第五章 番犬の初陣
盗賊は、朝焼けの前に来た。
見張り台の鐘が、短く二度。
間を置いて、三度。
ガウェインが決めた合図では、
二度が「接近」、三度が「武装複数」だった。
ネクロヴァリアの空気が一瞬で変わる。
まだ暗い広場で、寝台から跳ね起きた者たちが音もなく動き出した。子どもを抱えた女たちは壁内側の退避区画へ、炊き出し役は火を消し、搬送役は担架を引き寄せる。
誰も叫ばない。
もう、ただ怯えるだけの街ではなかった。
広場の端、仮兵舎の出入口でヴェスが舌打ちする。
「早ぇな」
その手には、昨夜手入れを終えた短剣と短槍。
隣ではセラが投擲用の石嚢を腰へ括りつけ、ドランは鐘の補助紐と壁上用の予備槍を抱えていた。
ガウェインが走り込んでくる。
「北西外周。数は七から十。足は軽い。様子見ではない、取りに来てる」
「盗賊か」
「その可能性が高い」
ヴェスが薄く笑った。
「なら、ちょうどいい」
兵舎の奥からベラムたちが出てくる。
前衛三、壁上補助四、遊撃二、後方三。
まだ軍とは呼べない数だ。だが役割はある。
そこへ、ゼノスが現れた。
黒衣の上から簡素な外套を羽織っただけの姿。剣もない。盾もない。だが、その場に立った瞬間、妙に空気が冷える。
「数は」
「七から十」
「少ないな」
ゼノスの第一声がそれだった。
ガウェインが頷く。
「値踏みでしょう。街の様子と、奪えるものの確認です」
「潰す」
一言。
あまりにあっさりしていて、逆に広場が静まる。
ゼノスは周囲を見た。
「ガウェイン」
「はっ」
「前衛を門裏へ。壁の正面で受けるな。通す」
「通してから潰すと」
「そうだ」
ヴェスがにやりとした。
「性格わりぃな」
「褒めるな」
「褒めてねえよ」
ゼノスはセラを見る。
「石は」
「三十。小型の金具も十」
「上出来だ。目を狙え。殺せなくていい。見えなくすれば止まる」
「了解」
「ドラン」
「お、おう」
「鐘は合図だけで鳴らせ。鳴らしっぱなしにするな。耳障りだ」
ドランが思わず真顔になる。
「そこなのか……」
「そこだ」
フィアが退避区画の方から駆けてきた。
「子どもたち、下げました。水も運んであります」
「なら下がれ」
「でも――」
「邪魔だ」
いつものように冷たい。
だがフィアはもう傷つかない。
むしろ少しだけ唇を引き結び、
「……はい」
と答えて、すぐに走って戻った。
ゼノスは最後に全員を見回した。
「聞け」
短い声だった。
「死ぬな。高くつく」
それだけ。
だがヴェスは鼻で笑い、ベラムは槍を握り直し、セラは無言で頷いた。
十分だった。
城壁の上から、朝靄の向こうが見える。
北西外周。瓦礫と毒霧の薄い帯の向こうから、人影が近づいてくる。
八人。
剣が三。斧が二。弓が一。あとは棍棒と鉈。
鎧はばらばらだが、足運びにはためらいがない。場慣れした略奪者の歩き方だった。
先頭の男が、新しい城壁を見て舌打ちする。
「噂通りかよ」
「たかが辺境の捨て街が、生意気に壁なんか作りやがって」
「壁があるなら、中に溜め込んでるってことだ」
弓持ちが目を細めた。
「見張りがいるぞ」
「数は少ねえ。脅せば開く」
ゼノスは壁上からそれを見下ろしていた。
横にガウェイン。
少し離れてセラ。
さらに下、門裏にはベラムたち前衛。ヴェスはもう見えない。外へ回った。
「馬鹿だな」
ゼノスが呟く。
ガウェインが問う。
「撃ちますか」
「まだだ」
盗賊たちは堂々と門前まで近づいてきた。
