一八〇六年 (二)
親愛なる エレイナ
おそらく、急ぎお取りまとめになったであろう御書状は四月末日に到着しすぐさま拝見しました。ご壮健にお暮らしのようで、至極安堵しております。
この冒頭の一文をご覧になった貴女が、一瞬驚いたのちに頬を紅潮させてお怒りになる姿が私にはみえるようです。
“グレイス、御書状ってもしや先日お送りした手紙のことですか!”
“ご壮健にお暮らしだなんて、嫌味をおっしゃっているのですか”と。
そして貴女は、貴女の叔父が姪のそんな姿を思い浮かべ肩をふるわせていることに思い至り、本来の思慮深さを取り戻されることでしょう。
それとも、いまだ少しばかりの落胆と憂いをそのお心にかかえていらっしゃいますか。探究心にあふれ、なおかつ周囲の人々の感情に心を砕く貴女であればあるいはそれは当然の有りようといえますか。
妻帯したことのないわが身から出る言葉で、どれほど貴女を納得させられるかは疑いの余地を残すところではあります。さりながら、これは瞭然たることです。
端的に言いましょう。気にしないことです。事を放棄なさいと申し上げているわけではありません。
今はただ、貴女の真率さに裏づけられた純粋と、王太子殿下の明朗ながら物堅いある種の潔癖さとが折り合いをつけることに少しばかりの難を伴ったというだけでしょう。
貴女は手紙で、なにか不注意な間違いをおかしてしまったのかもしれないとご心配になっているようですが、あなた方お二人はまだ知り合って日も浅いことです。ご婚約は数年前から成されていたとはいえ、数えるほどしか顔を合わせていらっしゃらないことを鑑みれば、お互いの心の内に触れることは今回のことがほとんど初めてだったことでしょう。
僭越ながら、ご結婚式にて拝したさい――――そのまえに、その儀をお詫びさせてください。
ご招待を賜ったにもかかわらず、二日足らずという期間しか滞在できなかった無礼をお許しください。また、昨年十月からこれまで忙しさに取りまぎれて貴女への便りを怠ったこともあわせて。
畏れ多くも皇帝陛下より公使を拝命し、またその拝命の儀がご結婚式に合わせてにわかに行われたことから慌ただしい日々と相成ってしまいました。
貴女は、私の事情を十分に斟酌くださり、薄情ともいわれかねない短い滞在においてもあなたの教育係というマイヤー伯爵もご紹介くださるなど、心篤く接してくれましたね。レーナ、貴女の優しさは私を救います。
私が公使に任命されたわけは、何かとありましょうが私には推量致しかねます。
先の革命で多くの人材がうしなわれたのは事実です。本来ならば一子爵にあずかっているだけの私が公使に任ぜられるなど、少々意外の感に打たれます。
勅命をうかがったときの私の胸間を────、いかがですか。
これは結婚式のさい何度もお話し申し上げましたが、貴女ならお察しくださるでしょう。
いま貴女は笑みを漏らしておいででしょう。これで先ほどの私に対する貴女の報復は小さくとも成功したのでは?
貴女の感情を私がすこしでも奪うとして、与えられるばかりではないことをよくよく注釈しておかねばなりません。
────公使拝命の話でしたね。
年齢から申しても私に任が回ってくるのは時期尚早にも思えます、されど、荷が勝ちすぎるということもないでしょう。
貴女の故国は、私の祖国は、いまだ目覚めの過程にあります。春へと胎動する大地のように。
新しい時代の息吹は、もう間近に聴こえます。今度は、いいえ今度こそ我ら革命を勝ち得たものが、新しきものの手で、祖国をつくっていくのです。
レーナ、貴女のかなしみに服した時間すら終わりを告げるのです。願わくば、祖国を想うもの同士の不調和など、互いに手を取りあうとき、溶解せんことを。
――――話を差し挟んでばかりで申し訳ありません。
王太子殿下が貴女へ対しての距離を量りかねている心象をいだきました。いつかのお手紙で殿下を頼もしい御方だとおっしゃっていましたね。折しも殿下はご静養あそばされていました。貴女に心配をかけまいとの気丈さをそのときはよりつよく保っておいでだったのでしょう。
