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ある皇女と子爵の書簡  作者: もぃもぃ
第一章 微睡み
1/8

一八〇五年 (一)

18世紀後半から19世紀のヨーロッパの歴史や風俗を参考にしていますが、設定はすべて小説上のものです。なお、オーキッドは蘭の一種です。

 


 親愛なるグレイス


 お元気かしら? そちらは、オーキッドは花を咲かせているでしょうか。

 三月にお返事をいただいていたのに、遅くなってほんとうにごめんなさい。お返事できないことを、とても心苦しく思っていました。あなたなら、このことを信じてくださいますね?

 

 ところで、こちらではラベンダーが野を一面におおっています。風に吹かれて紫色がゆれるさまは、とても綺麗です。オーキッドの艶のある香りとはまた違う、よいものがあります。こちらの城館では、オーキッドは栽培していないようなのです。宮殿へ戻ったら、きっとまだ見られることと思いますが、やはりお屋敷で咲いていたオーキッドが一番綺麗です。

 今は、殿下の静養で東の領地に来ているのです。夏の間はこちらに滞在します。お返事をくださるなら、どうぞこちらへお送りくださいませね。


 それにしても夏の初めの陽は、なんて心地よいのでしょう。あまりに心地がよいので、思わず野を駈けて遊んでしまいます。だから先刻、侍女に怒られてしまいました。殿下のお従姉のノルディア様に言いつけるなんていうのです。“皇女おうじょ様がそのようなことをなさってはいけません”と、きっとまたお説教をくらってしまいますわ。

 ……なんて、王太子妃になる身としてはこんな物言いは、してはいけないでしょうか。


 けれど、あの光景を目にして野に出ないなんて。そんなのは、とんまです。

 わたしのこの気持ちを、あなたはお分かりくださいますね?

 ラベンダーが夕日に染まって、花がきらきらと輝くさまはほんとうに息をのむ光景なのです。

 滞在する城館は、西側に海が見える小高い丘の上に建っています。そこから、ラベンダーの野が一面に見渡せるのです。海からの風は、とても穏やかです。海とラベンダーに夕日の色が重なって、風がラベンダーへ流れて、光がまたラベンダーの上を滑って……そんな景色が、目の前いっぱいに広がります。

 あなたは薄紅色の花がお好きでしたね。お屋敷のあの庭には、あなたの好きな色の花がたくさんありました。オーキッド、オールドローズにカーネーション、フクシア、ジンチョウゲ――。思い出します。

 こんなことを書いて、わたしはいつも同じことをいっているとあなたは思われますか?

 でも、どうしたって書いてしまうんです。手紙をお読みになるあなたの苦笑いが見えるようですわ。苦笑いついでに、これからつづるわたしの心に浮かぶ光景を、目を閉じてどうか思い描いてください。


 そうです。わたしの心はいつも、あのお屋敷の二階の窓へゆくのです。レースのちいさなカーテンが、やさしくゆれる窓辺へゆくのです。だからわたしは、いつもあの場所から手紙を書いているのです。するとほら、あなたがやって来るのが見えるのです。

 ポプラの並木から葉の影がきらきらと道にこぼれています。ポプラ並木の先にある光をつかまえようと上を見上げると、その先に、くたびれた石壁がちらりと目の端をとらえます。葉の影を浴びながら並木を抜けると、石壁の向こうに、灰色がうんとくすんだ屋根の屋敷が現れますね?

 そうしたらあなたは門をくぐるのです。門からそう長くない土の道を歩いて、雨の日はそう、土がぬかるんで靴に泥がつきましたね。道の両側には、季節の野花がそのまま咲いていました。なんだかよくわからない虫が、あなたの服の裾にくっついていたこともありましたね。

 それから、ツゲの緑が青い生垣をいくつかくぐって、やがてちいさな花壇の前に立つのです。そこからお顔をあげてくださいな。そうしたら、わたしの部屋の窓の下にあなたはいるのです。そうしてあなたはいうのです。 


  わたしのちいさな姫。今日はなにをして遊びましょうかと――。 


 いつだって、あなたはそう仰ってくれましたわ。それはわたしが、どんな日だって、朝のあの時間には窓を少し開けて、レースのカーテンをのぞかせていたのですもの。

 わたしたちだけの、秘密の合図でしたね。ほんとうに密やかな、けれども胸をくすぐる幸福な瞬間でした。

 あなたはどうお思いになって? わたしたちは、どうしてあのように幸せだったのでしょう。いいえ今だって、あなたと心が離れているなんて、露ほども思いません。だってそんなことは、わたしたちの間で起こりうるはずがないのですもの。あなたのお話しくださる旅行のこと、絵画のこと、本のこと、なかでも本は、どうしてわたしの胸を躍らせてくれるものばかりなのでしょうか。あなたが好ましいとお思いのものは、どうしてわたしたちの心をつなぐのでしょう。

 今度は、なにをお話ししてくださるのですか? 