おそらく、今までのネクロヴァリアならそれで十分だったのだろう。壁は崩れ、住民は怯え、少し脅せば食糧も人も差し出した。
先頭の男が怒鳴る。
「おい、開けろ! 通行税だ!」
壁上にいたドランが思わず顔をしかめる。
通行税。盗賊の常套句だ。
「聞いてるのか、この毒溜まりのゴミども!」
ゼノスは壁から身を乗り出した。
「聞こえている」
盗賊たちが一斉に見上げる。
黒衣の若い領主。
細い。武装も薄い。ぱっと見れば、前に立つタイプには見えない。
だから、先頭の男は笑った。
「何だ、坊ちゃんが出てきたか」
「失せろ」
ゼノスは言った。
ただそれだけだった。
盗賊たちは一瞬ぽかんとし、それから下卑た笑いを上げた。
「聞いたか?」
「失せろ、だとよ」
「壁だけ作って気がでかくなったらしい」
先頭の男が斧を肩へ担ぐ。
「こっちは親分の命で来てんだ。中の水と食糧、あと使えそうな女と若いのを寄越せ。そうすりゃ今日は火を放たずに済ませてやる」
壁上の空気が凍る。
セラの目が細くなり、ドランの指が鐘紐を強く握る。
広場の向こう、退避区画でそれを聞いた住民たちが息を呑んだのが分かった。
ゼノスの顔色は変わらない。
「却下だ」
「……あ?」
「俺のものだ。やらん」
その返しに、盗賊の笑いが止まる。
「舐めてんのか、坊ちゃん」
「お前らがな」
ゼノスの声は平坦だった。
「値踏みに来たつもりだろうが、逆だ。こちらがお前らの値段を見ている」
先頭の男の眉が吊り上がる。
「殺せ」
その一言で、弓持ちが前へ出た。
だが、弓を引き切る前にセラの石が飛んだ。
乾いた音。
男の手首が跳ね、矢が明後日の方向へ逸れる。
「なっ」
「目だ」
ゼノスが短く言う。
二投目。
今度は頬骨。男がよろめく。
「門を開けろ!」
盗賊たちが一斉に突っ込んでくる。
その瞬間、ゼノスが手を振った。
門前の地面が割れる。
いや、割れたように見えたのは、石畳の一部が一斉に持ち上がったからだ。
薄い板状に再構築された石材が、足元を滑るように走り、盗賊たちの踏み込みをずらす。
二人が体勢を崩す。
「今だ」
ガウェインの声と同時に、門裏からベラムたちが飛び出した。
正面からぶつからない。
崩れた二人をまず叩く。
ガウェインが一晩で叩き込んだ通りの動きだった。
ベラムの槍が一人の肩を穿つ。
横から出た若者が棍棒を弾き飛ばす。
もう一人は盾代わりの板を押し込み、門前に小さな乱戦空間を作った。
だが盗賊も場慣れしている。
すぐに横へ開き、数で包もうとした。
「右、回る!」
ガウェインが壁上から叫ぶ。
同時に、壁沿いの瓦礫影からヴェスが現れた。
「遅ぇよ」
短い悪態とともに、盗賊の背後へ滑り込む。
狙うのは首ではない。膝裏。足首。握り。
殺し損ねてもいい。止めればいい。ゼノスの命令はそうだった。
一人が悲鳴を上げて倒れる。
もう一人が振り向きざまに刃を払うが、ヴェスはすでに半歩後ろにいる。そのまま短槍の石突きで顎を打ち抜いた。
「このっ!」
盗賊の斧持ちがベラムへ迫る。
重い一撃。ベラムの槍では受けきれない。
その瞬間、斧の柄が途中で“ほどけた”。
男が目を見開く。
握っていたはずの武器が、手元から先だけ急に分解され、木片と鉄片になって崩れ落ちる。
「は?」
ゼノスだった。
壁上から片手を向けただけ。
それだけで武器が死ぬ。
「前を見ろ。ぼさっとするな」
冷たい声。
直後、ベラムの槍先が男の脇腹へ入った。
戦いの流れが一気に傾く。
盗賊たちは強くはない。
いや、個々にはそこそこ強いのだろう。