私が差し上げた以前の手紙では、貴女がおそばについておいでなら、王太子殿下のお心も御身も安らぐことだろうと申し上げたのは偽りではありません。私が思料した以上にヨルゼク様が律義であられたのでしょう。
結婚式で拝謁した貴方々は、人形を対にしたような輝きでした。教会での壮麗な婚礼は、うそ偽りなく圧倒されるものでした。
雪解けのときをすぎ、晴れ渡った空に婚礼の鐘は高らかに春を響かせます。
教会は荘厳に、それを上回る華美な佇まいで私を迎え入れました。門に至るまでの長い、あまりに広い階段は我々の神への信心を異なる次元で問うているのではないかと疑いをもつほどでした。
ふり返れば遠方に森と川をのぞむそこは、市街の家々の屋根の光をあつめてなお、燦然と。あなたの国となる国民の期待と羨望をうけているようです。
豪壮な門を挟んで対称に、そして縦に連なる尖塔をすべて見切ることはできません。ただ、その中心の円蓋の塔はひときわ凛としてありました。
教会内部の絢爛典雅なさまは、しばし己の境遇を忘れるものでした。
中央の通路から祭壇までまっすぐに赤い絨毯がのび、通路を横断するアーチとそれをささえる大理石と黄金の列柱が天井からの光を細やかに跳ね返します。石と金と赤の彩色のなんということでしょうか。そしてその柱の装飾までも都度息を呑み、壁面の祭事画にまた目を奪われます。
天井画にいたってはその大胆さと精緻さに感嘆の吐息しか生まれぬことでしょう。
手も足も出ぬ高さにありながら、聖人たちが私たちに与えるまなざしは敬虔の念深く胸に届きます。
あつまった人々の高揚は冷めることなく。私に用意された席につくまで、それは熱気の波を泳ぐがごとく。
ただ、どちらかといえば我々の領地の質実な建築様式に比べればこの少し過剰といえる内部の様式に、私が笑みこぼしてしまったことは、内緒ですよ。
我々の陛下のおわす帝国にも、数多の宮殿や教会はあれど、もう少し端麗で深奥さすらただよう様式であることはご承知のことでしょう。
もしあの教会を目の当たりにすれば、彼なら――――おそらくどこかでそれに出合っていることかも知れませんが――――アレン青年(私が貴女に贈った本を書いた人物です)なら、言うでしょう。
この帝国の富と権力を象徴しているようだと。
レーナ、私は複雑なのです。我々はいったい、この国にどれほどのものをかかえていたのでしょう?
我々の神、我々の悲嘆、我々の革命。
されど、前を向きましょう。私はつい数十行まえにそのことを決意したはずです。
いけませんね、つい。
まだまだ、貴方々のことについて語り足りません。ほら、そこで笑うのはおよしなさい。
私は貴女のもっとも近しい肉親であるのに、いいですか、たったの二日しかお目にかかれなかったのですよ。やんごなき御方へ不敬と謗られようとも、私にとっては貴女への比重のほうが強いのです。
ヨルゼク王太子殿下は、細身ながら高貴な立ち姿であられましね。
かなり透明度の高い、そして艶のある蜂蜜色の髪はまったく癖がありません。氷のように薄青な色の双眸は、やはりあの方のある種の潔癖さを表しているようです。
貴女の素朴な、純粋な愛らしさは存じ上げていましたが、こうまで美しくおなりとは。まるで目の前にいるように思い出せますよ。
深い栗色の髪に、細やかに編みこまれた宝石は貴女という人間を引き立てるまで。主張しすぎるということはありません。
ガーネットの耳飾りの宝石の輝きはまるでその瞳に映ったように、貴女の赤茶色も光を増したようでした。濃緑の婚礼衣裳に、王太子殿下は群青。それぞれの徽章をつけ帯勲し、赤の絨毯を進まれる姿は、貴女が貴女の帝国に祝福された瞬間を物語っているでしょう。
お忘れなきよう。――――それ以上に、私と、そして兄上との誇りです。
“便箋を前にしていまなおため息を吐くことをしてしまいます”
エレイナ、わたしの姫。
私が貴女のお屋敷の窓辺の下に立つときいつもそうしていたように、貴女にもおなじ言葉を贈りましょう。
花壇の前に立って――――ああ、花壇はどのようなものが宮殿にはありますか? 今時分はヒヤシンスなどでしょうか?
