのとたん、廊下に飾ってあった壷が派手な音を立てて割れた。
驚いたオリーヴが振り向く前に、我は廊下の角に隠れる。
いかん……人間の男を褒める言葉を聞いて、ついカッとなってしまった。オリーヴはああいうのが好みなのか? 金髪の、筋骨隆々とした……あいつ、今度フォッティニアに行ったら殺す。
とにかく、今はオリーヴだ。
そっと廊下の角から顔を出すと、オリーヴはまた向こうへ歩き始めていた。階段を見つけ、上っていく。
逃げるのなら下ではないのか? と思いつつ、しばらく好きにさせてみた。オリーヴは、上への階段を探しては上ろうとしているようだ。
……そろそろ、まずいな。
我はオリーヴに幻を見せ、あの部屋の方へと誘導した。しかし──
「何なの……この城……」
オリーヴは部屋までたどり着くことができず、手前の廊下のソファにくずおれてしまった。
「何だか変……ちょっと、気持ち悪く……?」
ここは我が支配するイドラーバ、そして我の力の最も濃い城だ。その影響を受けてしまったのだ。
オリーヴの部屋だけはその力を遮断し、フォッティニアの空気を満たしてあるので、あの部屋に戻れば……
しかし、オリーヴはずるすると、ソファに倒れ込んでしまった。
我は廊下の角から出て、サッと彼女に近づいた。あまり近づくと、あの予言が……しかし、彼女の意識がない時なら大丈夫だろう。近づけることが嬉しくてたまらず、足が小躍りしてしまう。
オリーヴは、目を閉じて眉をひそめ、弱々しく呼吸している。そんな様子でも、彼女は美しかった。
そっと抱き上げる。柔らかい……そして、彼女からはいつも不思議な匂いがする。何だろう?
顔を近づけて匂いを嗅いでいると、オリーヴはうっすらと目を開け、美しい瞳をのぞかせて、また閉じた。
うっとりしながら部屋に運び込み、寝台に横たえる。──おっと、隣に横になるところだった。
何と危険な女だろう!
我はいったん廊下に出て扉を閉めると、ソファに腰掛けて待った。
そう、彼女が起きたら、あまりこの部屋を出ないよう脅しつけねばならんからな!
ん? 置き手紙を残せば良いのか? いや……我はフォッティニア語は話せるが書けない。直接言った方が良い。愛らしい彼女に直接。書けなくて良かった。
窓の外、垂れ込める雲の向こうに霞む太陽が、空を移動していく。
──ようやく彼女が起きる気配がした。我はささっと扉に近づくと顔を出し、
「目が覚めたか!」
とまた喜びの声をかけてしまった。だからいかんと言うのに。
とにかく、固まっている彼女を改めてきつく脅す。よし、これで彼女もそうホイホイと部屋を出るまい。
扉を閉め、玉座に戻ろうと歩き始めると──
廊下の向こうから、小さな影がひょこひょことやってきた。
人語を解する白いネズミ、クリーチィだ。
「命じた通りに用意しただろうな」
我が見下ろすと、クリーチィはサッと両手を広げた。イドラーバのメイドの服装、右手に水差し、左手に籠。
「よし。行け」
顎をしゃくると、クリーチィは我の横を通り過ぎてオリーヴの部屋の前まで行った。扉をノックし、中に入っていく。
我は耳を澄ませた。……シンとしている。オリーヴは驚いて声が出ないのだろうか。
クリーチィはすぐに扉から出てきた。そして我の前まで歩いてくると、頭を下げ、廊下の向こうへ去っていった。
我も玉座へ戻ろうと思ったが、ふと見るとオリーヴの部屋の扉がほんの少し開いている。クリーチィがしっかりと閉めなかったのだろう。
の ぞ き た い。
いや、さっき覗いたばかりではないか! あまり近づいてはならないと己を戒めたはずだ。
イドラーバの人間は欲望のままに生きるが、オリーヴの件ばかりはそういうわけにはいかぬ。
これは、王としての、試練だ!
……しかし……きちんと食事をしたかどうか、確認せねばならんのではないか? そう、口に合わなければ、次は別のものを用意する必要がある。
いやいや、我が自ら確認にいく必要などあるまい。もう一度クリーチィを呼んで、籠を下げさせれば良い。全部食べたかどうかわかるだろう。
いやいやいやいや、クリーチィは彼女と会話ができない。もしオリーヴから何か要望があったとき、我に伝えることができないではないか。やはり我が直接……
廊下を二十回ほど行きつ戻りつしてから、我はオリーヴの部屋の前に立った。
扉の隙間から、中を覗く。
そして、愕然とした。
オリーヴは寝台に腰掛け、手にしたガラスの小瓶を見つめていた。薄黄色い液体の入ったそれを、一度目の前にかざし、ゆっくりと栓を抜く。
もしや、毒!?
我は扉を吹き飛ばすような勢いで開け、彼女の手元に向けて突風を起こした。
「きゃあっ!」
可愛らしい悲鳴が響き、オリーヴが身体をすくめる。小瓶はオリーヴの膝に落ち、中の液体を彼女のエプロンにぶちまけてから、床に落ちた。
「ししし死のうとしても無駄だっ!」
我は怒鳴った。
「毒など飲んでも、我がお前を死の淵から呼び戻すぞ。生ける屍となりたいか!」
「えっ……あのっ……」
オリーヴは立ち上がり、小さく震えながら言う。
「お酢なんだけど……」
「あ?」
間抜けな声が出てしまった。
部屋の中を渦巻いた風が、液体匂いを我の近くに運んでくる。……酸っぱい匂い。
我に返ると、涙目で我を見つめるオリーヴがすぐ側にいる。いかん、いつの間にこんなに近づいてしまっていたのか。
「な、なぜ酢など瓶に入れて持っているのだ」
我はさりげなく一歩下がった。食事にかける「自分酢」か?
「あの……あたしは、染み抜き屋だから」
驚きから立ち直ってきたのか、オリーヴは足下の瓶を拾うと、大事そうにエプロンで巻き込むようにしながら言った。
「この、籠にかかっていた布に、油染みがあったから気になって……油は、お酢で落ちるから」
「そ、そうか」
我はまたさりげなく、一歩下がる。
「待って」
オリーヴが一歩前に出た。
近寄るなっ。いや、近寄ってほしいが。あああどっちだ。
「何だ」
「あの……さっき廊下に出たとき見たんだけど」
緊張しているのか、オリーヴは胸元を抑えながら言う。
「ここ、廊下のカーテンとか絨毯とか、色々汚れているのね。あたし、ずっとここに閉じこもってても辛いから、そういうのを綺麗にして過ごそうと思うんだけど」
「何だと」
眉を上げると、オリーヴは急いで付け加えた。
「あの、それだったら、あまりここから出ないでもいいでしょ? 布類を取りに行って、ここに戻って、作業はここですればいい。……ダメ?」
ダメ? と見つめる視線が……視線が……っ
「いいぞ」
「え」
ほんの少し表情をほころばせたオリーヴを見て、我に返る。しまった、ついほだされて許可してしまった。
まあいい……そんなことでオリーヴが満足するなら。
「じゃあ、そうさせてもらうわ」
オリーヴが、わずかに……微笑んだ。
我に、笑いかけた。
「あの、水がたくさんいるん……」
何か言いかけるオリーヴを、我は「待て」と早口で遮った。
そして、急いで部屋から飛び出して扉を閉めた。
いかん! あの微笑みは危険だ! 何でも言うことを聞いてしまうではないか!
我は廊下の窓に体当たりしてガラスを割ると、一気に外へ飛び出して玉座に逃げ帰った。