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第六章 牙を見た獣たち

 逃げ帰った盗賊が親分の前へ転がり込んだのは、その日の昼前だった。


 街道を外れた岩場の根城。

 半ば洞窟、半ば砦のように改造された粗野な隠れ家の中で、男は血まみれの肩を押さえながら息を切らしていた。


「た、ただの廃都じゃねえ……!」


 親分と呼ばれた大男は、木椀の酒を飲みながら片眉を上げる。


「そうか」


 それだけだった。


 部下が一人減ろうが二人減ろうが、大した感慨もない顔。

 顎髭に混じる灰色と、何度も刃をくぐってきた者だけが持つ鈍い殺気が、この男がただの山賊ではないことを物語っていた。


 名を、ガルザという。


「壁がある! 水もある! それに――」


「落ち着け」


 ガルザは酒椀を置いた。


「順番に吐け」


 盗賊は肩で息をしながら、何とか言葉を繋ぐ。


「門の前で仕掛けられた……地面が動いたんだ。武器も壊された。中には……兵がいた」


「兵?」


「数は少ねえ! だが、ただの寄せ集めじゃねえ! 壁の上、門の裏、横から……役割があった!」


 ガルザの目が細くなる。


 その一言だけで、状況の不味さが少し分かる。

 偶然勝った集団なら脅せば崩れる。だが役割分担があるなら話が変わる。


「領主は?」


「若い。細い。黒い服を着たガキだ」


「ガキにやられたのか」


 根城の中に、嘲るような笑いが広がった。

 だが、血まみれの男はその笑いに怒る余裕もない。


「見た目はそうだ! だが違う、あいつ……壁を動かした。武器を壊した。石が飛んだ。鎖が絡んだ。あれは普通じゃねえ」


 笑いが止む。


 ガルザは顎を撫でた。


「面白い」


「面白くねえよ!」


「俺には面白い」


 立ち上がる。

 大きい。横にも厚い。鈍重そうに見えるが、立つだけで周囲の空気が少し下がる。


「廃都に壁、水、武装。それでいてまだ小さい」


 口元が歪んだ。


「育つ前なら喰える」


 盗賊の一人が慎重に言う。


「親分、でも相手は妙な術を……」


「だからだ」


 ガルザは短く返す。


「妙な術持ちが、辺境で街を作ってる。そんなもん、放っておけるか」


 酒椀を蹴る。

 乾いた音が根城に響いた。


「集めろ。近場の連中も使う。次は様子見じゃねえ」


 盗賊たちの顔が引き締まる。


「喰うぞ。壁も、水も、人も、まとめてな」


 その頃ネクロヴァリアでは、まったく別の熱が広がっていた。


 盗賊を退けたという事実は、想像以上に強かった。


 流れ者は増えた。

 ただの飢民だけではない。商隊崩れ、徴兵上がり、傭兵くずれ、行き場を失った職人、追われた者、捨てられた者。

 胡散臭い顔ぶれも多い。だがそれでも、人が来るということ自体が街の力だった。


 広場の一角では、ガウェインが新入りを睨みつけている。


「名前」


「エド」


「前職」


「荷馬車護衛」


「武器は」


「槍と鉈」


「足は」


「遅くはねえ」


「嘘なら捨てる」


「本当だ」


 木板へ記録する少年記録係――最近では補助役が二人ついた――が、必死に炭を走らせる。


 フィアはその隣で、布と簡易の身分札を配っていた。

 名前、持ち場、寝場所。まだ整いきってはいないが、“ただ押し込むだけ”ではなくなっている。


 ネクロヴァリアに来た者はまず、


