10 side オリーヴ 【ひとりぼっちの町娘】
目が、覚めて。
あたしが最初にしたことは、重い腕を上げて自分の頬に触れてみることだった。
少し、肌が突っ張ったような感じになっている。
……涙が、乾いた跡。あたしの涙じゃない。
魔王の、涙?
あれは、現実だったの……?
神座山の予言者が予言したのは、「オリーヴの産んだ子がフォッティニアの敵を滅ぼす」というものだった。
図書室の予言録でそれを知ったあたしは、混乱しながらも外を目指した。門が閉まってたから他の出口を探していて、時間がかかりすぎて倒れ、死ぬとこだったんだけど。
それにしても。
道理で、魔王はあたしに手を出さないわけだ。うっかり子どもができたら、その子が『フォッティニアの敵』、つまり魔王たちを滅ぼすんだもん。
でも、魔王でしょ? 女を好きにして、妊娠したら殺す、くらいしそうなもんだけど……そうしなかった。なぜ?
予言を知ってすぐ、魔王はあたしを殺しにガーヌに向かったはずだ。でも、殺さずにあたしを連れ帰った。なぜ?
『我は、『この女だ』と思った。お前が良い、それだけだ』
朦朧としながら聞いた、魔王の声。
頬に感じた、涙。
あれが、夢じゃないなら。ううん、夢じゃない方が、腑に落ちる。信じられないようなことだけど、「そうだったんだ」って、心が受け入れる。
魔王は、あたしに、恋をしている……?
数日が経った。
寝台から起き上がれるようになったあたしは、自分の枕カバーを洗ってみた。数日ぶりに身体を綺麗にしたくて、浴場にも行った。うん、大丈夫、このくらいなら疲れない。体調はかなり戻ってる。
そして、あたしはその日の夕食を、久しぶりに魔王と一緒にとることにした。
「死の淵から舞い戻ったか。これに懲りたら、もう二度と逃げ出そうなどと考えないことだな!」
相変わらず、脅しつけるような物言いの割に、うんと遠くにいる魔王。
何なの、まるで近づいたら妊娠するみたいに遠巻きにしちゃって。あたしを好き、なら、フォッティニア人だからってこんなに距離取らなくたって。
そんなことを考えながらじっくり観察してみると、魔王は何だかソワソワしてるようにも見えた。長い指でグラスの足を摘んだまま、中の葡萄酒をずーっとぐるぐる回してる。……嬉しそう?
不思議……魔王があたしを、気に入ってるどころか好きらしい、と思ったら恐怖が消えて、何だか気持ちに余裕ができたみたい。なぜ? 優位に立ったような気がするから……?
そう、だって、魔王はあたしを好きでも、あたしは魔王なんか好きじゃないんだから。ちょっと、こう、あたしの方が「上」みたいに感じちゃってもおかしくはないでしょ? ただの囚人じゃないんだって。
でも、調子に乗っちゃダメ。恋なんて、いつ冷めるかわからない。魔王があたしに飽きたら、今度は確実に殺されるだろう。あまり、魔王を刺激しない方がいい。
でも、そう思う一方で、殺すなら殺せっていうあきらめの気持ちもあった。本当なら、魔王があたしを見つけたときに失っていた命だから。
殺されると決まっていて、いたずらにその日が引き延ばされるのは、辛い。
「あの……質問しても、いい?」
あたしは尋ねる。魔王は軽く顎を上げ、続きを促す。
「あたし、怖かった。イドラーバに身体が慣れたら、その時どうなっちゃうのかって。あたしにも、角が生えたり、するの?」
「ふん、なるほどな。我から離れようとしたのではなく、身体が変わってしまうのが怖くて、つい逃げようとしてしまったというわけか」
魔王は微妙にズレた理解をしながらうなずき──違うから。あたしは身体が変わらなくたって逃げたいから──そして言った。
「角は、この世に生を受けたときに生えていなければ、もう生えぬ」
良かった、と、あたしはホッとする。どうせ死ぬなら、フォッティニア人のまま死にたい。
けれど、魔王はこう続けた。
「変わるのは、寿命だな」
「寿命……?」
「イドラーバの民は、総じて長生きだ。そして、かつてイドラーバに連れてこられたフォッティニア人が、二百歳まで生きたという記録がある。おそらくオリーヴも長く生きるだろう」
かしゃん、と、あたしはスプーンを落としてしまった。魔王が軽く目を見開く。
「ど、どうした。気分でも悪いのか」
「にひゃく、ねん」
あたしはつぶやいた。
「フォッティニアに、帰してもらえないのに……そんなに長く、イドラーバで生きなくちゃならないの? ひとりぼっちで?」
「な、何を言っている。お前は我の妻だ、どこがひとりぼっちなのだ」
「何言ってるの、はこっちの台詞よ、ひとりぼっちでしょうが! 近寄っても来ないくせにっ」
やっぱり、ダメだった。
魔王よりも優位に立っているという事実が、あたしのタガを外してしまった。思ったことをそのまま、口にしてしまう。
「あ、あたしはね、母さんやばあちゃんが守ってきた大事な店を受け継いだから、ガーヌで暮らし続けてたけど、本当は寂しかった。だって、ガーヌの人たちは、本当の意味ではあたしと仲良くなんかしてくれないから。ここでもひとりぼっち!? しかも、二百年も続くの!?」
あたしを王妃として長くそばに置くために、あたしが身体をイドラーバに慣らすことに反対しなかった──そういうこと!?