だが相手が怯えて逃げる民ではなく、壁と合図と役割を持った集団に変わっていたことを理解していない。
それが致命的だった。
「退け!」
盗賊の一人が叫ぶ。
ようやく異変に気づいたのだろう。
だが遅い。
「逃がすな」
ゼノスが言う。
それだけで、壁際に積んであった黒鉄片が跳ねた。
細い鎖のように再構築され、逃げようとした二人の足へ絡みつく。転倒。そこへヴェスが追いつく。
「番犬、なめんな」
短い打撃音。
最後の一人が霧の方へ走った。
ゼノスは少しだけ眉を寄せる。
捕まえるか。殺すか。――いや。
「一人だけ行かせろ」
ガウェインが即座に理解する。
「報せを持ち帰らせると」
「そうだ」
ヴェスが不満そうに振り返る。
「噛み切っていいだろ」
「駄目だ」
「ちっ」
「代わりに怯えさせろ」
その命令には従うらしい。
ヴェスは舌打ちしつつ、逃げる男のすぐ後ろまで追って、わざと肩口だけを裂いた。
盗賊は悲鳴を上げ、そのまま霧の中へ転がるように消えていく。
静かになる。
荒い息。
血の匂い。
石畳に転がる武器。
朝靄の中、門前だけが妙に濃い現実になっていた。
ベラムが槍を下ろす。
若い者たちはまだ顔がこわばっている。
セラは最後の石を指の間で転がし、ドランは鐘を鳴らさなかったことに安堵したように息を吐いた。
ガウェインが門前へ降りる。
「確認!」
声が飛ぶ。
「生きてる盗賊は縛れ! こっちの怪我は!」
「浅手一!」
「問題なし!」
「足を切っただけだ!」
即座に応答が返る。
ぎこちないが、遅くはない。
ゼノスも壁を降りた。
最後に残っていた盗賊の一人が、地面に押さえつけられたまま睨み上げてくる。
「くそっ……ただの捨て街じゃ……」
「昨日までそうだった」
ゼノスは見下ろした。
「今日から違う」
「何者だ、お前……」
ゼノスは少しだけ考え、それから本当にどうでもよさそうに言った。
「飼い主だ」
一瞬の沈黙。
そしてヴェスが、とうとう吹き出した。
「は、はは……っ、おい、それ自分で言うのかよ」
セラまで口元を押さえている。
ベラムは困ったような顔で視線を逸らした。
ガウェインだけは真顔のままだったが、口元がわずかに緩んでいた。
ゼノスは本気で不機嫌そうに周囲を見る。
「何がおかしい」
「いや、最高だろそれ」
「黙れ」
フィアたち住民が、退避区画の向こうから恐る恐る顔を出してくる。
門前の惨状を見て、一瞬だけ足を止めた。
だが次に見えたのは、倒れているのが盗賊ばかりで、ベラムたちが立っている光景だった。
ざわめきが広がる。
「勝った……?」
「今の人数で……?」
「盗賊相手に……?」
誰かが拍手をしかけて、途中でやめた。
こんな場面でしていいのか分からなかったのだろう。
だがその迷いを断ち切るように、フィアが前へ出た。
「怪我人!」
その一声で、住民たちが一斉に動いた。
水。
布。
担架。
縄。
後方役が持ち場につく。
ゼノスはその様子を見て、ほんの少しだけ目を細めた。
悪くない。
役割がある。
命令が通る。
前に出る者がいて、支える者がいる。
これはもう、ただの生存者の群れではない。
ガウェインが近づいてくる。
「初陣としては上出来です」
「甘い」
「ええ。ですが、形にはなった」
「そうだな」
ゼノスは短く答えた。
その視線は、逃がした盗賊が消えた霧の方を向いている。
「次は数が増える」
「でしょうね」
「なら、こっちも増やす」
ガウェインが問う。
「本格的に?」
「今ので分かった」
ゼノスは淡々としている。