 ああ、次のお返事が今から待ち遠しくて、眠れないかもしれません!

 わたしは、いつまでも待っておりますわ。レースのカーテンがゆれる、あのやさしい窓辺で、あなたが来るのをずっと。


 あなたへ永遠の敬愛の思いをこめて

 エレイナ・エル・グラーク 

 七月一日







 親愛なるエレイナ


 貴女あなたと離れて間もなく一年になるでしょうか。どんなにか美しくなられているかと、貴女の成長に思いを馳せる日々です。北のこちらでは、遅ればせながらオーキッドの花々が目を楽しませてくれるようになりました。オーキッドの栽培は、なかなか困難なようです。来年に同じ色の花を見られるかどうかは分からないと庭師が申していました。不思議なことに、あのお屋敷の庭では、毎年同じ色のオーキッドが咲きましたね。


 あのお屋敷から、私の心も離れません。いつの日でも、貴女とともにありましたから。

 貴女の可憐な赤茶色の瞳が窓から覗くのを、いつも楽しみにしていました。

 小さな木枠の窓を押し上げて、瞳に光をたくさん溜めた貴女の笑顔が、どれほど私の心を和ませてくれたか貴女は知らないことでしょう。雨の日も雪の日も、ともにあった時間は、わたしの喜びでした。

 貴女が怒られているさまが目に浮かびます。少々活発でいらっしゃるところは、やはりお変わりないのですね。庭のニレの木に二人でよく登って、歌を歌いましたね。その度に、私たちはお屋敷の者に小言を頂戴していました。その後は、決まって顔を見合わせて笑いましたね。

 あれは貴女がまだ公爵に引き取られる前の、兄上が生きておいでだった頃の、本当に幸福な――、ああ、申し訳ない。なんだか感傷的になってしまいました。兄上が亡くなられた今時分の夏には、ふとこのような思いに囚われるのです。貴女が一番お辛いというのに、私は不甲斐ないものですね。



 ヨルゼク王太子殿下におかれてはその後、息災であられますか。殿下がせっておいでだと、あなたからお聞きしたときには、ご心配申し上げました。そちらの領地で、お心安らかに過ごされることを僭越ながらお祈り申し上げます。

 けれど、きっと私の心配など不要ですね。野に一面に美しいラベンダーと、何より貴女がおそばにいらっしゃるのなら、殿下のお心も御身も休息を得られることでしょうから。

 手紙のことは、貴女が気に病むことはありません。何より貴女は、殿下のことをお考えください。ご成婚前の大事な時期なのですから。

 貴女の仰る通り、私たちはいかなるときも寄り添っています。

 貴女がそれほどまでに、私と過ごした時間を慈しんでくださっていることが、何より私の心を慰めあたたかくしてくれるのですから。


 そう、本で思い出しました。知人が遥か東南の国へ赴いた折りに、色々に珍しいものを見たそうです。その現地の様子を書き留めたものを見聞録として出版するらしいのですが――、私へは知人のよしみで一冊いただけるとのことでした。よろしければ、貴女へお譲りいたしましょう。

 驚かないでください。じつはその知人というのは、旧政府の人間なのです。いえ、どうか誤解なさらないように。恐ろしい人物ではありません。とても快活な青年です。最初は旧政府の人間と聞いて、とても嫌悪していたのですが、彼の人となりを知るうちに認識を改めざるを得ませんでした。人とは――、じつに不思議なものですね。

 彼と話していると思います。我々が役に服したあの戦いは何だったのかと。その前の革命では、貴女のお父上を亡くしました。けれど先の戦いで、彼のような青年が数知れず亡くなったかと思うと、戦いとは何のためにするものなのかと、茫洋とした思いに立ち尽くしそうになるのです。


 お許しください。貴女を悲しませることを私は申し上げてしまいましたね。力のない一貴族の戯れ言だと思って、お聞き流しください。けれども貴女のことです。お優しい貴女は、きっと私を慰めようとなさるに違いありません。そしてそのことを見越して、貴女にこのようなことを訴える私は、いかばかりか愚かなことでしょう。


 追って、本を進呈差し上げます。貴女のひとときの安らぎとなれますよう。



 貴女の祖国より変わらぬ友情をこめて

 グレイス・エル・ガーネット

 七月二八日



 追伸

 風格というものは、あとから自然とついてくるものです。貴女は立派な祖国の皇女ですよ。野花を愛でるその心を、どうかそのまま持っていてください。




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