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1.入院


 手摺りを頼りに地下鉄の階段をやっとのことで上がりきった。歩道へおりる前に、重い瞼を上げて空を見た。


 真夏の陽射しがギラギラと眩しく、黒々と建物の構造をコントラストしている。


 町田宏尚は壁に寄りかかり、自分の右脚を擦った。痛い。まるでお荷物のように重い。彼はそこに座り込んだ。



 だが、いきなり腰の辺りに躓いた奴がいて、

「おおっと!」

 と、よろめいて転げそうになり、両足をバタつかせた。


「危ねえなあ」

 こんな所に座り込んでんじゃねえよ、とでも言いたげだった。



 宏尚は相手の顔を見て、

「今西さん?」と訊いた。彼の体を見て、

「もう退院したんですか?」と驚いた。



 その中年の男は、携帯電話を片手に振向いて宏尚を見下ろした。


 すると次に、

「大丈夫ですか?」と若い女の声。



 宏尚の前に赤いハイヒールを履いた足が現れた。彼と同じくらいの歳の女が立っていた。


 色白で体形の美しい女。座り込んで気持ち悪そうにしていた宏尚を気遣ったのか。



「はい」と宏尚は返した。相変わらず右足が痛いのだが、赤の他人に甘えるわけにはいかない。「大丈夫です」



 見ると彼女は知っている顔だった。


「杉本さん? 美鈴さんまで、どうしてここに?」



 宏尚は目の前のふくよかな赤い唇に魅せられた。

 これは夢かも知れない、と彼は突然思った。


 二十歳になったというのに、いまだに彼女も出来ずにいるため、こんな夢を見るのだ。

 夢なら覚めろ!



 呪文を唱えるくらいの間隔を置いてから、パッと目を開けた。


「町田さん? 町田さん!」と、今度は後ろから呼ぶ人がいる。



 振り返ると派遣会社の営業だった。そういえばそもそも待ち合わせで、此処へ来たのだった。


「朝早くから、お呼びだてして済みません。来月からの契約の更新をしないことを伝えたかったもので……」


 と言うではないか。控え気味とはいえ、一応営業スマイルだ。



 ええー!? そんなあ! これ、仕事中の怪我だったのにー。


 すると、「こんなご時勢だし」と念押しされた。



 クビ!? クビでしょ? それはないよー。これこそ夢であって欲しい。


「町田さん? 町田さん!」


 また呼ばれた。今度は若い女の声だ。宏尚は薄目を開けた。


「町田さん、今西さんが退院なの。挨拶したいって……」


 看護師の杉本美鈴がカーテンを引いて顔を出した。



「あ、今何時ですか?」


 寝惚けた声。宏尚はベッドに片肘ついて起き上がろうとした。「あ、痛てて」足がまだ痛い。



「横になってていいのよ」

 美鈴は腕時計を見て答えた。「十一時半よ」



 すると「どうも」と、今西康生が顔を出した。


 今朝まで隣のベッドに寝ていた中年男だ。「いろいろと仲良くしてくれて、ありがとう。町田くんも早く元気になってね」



 町田宏尚は十日前にこの総合病院に運ばれた。派遣先の漬物工場で、バックして来たフォークリフトと壁の間に挟まれたのだ。


 あっという間の出来事で、利き腕の右手首を骨折し、右脚の筋を痛めたらしく、思うように動かせなくない。

 病室のベッドに寝かされたときは、熱まで出る始末でうなされた。



 こんな目にあったのは、もちろん初めてのことで、救急車で運ばれたのも、入院したのも、生まれ育った田舎暮らしも含めて初めてだった。


 だから自分の身に起きたことが、とんでもなく大事おおごとで、大変な目にあったのだという思いが、熱まで出させたのかも知れない。



 この病室にはベッドは他に二台有って、正面のお爺さんは脳梗塞だったが、ある程度回復したとかで、三日前に退院した。


 隣のベッドの今西は、宏尚が来たときから、よく声を掛けてくれた。


 なんでも今西の病は不可思議なんだそうで、仕事中に気分が悪くなり、我慢出来なくなって早退して、家で寝ていたら敷布団が茶色く染まるほどの大汗をかいたのだそうだ。



 それで息子さんに付き添われての入院となったが、当初は宏尚より酷く、下半身が思うように動かなかったらしい。


 だが、今日は元気に退院して行くのだ。



 以前、今西が冗談めかして言ったことがある。


『あんまり長居すると、退院手続きの請求書見て、目ん玉が飛び出てもいかんからなあ』



 実際、宏尚もこの十日でいくらになっているのか気になってしょうがない。


「町田さん」

 と美鈴が戻ってきて、ベッドのまわりのカーテンを引きながら言った。「もうすぐお昼ご飯だから、その前にお小水とりましょうね」



 二十二歳だという美鈴は、はきはきとして明るくて綺麗な女だ。

 この病棟には他にも若い女の看護師はいるし、もちろん年配の看護師もいる。だが、杉本美鈴のときだけ、宏尚もどきどきが抑えられなかった。



 というのは、『美鈴に触れられると欲情する』と、今西から聞かされたことがあって、それ以来余計に意識するようになってしまった。


『ウエストはギュッと締まって、胸も大きい。あの白衣の中を見てみたいものだ。たまらんだろうなあ。

こっちは体の自由が利かない間、チ◎◎もケ◎の◎も見られ放題だったんだ』


 と、罰当たりなことを言っていたおじさんも、今はいない。静かになった。



「いつものように、いいですね」


 痛めた右足を下にして、左足を交差するように膝を立てる。


「はい」と美鈴はなんの躊躇いもなく尿瓶を突き出した。



 入院して以来、宏尚はずっと紙オムツをさせられていたが、この暑さでオムツのゴムで肌がかぶれてしまったことと、オムツ自体が屈辱的だったこともあって、病院に断ってパンツとTシャツでいた。


 宏尚は恥ずかしくてしようがないが、一人でトイレに行けないうちは、これも仕方のないことだった。



 先ほど見た夢と、目の前の美鈴の顔が重なって、彼は妄想を見透かされたように顔を真っ赤にした。


 だが、美鈴はまだ優しいほうだ。今西が言っていたが、同じ看護師でも前嶋苑香は扱いがぞんざいだという。


『細かくは言いたくないけど、あれは屈辱的だった』と、今西は嘆いていた。


 きっと俺はストレス発散に使われたんだ、アラフォー苑香は早期の更年期障害なんだろう、などと文句を言っていた。


 だが、普段から我侭で口数の多い今西だから、懲らしめられたのかも知れないと、今では宏尚は思っている。



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