「拾い集めた番犬でも、小隊くらいなら噛み砕ける。なら、数と規律を足せばもっと噛める」
「承知」
「今日から募集の幅を広げろ。流れ者、退役兵、徴兵逃れ、訳あり、何でもいい。使えるなら拾う」
「条件は」
「二つ」
ゼノスは倒れた盗賊の武器を見下ろす。
「役に立つこと。俺のものに手を出さないこと」
「簡潔で結構」
「あと黒鉄会にも急がせろ。武器だけじゃ足りん。罠、壁上設備、拘束具、補修道具。全部要る」
そこでヴェスが割って入る。
「遊撃も増やせ」
「理由は」
「外、広すぎる。今の人数じゃ嗅ぎきれねえ」
ゼノスは一瞬だけ見た。
「分かった。候補を選べ」
「へいへい」
「返事が軽い」
「重く返す性格じゃねえんだよ」
ゼノスはため息もつかない。ただ一言。
「矯正するか」
ヴェスが今度は露骨に顔をしかめた。
「勘弁しろ、飼い主」
その呼び方に、また何人かが噴き出しかける。
ゼノスだけが本気で嫌そうだった。
「次に言ったら口を縫う」
「できんの?」
「無機物ならな」
「ひでえ」
そこで初めて、広場のあちこちに小さな笑いが散った。
血の匂いがまだ残る朝だった。
盗賊を倒した直後だった。
それでも笑いが出た。
ネクロヴァリアは、確実に変わり始めていた。
捕らえた盗賊たちは縛られ、旧倉庫脇へ転がされる。
武器は没収。使えるものと使えないものに分けられる。
フィアは怪我人へ水を配り、セラは散った石を拾い集め、ドランは鐘の位置をもう一度見直していた。
ベラムが槍を見下ろしながら、ぽつりと呟く。
「……俺たち、本当に勝ったんだな」
その言葉に、若いルカがまだ興奮の残る顔で頷く。
「壁の後ろで戦うって、こういうことか」
「違う」
ゼノスが横から切った。
二人がびくりとする。
「今回は勝っただけだ。覚えるな。次に同じ動きをすれば読まれる」
ルカが口を閉じる。
だがその目は死んでいない。
ゼノスは続ける。
「前衛は踏み込みが甘い。壁上は石の補充が遅い。遊撃は一人逃がす判断までが遅かった。ドラン」
「お、おう」
「鐘を鳴らさなかったのは正解だ。余計な音がなかった」
ドランが一瞬だけ呆然とし、それからぎこちなく頷いた。
「……ああ」
褒められたわけではない。
だが、認められたのは分かる。
その程度の言葉で十分だった。
ゼノスは踵を返す。
「訓練を増やす。兵舎も広げる。倉庫を一つ潰して構わん」
ガウェインがすぐついてくる。
「食糧庫が減ります」
「なら増築だ」
「簡単に言う」
「簡単だから言っている」
「総督にとっては、でしょう」
「違うのか」
ガウェインは返事の代わりに苦笑した。
後ろでは、住民たちが少しずつ盗賊の襲撃から立ち直り、動き始めている。
前より速い。前より迷いが少ない。前より恐怖に飲まれていない。
それを見て、フィアは確信した。
あの人は街を変えた。
壁や井戸だけじゃない。
人の動きまで変えてしまった。
そして今日、とうとう分かってしまったのだ。
この街には、もう牙がある。
小さく、粗く、不格好でも。
確かに外敵へ噛みつく牙が。
その日、逃げ帰った盗賊が何を語ったかは定かではない。
ただ一つだけ確かなのは、ネクロヴァリアはもはや“ただの廃棄都市”としては見られなくなった、ということだった。
壁がある。
水がある。
秩序がある。
そして何より――
冷たい主の号令一つで噛みつく、名もなき番犬たちがいる。
後に黒鎖軍の最初の実戦として語られるこの小さな戦いは、灰都の外に向けて放たれた、最初の明確な牙音だったのである。




