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第一章 毒都の最初の破壊

ネクロヴァリアの住民たちは、しばらく泣いていた。


 新しい領主が来た。

 それだけなら、ここでは何の希望にもならない。むしろ逆だ。徴発か、見せしめか、処分か。どのみち碌でもないことになる。そんな未来しか、彼らは知らなかった。


 だからこそ「死ぬな」と命じられたことが、理解を超えていたのだろう。


 ゼノスはその様子を、ひどく居心地悪そうに見ていた。


「……いつまでそうしている」


 広場に膝をついたままの老人へ、苛立たしげに声を投げる。


 皺だらけの老人は、びくりと肩を震わせた。


「も、申し訳ございません、新たなる領主様……」


「その呼び方もやめろ。耳障りだ」


「では……総督様、と」


「もっと鬱陶しいな」


 ゼノスは眉間を押さえた。

 この手のやり取りだけで疲れる。帝都でもそうだった。人間はなぜ、意味のない装飾を言葉につけたがるのか。


 だが、怒鳴っても仕方がない。

 まずはこの都市の現状を把握するほうが先だ。


「お前」


 ゼノスは、子どもを抱いた女を指さした。

 女は強張った顔で身を竦ませる。


「名は」


「……フィア、です」


「立て。案内しろ」


「え……?」


「この街だ。住居区、井戸、倉庫、外壁、使えそうな施設。全部見せろ」


 フィアは困惑したように周囲を見た。助けを求めるような目だったが、誰も口を出せない。


 代わりに、先ほど最初に膝をついた老人が、恐る恐る前へ出た。


「それなら、わしが……」


「貴様は足が遅そうだ」


「は……」


「倒れられても面倒だ。女、お前でいい」


 フィアの顔色が青くなる。


「こ、子どもが……」


「連れてこい。置いていって死なれても困る」


 それを聞いた瞬間、フィアは唇を震わせた。

 今度は恐怖ではなく、別の感情だった。


「……はい」


 ゼノスは踵を返した。


「護衛」


「はっ」


「荷は広場に置いておけ。逃げる価値もない土地だ」


 護衛騎士は微妙な表情をしたが、異論は挟まなかった。

 帝都から付けられた見張り役である以上、必要以上に口を出すつもりはないらしい。


 広場を出ると、街の傷みはいっそうひどくなった。


 家々はどれも傾き、外壁は黒く染み、窓は割れたまま、扉すらまともについていない。石材は毒に侵されて崩れ、木材は腐り、ところどころに旧文明由来らしき黒鉄の骨組みが覗いていた。


 道端には排水とも泥ともつかない汚水が淀み、鼻を刺すような刺激臭が漂っている。


 ゼノスは目を細めた。


「ひどいな」


 フィアがびくりとする。


「も、申し訳……」


「お前が謝ることではない」


 言いながら、ゼノスは壁の一部に手を触れた。


 ざらり、とした感触。

 表面は石に見えるが、芯に混じっているのは旧式の補強材だ。しかも腐食している。毒霧だけではない。排水も構造も最初から破綻していたらしい。


 指先から魔力を流し込む。


 瞬間、頭の中に構造が開いた。


 石灰。

 砂。

 黒鉄。

 腐食。

 毒素の浸潤経路。

 ひび割れの連鎖。

 荷重の偏り。


 ゼノスの口元が、うっすら歪む。


 見える。

 全部、見える。


 フィアが怯えたように一歩下がった。


「あの……」


「黙っていろ。うるさい」


 ゼノスは手を離し、周囲を見渡した。


「この一帯の住居は、いつ崩れてもおかしくない」


「……え?」


「いや、正確にはいくつかはすでに半分崩れているな。よく今まで潰れずにいたものだ」


 フィアは慌てて子どもを抱き直した。


「そ、そんな……でも、ここしか……」


「だから壊す」


 足を止めた。


 フィアの顔から血の気が引く。


「こ、壊……」


「目障りだ」


 ゼノスは冷たく言った。


「傾いた壁、腐った梁、毒を吸った床。見ているだけで不快だ。俺の街にそんなものを残しておく理由がない」


 フィアの腕の中の子どもが、小さく泣き声を漏らした。


 その声に反応したのか、近くの家から何人か住民が顔を出す。やせ細った老人、包帯を巻いた男、怯えた目をした少女。新しい領主の言葉に、空気が一気に強張った。


「お、お待ちください……!」


 フィアがついに声を上げた。


「そこには、まだ人が住んでいます……! 壊されたら、今夜を越せません……!」


「だから何だ」


「え……」


「代わりを作れば済む話だろう」


 あまりにもあっさりと言われて、フィアは言葉を失った。


 ゼノスは面倒そうに息を吐き、家並みの中央へ歩き出た。


 どれもこれも粗悪だ。

 応急処置を積み重ねた継ぎ接ぎの巣。雨風は防げても、毒も病も防げない。こんなものを住居と呼ぶこと自体が不快だった。


 住民たちは遠巻きに見ている。

 逃げない。逃げる場所がないからだろう。


 ゼノスは、一軒の家の前で止まった。


 広場からも近い、ひときわ傾いた小屋だった。壁はひび割れ、屋根は片側が落ち、床下からは薄紫の蒸気が漏れている。


「誰の家だ」


 答えたのは、包帯を巻いた男だった。


「……俺です」


「家族は」


「妻と娘が一人」


「出せ」


 男は青ざめた。


「な……」


「聞こえなかったか。今すぐ全員出せ」


 男は唇を噛みしめたまま、慌てて中へ駆け込んだ。ほどなくして、痩せた女と十にも満たぬ少女を連れて出てくる。少女は、何が起きるのか分からず、父の服をぎゅっと掴んでいた。