たとえばヒヤシンスの花壇の前に立って、お顔をあげて御覧なさい。
貴女はそうすれば、瞳にたくさんの光をうけるのです。貴女の赤茶色の瞳が憂いで翳っているのなら、空や木は貴女に多くの光をそそいでくれることでしょう。
貴女がお顔をあげたのなら、貴女のため息は貴女の大好きな花々を萎れさせることはないでしょう。
貴女は目をとじて、御心はあのお屋敷の窓辺へととびますか。貴女が拠りどころをうしなわないのなら、貴女はきっと、いいえ必ず前を向くことができるはずですよ。
新しい目覚めのなかにある貴女の祖国より誠心をこめて
グレイス・エル・ガーネット
五月二日
親愛なるグレイス
あなたはほんとうに、わたしのことをよくわかっておいでなのですね。
お返事を書いているいまになって、呆れたような気持ちになってしまいました。そう思うと、少し時間が経ったこということなのでしょうか。
あのとき、殿下と言い合いをしてしまったときは、わたしはいけないことをしてしまったのかと、何をするにも気持ちばかりが焦ってしまいました。あなたに手紙を書こうと、けれど何からどうお話ししてよいのかわからず、幾度書き直したかしれません。
昼過ぎからお手紙を書きはじめて、その晩のお食事の席には遅刻してしまいました。そんなことをすればどうなるか、あの方がなんとおっしゃるか、あなたはご想像できて?
“王太子妃殿下のお振る舞いとは、とても信じられません”
大目玉、おかんむり、憤懣やるかたない――――静かに怒るのをいったいどの言葉で表せば正確に伝わりますか。どの言葉もまるで見当ちがいだったら、どうしましょう。
いいえ、でも、あの方はとても慎重な分別をおもちでいらっしゃるのですわ。それがちょっと過敏なところがあるのだ――――とは、殿下のおっしゃったことです。
殿下はすこしばかり気位の高い方だとは思っていたのですが、ノルディア様はその上をいかれるようです。けれど殿下は、頼もしい御方だとわたしは知っているのです。
なぜかって、だって、あなたもおっしゃっていた石のことです。
結婚式のとき、ほんとうはトルマリンの耳飾りをつけるはずだったのです。でも、あなたのお名前にちなんだ宝石がいいのではないかと殿下が仰せになったのです。
このときのわたしの心の浮き立ちを、風にのった春の花々を目にしたときのような華やかな感銘を、あなたにどうお話ししましょうか。
あなたはご存知ですね、ガーネットの石言葉を。
「信頼と愛」
大きな困難に遭うことがあっても、それを耐え、道を切り拓くことができるように。
教えてくれたのはあなたです。
でもグレイス、あなたってばどうしてそんなに言葉を飾り立てるのかしら。昔からそうでしたか?
なんだか気恥ずかしく、でも嬉しいということを、あなたはもうご存知ですね。
結婚式のことは、わたしは、なにもかも朧げにしか憶えておりませんの。
かろうじて、殿下より王太子妃の冠を戴いたときと、結婚記録簿に署名するときです。
結婚記録簿に署名するときは、緊張のあまり手がふるえました。
どれほど結婚式の準備が大変だったかも、そのあとの晩餐会でいやになるほどお客様へご挨拶を口にしたことも、あそこにいたことを考えれば!
そろそろ時間がありません。でもどうしても今日中にこのお返事を書いてしまわなければ。明日は音楽会の鑑賞があり、わたしも演奏しなければならないのです。
とても楽しみかですって? そんなこと、とても意地悪な質問です。わたしは憤慨いたしますよ。
わたし以上に、ノルディア様が憤慨されそうですけれど。これは、内緒ですからね。
結婚式のご滞在のことをお気になさるなら、どうか別のことでわたしに償ってくださいな。
あなたがわたしを、あなたとお父様の誇りだと言ってくださるのなら。それはもちろんわたしにだってそうなのですよ。
公使拝命のこと、ほんとうに心から、お祝いいたします。また、いろいろなことをお聞かせくださいますね?
ああ、いけません。もう筆をおかなくては。
あなたにご紹介したマイヤー伯爵がいらっしゃるのです。わたしに、さまざまなことを教えてくださいます。そうです、あの本をくださった方について、ご滞在のときに何もお話しできませんでした。
あなたがくださった本を読んだのは、結婚式のあとでしたから。
あなたのお手紙に対してお返事が短いだなんて、お思いにならないでね、けっしてですよ。わたしはまずあなたへの感謝と、殿下とお話しようと決めた心とをお伝えしたかったのです。
お話ししたいことはまだまだあるのです。
すぐに、すぐにお返事いたします。すぐに――――。
変わらぬ信頼と愛をおくります
エレイナ・エル・グラーク
五月十一日
追伸
グレイス、ヒヤシンスはこちらでは少し時期はずれです。
それともあなたは、薄紅色の花しか興味がないのでしょうか?
薄紅色の花でしたら、どの花も諳んじていえそうなあなたですのに。