3.庭先
その週の土曜日。午後は外来がないので、病棟も人の行き来がほとんどない。
宏尚は久し振りに戸外にいた。病院の裏庭の建物の影に置かれたベンチのひとつに座っていた。
短い距離なら右足を引きずり加減に歩くことが出来るようになった。
昼休みの美鈴と一緒にここまで来たのだが、彼女は来るなり、
「ちょっと待ってて」と言い残して何処かへ行ったままだ。
L字に建った別棟の窓に人影が見えた。お年寄りの患者を車椅子に乗せて押す前島苑香だった。
目があって会釈を返したが、苑香の元へ廊下を急ぎ足でやって来た美鈴が、何かの包みを胸に抱えて二言三言話している。宏尚はその様子をずっと見ていた。
美鈴は小気味良く頭を下げて、また廊下を急ぎ足で戻ってきた。ニコニコしながら庭に下りて来た。
「はい、これ!」
「な、なんですか?」
花のように微笑む顔から、包みに視線を落とし、中を覗いた。
「おパンツ」と美鈴は笑った。
「え? 僕の……」
「そっ、三枚で九百八十円。安くてごめんね」
宏尚は首を振った。
「必ず返します」
「うん、当てにしないで待ってる」
美鈴は横に座った。「会社、辞めさせられたんでしょ?」
宏尚はうつむいた。
「なんで分かったんですか? 誰かに聞いた?」
そんなことを美鈴に告げる者などいない。
「やっぱりそうなんだ。見てれば分かるよ」
「会社っていうか、派遣先。漬物工場だったんだ。ボケッとしてた僕も悪いけど、フォークリフトに挟まれて」
「そう。ついてなかったね」
「うん」
「で? この前お見舞いに来たのが工場の人?」
宏尚、また首を振る。
「派遣会社の営業」
「あ、ごめんね。それ、この前話してくれたっけ」
そこまで話したかどうか覚えはない。
なにしろあの時は、頭のてっぺんから足の先まで美鈴に洗われていたのだ。そんな状況で◎ン◎コぎんぎんの二十歳の若者に、覚えていられるわけがない。
「はあん」と、なにかに納得したような表情の美鈴。その声が少し色っぽい。「例の派遣切りってことなの?」
宏尚は急に憂鬱になった。大怪我の後には、鬱病にもなりそうだ。
「美鈴さん」
「ん?」
「あの、ここの入院費用だけど」
「うん」
「三週間ぐらいだと、どのくらいになりそうですか」
「さあ」と首を傾げた。「わたし、お金のことは……ぜんぜん貯え、ないの?」
「一万ぐらい」
「あら」
住む所もないけどね、と宏尚は欝になる。
「足りなかったら」──絶対足りない。「兄貴に頭下げて借ります」
──無理だ。
「町田くんって、お友達いないのね」
「これからつくります」
友達付き合い出来そうな奴と、出会わなかっただけだ。
「退院したらどうするの? 泊まるところあるの? 実家へ帰るの?」
「いえ」
実家に宏尚の居場所はない。
美鈴が窓の方向を見遣った。名前を呼ばれたのだ。
振り向くことなく建物に消えて行ったが、すぐに戻ってきた。
「あまり長居はまだ良くないから、病室へ戻りましょ」