水を飲まされる


名前を聞かれる


何ができるか問われる


働けるなら役目を与えられる


怪しければヴェスに影を取られる



という流れになっていた。


 完全に街の入口だ。

 それも、妙に機能的な。


 倉庫の裏手では、ゼノスが壁にもたれて図面のようなものを睨んでいた。


 正確には図面ではない。

 木板の上に、炭で何重にも線が引かれ、消され、また足されている。兵舎の増設、壁上通路、拘束檻、投擲補給路、警鐘位置、見張り交代導線。

 頭の中にはもっと正確な構造があるが、他人に使わせるには粗くても形へ落とす必要がある。


「見づらいな」


 自分で描いておいてそう言う。


「だったら誰かに描かせてくださいよ」


 フィアが呆れたように言った。最近、彼女はゼノスに対して前より少しだけ遠慮が薄い。


「描ける者が足りん」


「育てるんじゃなかったんですか、文字」


「だから足りんと言っている」


 フィアが小さく笑う。

 その横で、少年記録係が「俺も図、覚えたい」とぼそりと呟いていた。


 そこへガウェインが戻ってくる。


「新入り六。うち二人は外れです。酒癖が悪い。門番より先に水瓶へ手を出そうとしました」


「捨てろ」


「もう?」


「早い方がいい」


「了解」


 ガウェインは即答する。

 情がないわけではない。ただ、ここで線を曖昧にすると全部が腐ると理解している。


 ゼノスは木板を裏返した。


「まともなのは」


「三人。徴兵上がり一、元石工一、荷運び兼見張り一」


「石工?」


「はい。北の工区で使い潰されたそうです」


 ゼノスの目が少しだけ動く。


「どこだ」


「倉庫脇」


 ゼノスはすぐ歩き出した。

 フィアと少年記録係が顔を見合わせる。人材の話になると、この総督は露骨に反応がいい。


 倉庫脇には、土埃を被った男が座っていた。

 三十代後半ほど。腕は太い。爪の間にまだ石粉が残っている。疲れてはいるが、目までは死んでいない。


「立て」


 ゼノスが言う。


 男は警戒しながらも立つ。


「石工だな」


「……そうだ」


「どこまでやれる」


「積み、削り、基礎見、支柱補修、簡単な排水勾配なら」


「図は読めるか」


「雑なのは無理だ」


 そこでフィアが吹きそうになった。

 ゼノスが描いた木板を見た直後だったからだ。


 ゼノスは無視する。


「名は」


「ハロル」


「今日から工区だ。逃げるな」


「逃げる気はねえ」


「なら使う」


 ハロルは少しだけ眉を上げた。


「雇う、じゃねえのか」


「雇っているつもりはない」


「使う、か」


「不満か」


「いや」


 ハロルは街を見回す。白灰色の新しい壁、整え直された通路、資材の山、組み替え途中の兵舎。


「そう言われた方が、逆に信用できる」


 ゼノスは何も答えない。

 だがその場で踵を返さなかった時点で、実質的には気に入ったのだと分かる。


 その日の夕方、ついに黒鉄会が現れた。


 いや、正確には“現れた”のではない。

 ガウェインがここ数日、流れ者の口伝と古い繋がりを辿って探し当て、半ば脅迫じみた説得で引っ張ってきたのだ。


 広場へ入ってきたのは五人。


 全員が煤けていた。

 年齢はばらばら。四十前後の壮年が二人、五十を越えた老人が一人、若いのが二人。工具袋、ゴーグル、焼け焦げた作業着。職人というより事故現場からそのまま抜け出してきた集団に見える。


