13 side オリーヴ 【今までよりも近い距離】
魔王がいない間に、あたしは浴場に行くことにした。
もちろん、落ち着いて入れるからだ!
薄紅色の世界で身体をお湯に浸していると、ざわざわした胸の内が静かになってくる。
フォッティニアに帰りたい気持ちが薄れたからって、フォッティニアを守りたい気持ちまで失ったわけじゃない。
イドラーバに慣れてきたからって、ここで暮らしたいのとは違う。
ただ、あたしがイドラーバで暮らせば、魔王を引き留めておける──そのことが、あたしの罪悪感を薄めてる。「故郷を守ることになってるんだから、このまま敵国で暮らしても許される」って。
「でも、王妃っていうのが、なぁ」
浅い湯の中で膝を立て、あたしはそこに額をつける。
『オリーヴがイドラーバの王妃になった』なんて、フォッティニアの人が知ったらどう思うんだろう。やっぱり、オリーヴは裏切った、って思うんだろうか。
それに、お店。
故郷に置いてきた、あたしのお店……
……ガーヌにこだわりすぎちゃダメだって、お隣のおばさんが忠告してくれたことがある。商魂逞しく、他の町で染み抜き屋をやったって、母さんは怒りゃしないよ、って。この町にいたらあんた、いい旦那も捕まえられないよ、って。
「でもねぇ……おばさんだって、母さんだって、まさかイドラーバで店をやれなんて言わないだろうし」
あたしはため息をついて、湯から上がった。
ガーヌから着てきた服の、縫い合わせが解れていたので、あたしはエドラさんに裁縫道具を貸してもらった。
夕方、中庭の作業台の椅子でちくちくと縫っていると、いつもの気配。
ちらり、と目を向ける。……扉から覗く、赤い瞳。
「帰ったぞ」
「ええ」
「帰った」
「……………………」
……お帰りなさい、って、言って欲しいんだろうな。
でも、あたしは、縫いかけのスカートを作業台に置いて黙っていた。
魔王の顔が、いったん引っ込む。けれど、すぐに今度は扉を大きく開け、こちら側に入ってきて木箱をドンと置いた。
ちらり、と木箱を見たあたしは、思わず立ち上がった。
「あっ」
『グネス』だ! あたしがいつも洗濯に使う、香り付けのハーブ。
箱にぎっしりと、瑞々しい葉が詰まっている。
「なくなった葉というのは、これだろう」
魔王は木箱の向こうで偉そうに言った。
「そう、これ! えっ、どこから」
「お前の家の庭だ。他に生えている場所を知らんからな。洗濯に使う土とやらはわからなかったが」
「いいの、ありがと……!」
ついお礼を言うと、魔王は口元をもにょもにょさせた。……照れてる?
しまった、喜ばせちゃった。なんか悔しい。何であたしがお礼なんか……そもそもあんたにさらわれなければ、グネスがなくなることもなかったんだっつーのっ。
モヤモヤツンツンしながら、箱に近づいた。魔王とは視線を合わせず、箱の側にしゃがみ込む。
「……根っこごと、抜いてきたの?」
「ここに植えればよいだろう」
魔王は微妙な距離を保ったまま、腕組みをして言った。
「いいの?」
あたしは中庭を見回す。ここの地面は、幻じゃなく本物の土みたいだし、植えられそうだ。イドラーバの土に合うかどうかはわからないけど、グネスは強いから……
「そろそろ、庭、ぼうぼうに荒れてたでしょ。そういえばあたし、戸締まりもしてない。家、どうなってた?」
グネスを一株、両手ですくい上げながら、あたしは尋ねた。
「…………」
魔王は黙っている。
質問に答えてくれないなんて、珍しい……
その様子に、あたしはハッとなって口をつぐんだ。
隠し事が苦手な、魔王。そんな魔王が正直に言わないってことは、あたしが傷つくような何かがあるから……?
「もしかして、家、荒らされてた? それとも、もう人手に渡っちゃったかな。教えて」
何でもないような口調を意識して言うと、魔王はようやく口を開いた。
「窓から家の中を見た。寝台が、枠だけになっていた」
「そう」
グネスを箱に戻しながら、あたしは軽くうなずいて見せた。
……あたしがさらわれたところを軍人が見てたんだから、少なくとも領主様はその連絡を受けているはず。魔王に連れて行かれた娘が無事に戻るなんて、思わないだろう。枕もマットもなくなってたなら、もう家の中は片づけられて、次の住人を待つばかりになってるってことだ。きっとあの家には近いうちに、事情を知らずに引っ越してきた人が住み着く。
……今ではガーヌに帰りたいとは思ってないけど、帰る場所がはっきりとなくなってしまったのは、やっぱり衝撃だった。
あたしは黙って竈から火かき棒を持ってくると、それを使って中庭の隅を掘り起こし、グネスを植えた。ぽんぽんと、根本を押さえる。
もう、あたしもこうして、ここに根を下ろすしかないんだろうか?
不意に、魔王の声がした。
「オリーヴ、今でも染み抜き屋をやりたいか?」
はい?
あたしはちょっと呆けてしまったけど、すぐに立ち上がって魔王をにらみつけた。
「あたしをさらったあなたが、それを言う?」
「我が欲しかったのはお前だけだっお前がこっちで仕事をしたいと言うなら別に構わんっ」
魔王は一気に言った。偉そうだけど、額を汗が伝っている。
あたしが黙っていると、魔王は一つ深呼吸して続けた。
「お前が、商売をした方が落ち着くというなら、許す。イドラーバで店を持て」
……気づかざるを得ない、よね。
あたしは魔王に、大切にされてる。
一目惚れした女をさらって閉じこめてしまいはしたけど、フォッティニアの空気、綺麗な服、口に合いそうな食べ物、浴場……。不器用そうに、あれこれ世話を焼いて。王様自ら、ハーブも取りに行って。
そして今は、さらってきた女に店をやらせてくれるって。
「……このお城で、誰を相手に商売するっていうの」
そっけなく言い返すと、魔王はあっさりと答える。
「イドラーバの町でやればいいだろう」
「えっ、町? お城の外で商売していいの?」
ふっ、と心が少し軽くなり、あたしは立ち上がって言う。
「王妃、やらなくていいってこと?」
「何を言うか、お前が我の王妃であることは変わらぬっ! ここと町の空間をつなげばいい! 今まで通り男も近づけぬぞ!」
魔王はめちゃくちゃなことを言っている。あたしは呆れて答えた。
「男のお客が近づけないお店って、どうなの……別にいいじゃない、お客くらい」
「ダメだっ。間違いがあったらどうするっ」
「ぷっ」
あたしは思わず噴き出してしまった。
『間違い』だって! 子どもができるのを心配してるのか、単なるやきもちなのか、わかんない発言だなぁ。あたしにとっては、魔王に捕らえられてる今の状況の方が、よっぽど『間違い』だと思うんだけど? うふ、あ、まずい、笑いが止まらない。
魔王は目を見開き、口も開けて、くすくす笑うあたしを見つめている。あたしは涙を拭きながら言った。
「ふふっ、じゃ、見張ってれば? あなたが見てる前でなら、男のお客相手に商売したっていいでしょ」
「そ、そうだな! 夫たる我が見張っていればな!」
魔王は嬉しそう。
……本当に、あたしのこと、好きなんだ。
さっさとあたしを殺して、なんて言って、悪かったかも。「あなたのため」だなんて言ったけど、本当は自分のため。この状況から逃げたいがために、一番魔王が傷つくことをやらせようとしてた。
でも……今は。
気がついたら、あたしと魔王は今までよりも、近くに立っていた。