「なぜお前は、ガーヌで除け者にされていたのだ。オリーヴはこんなに愛らしゴホッゴホッ」
なにやら魔王は咳込んでいる。あたしは構わず話した。
「教えてあげるわ。あたしの母さんは、若い頃から美人で評判だった。軍人の子を身ごもらされて捨てられてから、男に懲りて、いくら誘われても応えなかったけど」
でも、母さんが二十九、あたしが十二になった年。
あいつが来たのだ。ガーヌ領主の、上の息子。
親戚のところで何やら勉強をしていたというその息子は、自分の領地に戻ってくるなり、母さんに目を付けた。本気で、母さんを好きになったのだとは思う。でも、母さんの気持ちは一切無視で、強引だった。
誰の種かもわからない子を生んだ母さんなど、未来の領主夫人にはふさわしくないと、領主夫妻は反対した。というか、そもそも母さんにその気がなかったし、領主夫妻もそれを知っていたから、諦めるように息子を諭した。
両親とうまくいっていなかった息子は、ますます意固地になった。そしてある日の夜遅く、あたしたちの家に押し掛けてきてこう言ったのだ。
「家を捨てる。どこか遠くで俺と生きよう!」
ばっかじゃないの、と、今は思う。なんて独りよがりな男だったんだろう。
でも、当時のあたしはまだ十二で、目をギラギラさせて腰に剣も吊した男が怖かった。無理矢理母さんの手を引いて家から連れ出そうとした男に、「やめて!」と駆け寄った時、いきなり蹴りつけられて倒れて──恐怖で動けなくなってしまったのだ。
「オリーヴ! やめて、やめてよっ、一緒に行くから! オリーヴ、待ってなさい、母さんちゃんと帰ってくるから! 何日かかっても、絶対逃げて帰ってくるからね!」
そういいながら男に引きずられていく母さんを、あたしは戸口にへたりこんだまま見ているしかなかった。
結局、母さんは、帰ってこられなかった。
馬鹿な男は、どこか遠くで母さんと暮らすために、たくさんのお金や金目の物を持ち出していた。貴族様は生活力がないんだろうから、そういうものが必要だったんだろう。
金目の物を持った身なりのいい男が、女連れで、夜に人気のない道を行けばどうなるか。
二日後、男と母さんが、町の外の森を貫く街道沿いで死んでいるのが見つかった。強盗に襲われたらしく、金目の物は全部奪われていたという。
領主様は、息子がバカなことをしたと、あたしに謝った。ひとりぼっちになってしまったあたしに、家に住み続けて良い、困ったことがあったら助ける、と言った。
でも、領主夫人は母さんを、息子の死の原因になった女だって恨んだ。母さんが息子をたぶらかしたんだと。
そのまま夫人が寝込み、亡くなってしまってからは、領主様もあたしに声をかけることはなくなった。まるで、あたしがガーヌにいないかのように。
そして。
『母さんちゃんと帰ってくるから!』
最後の言葉を胸に抱きながら、あたしは母さんの大事な店で、染み抜き屋を再開したのだ。