 先頭の壮年が、広場の新しい構造を見た瞬間、足を止めた。


「……おい」


 後ろの若いのも、目を剥く。


「壁、これ……」


「誰が引いた」


 その声に、ゼノスが出てくる。


「俺だ」


 五人の視線が一斉に集まる。


 先頭の壮年――灰色の髪を後ろで束ねた、無精髭の男――が、じっとゼノスを見る。

 その目は疑っているというより、信じたくないものを前にした技師の目だった。


「お前が?」


「そうだ」


「設計は」


「頭の中だ」


「……図は」


「雑ならある」


 そう言ってゼノスが木板を差し出した瞬間、フィアがまた顔を逸らした。

 雑、では済まないと思っているのが表情に出ている。


 壮年の男は木板を受け取り、一目見て、こめかみを押さえた。


「ひでえ」


「読めんのか」


「読める。読めるのが腹立つ」


 後ろの若い技師が覗き込み、次の瞬間に息を飲む。


「この線……兵舎の荷重逃がしと、壁上補給路が同時に入ってる……」


「しかも拘束檻が門脇から引き出せる」


「排水と投擲補給、同じ導線に噛ませてるぞこの人……」


 ゼノスは眉をひそめる。


「遅い。見れば分かる」


 壮年の男はゆっくり顔を上げた。


「名を聞こうか、領主様」


「ゼノス」


「俺はバルドだ。元宮廷技師団」


「知っている」


「は?」


「ガウェインから聞いた。使える変人どもだと」


 後ろでガウェインが咳払いした。

 バルドは無精髭を撫でる。


「……否定しづれえな」


「で、どうだ」


 ゼノスは木板を取り返す。


「やるか。やらんか」


 バルドは少し黙り、それから街を見回した。

 壁。井戸。排水路。兵舎候補。門前の拘束具。広場で動く人。見張り台。

 全部が荒い。全部が途中。だが芯だけは異様に鋭い。


「やる」


 即答だった。


「条件は」


「出せる飯と、まともな工具と、現場で口を出す権利」


「飯は出す。工具は探せ。口は出せ。だが遅いと蹴る」


 バルドの口元が歪む。


「上等だ、クソ領主」


 広場の空気が少しだけ変わる。

 新しく来た者たちがざわつく。領主に向かってその口の利き方か、と。


 だがゼノスは、逆に少しだけ機嫌がよくなったように見えた。


「気に入った」


「そりゃどうも」


 バルドは木板をもう一度覗き込む。


「まず門前だ。拘束具はいいが、今のままだと引き込みが遅い。遊撃と連動させろ。あと壁上の弾薬置き場が丸見えだ。石をまとめて吹っ飛ばされたら終わる」


「分かっている。だからお前を呼んだ」


「最初からそう言え」


「言った」


「言い方の問題だ」


 そこでヴェスが後ろから口を挟む。


「じゃあ、おっさんらは何だ。番犬小屋の大工か?」


 若い技師の一人が顔をしかめる。だがバルドだけは、にやりと笑った。


「違うな」


 そしてゼノスを見た。


「檻と鎖の鍛冶屋だ」


 ゼノスは一瞬だけ黙り、それから短く頷いた。


「悪くない」


 フィアはそのやり取りを聞きながら、変な確信が湧くのを感じていた。


 街が変わっていく。

 しかも恐ろしく速い。

 人が来る。役割が生まれる。牙が増える。檻ができる。鎖が繋がる。

 その全部が、ゼノスの「俺のものだ」という一言から始まっている。


 その夜、兵舎候補の倉庫では、即席の会議が開かれた。


 木箱の上に木板が並べられる。

 ゼノス、ガウェイン、バルド、ヴェス、セラ、ドラン、ベラム。呼ばれたのは主だった者たちだけだ。


「数が増える」


 ゼノスが言う。


「人も、敵もだ」


 誰も口を挟まない。


「だから分ける。前衛、壁上、遊撃、工区。これを固定する」


 バルドが顎を撫でる。


「工区も軍の一部に入れる気か」


「当然だ。壁も罠も武器だ」


「いいね。気に入った」


 ガウェインが木板へ線を足す。


「なら兵舎も分けるべきです。前衛は門寄り、遊撃は外へ出やすい北側、工区は資材置き場隣接」


「そうしろ」


 セラが静かに言った。


「補給路は一本だと詰まる」


「二本引く」


 ドランが続く。


「鐘だけじゃ足りねえ。夜霧が濃い日は灯りの合図もいる」


「増やす」


 ヴェスが壁にもたれたまま、半笑いで言う。


「で、いつまで番犬呼びなんだ?」


 会議が一瞬だけ止まる。


 バルドがにやつく。

 ガウェインは真顔だ。

 フィアは会議にはいないが、もしここにいたら間違いなく耳をそばだてていた。


 ゼノスは露骨に面倒そうな顔をした。


「名前など要らん」


「いるよ」


 ヴェスは即答した。


「呼ぶのに不便だろ。“おいそこの番犬”じゃ区別つかねえ」


「お前はつかなくていい」


「俺は困らねえけど、飼い主が困る」


 ゼノスのこめかみがぴくりと動く。


「その呼び方をやめろ」


「じゃあ名前くれよ」


 バルドが口を開いた。


「まあ、現場でも名称は要る。資材管理も記録も楽になる」


「……面倒だな」


「面倒だから決めるんだ」


 ゼノスは数秒、沈黙した。


 全員が待っている。

 嫌な間だ。


 やがて彼は、本当に仕方なさそうに言った。


「黒鎖」


 短い言葉だった。


 ヴェスが片眉を上げる。


「黒鎖?」


「檻も、拘束具も、統制も、全部まとめてそれでいい」


 ガウェインが木板に書きつける。


『黒鎖』


 その二文字が、妙に重かった。


 バルドが低く笑う。


「悪くねえ」


 セラは無言で頷く。

 ドランは小さく繰り返した。「黒鎖……」


 ベラムは、それを一度だけ噛みしめるように口の中で転がした。


 ゼノスは全員の反応を見て、すぐに話を打ち切る。


「以上だ。明日から黒鎖を増やす」


 ヴェスが吹き出す。


「自分で言ってんじゃねえか」


「黙れ」


「いや、ちょっと面白くて」


「口を縫うぞ」


 そこでとうとう、ガウェインまでほんのわずかに肩を揺らした。


 ゼノスだけが不機嫌そうに立ち上がる。


「次は盗賊の親玉だ。小隊じゃ終わらん」


 空気が引き締まる。


「ならこちらも終わらせない。壁を増す。罠を張る。黒鎖を増やす。来た奴から噛み砕く」


 その言葉には、もう迷いがなかった。


 こうしてネクロヴァリアには、ついに名が生まれた。

 まだ小さく、まだ未熟で、まだ寄せ集めにすぎない集団。

 だがその集団は、すでに街の壁となり、牙となり始めている。


 後に帝国すら警戒することになる黒鎖軍の名は、この夜、領主の面倒くさそうな一言から生まれたのである。

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