 ゼノスはそれを確認すると、わずかに頷いた。


「下がれ」


 周囲が息を呑む。


 フィアの声が震えた。


「本当に、壊すんですか……?」


「さっきからそう言っている」


 ゼノスは片手を上げる。


「よく見ていろ。貴様らの巣がどれほど醜いか、今から教えてやる」


 その言葉と同時に、魔力が走った。


 家が、音もなく崩れた。


 いや、違う。

 崩壊ではない。分解だ。


 腐った木材が繊維単位でほどけ、毒を吸った土が灰色の粒子に分離される。錆びた釘は赤茶の粉と使える鉄分に分かれ、石材はひび割れた層と健全な層へ切り分けられて宙に浮かぶ。


 空中に、家一軒分の素材が展開した。


 住民たちは誰も声を出せなかった。


 ゼノスの視界には、膨大な情報が流れ込む。


 使える。

 これも、あれも。

 腐食は除去できる。毒も分離できる。補強材が足りないなら、周囲の廃材から回せばいい。排水勾配を変え、床を浮かせ、通気を確保し、防塵膜を張る。断熱も入れる。ついでに外壁に耐毒処理を施す。


 頭の中で設計図が完成する。


「ふん」


 ゼノスは指を鳴らした。


 空中の素材が一斉に動く。


 石材が組み上がる。

 黒鉄が骨組みになる。

 浄化された砂が壁材へ練り直される。

 薄い板材が重なり、防毒と断熱を兼ねた二重構造を作る。

 床下には排水溝。屋根には雨水を集める傾斜。窓は小さいが気密性が高く、扉には簡易封印まで刻まれる。


 それはもはや、元の小屋とは別物だった。


 白灰色の壁を持つ、端正な小住宅。

 毒霧を遮り、崩落にも強く、風も雨も通さない。貧民街にぽつんと現れたその家だけが、異質なほど完成されていた。


 沈黙。


 しばらくして、少女が父の服を引っ張った。


「おとうさん……おうち、きれい……」


 男は答えられない。

 口を開いたまま、ただ目の前の建物を見ていた。


 フィアが一歩、また一歩と近づいていく。


「これ……を……」


 彼女は震える指で壁に触れた。

 すぐに手を離す。熱も毒もないことが信じられないようだった。


「冷たく、ない……」


 ゼノスは腕を下ろした。


「当然だ。床下の湿気を切り、毒素も抜いた。前よりは少しはマシだろう」


 包帯の男が、ぎこちなく問う。


「……前より?」


「比較対象が酷すぎるだけだ。胸を張るほどの出来ではない」


 その一言で、ついに女が泣き崩れた。


「う、うそ……こんな、こんなの……」


 少女がぱっと駆け出し、新しい家の前まで行く。父が止める間もなかった。


「こら、待て!」


 だが少女は扉を押して開け、中を覗き込み――目を輝かせた。


「おふとんがある!」


 住民のざわめきが大きくなる。


「寝台まで……?」


「窓が閉まってる……」


「床が乾いてるぞ……」


「雨漏りしないのか……?」


 ゼノスは顔をしかめた。


 うるさい。


 いちいちそんなことで騒ぐな。寝台くらいあって当然だ。床が乾いているのも当然だ。住居とはそういうものだろう。


 だが周囲の反応は止まらなかった。


 老人が震える膝で近づき、家を見上げる。


「奇跡だ……」


「違う」


 即座にゼノスは切り捨てる。


「設計と再構築だ。奇跡などという曖昧な言葉で片づけるな」


 しかし老人は聞いていない。目に涙を浮かべ、何度も何度も頷いている。


「総督様は……我らの巣を、住まいに変えてくださった……」


「だからそういう意味ではない」


「新しい家だ……毒のない家だ……!」


 今度は別のところから声が上がる。


「うちも……?」


「壊れかけた家も、直るんですか……?」


「井戸も……井戸の水も……?」


「子どもが咳をしなくなるのか……?」


 ゼノスは不快そうに目を細めた。


「質問が多いな」


 一歩前へ出る。

 住民たちは反射的に身を引いた。


「勘違いするな。これは慈悲ではない」


 広場よりも狭い路地に、冷たい声が響く。


「俺は、この街を俺のものにする。そのために、腐った巣を一つ潰しただけだ」


 フィアが、涙を堪えるような顔で呟いた。


「でも……壊した後、もっと良いものをくださった……」


「くだけていない。作り直しただけだ」


「それを、みんな救いって呼ぶんです……」


 ゼノスは本気で嫌そうな顔をした。


「勝手に呼べ。だが次からは効率の悪い泣き方をするな。見ていて鬱陶しい」


 そう言って踵を返しかけた、そのときだった。


 ぐらり、と隣の家が揺れた。


 誰かが悲鳴を上げる。


 壁の継ぎ目が裂け、毒を吸った梁が悲鳴のような音を立てる。明らかに連鎖崩落だ。さきほど分解した家と支え合うように無理やり立っていたのだろう。


 中から赤子の泣き声がした。


「っ、まだ中に!」


 若い女が飛び出そうとする。だが足元の石が崩れてよろめいた。


 ゼノスは舌打ちした。


「だから言っただろうが」


 片手を振る。


 崩れかけた壁が、落ちるより先にほどけた。


 瓦礫は一片も住民に触れず、空中で粒子へと分解されて静止する。中にいた若い母親が赤子を抱えたまま、呆然とその場に座り込んでいた。


 ゼノスは冷ややかに命じた。


「全員、今すぐ路地を空けろ。ここ一帯をまとめて解体する」


 住民たちが凍りつく。


「か、解体……」


「聞こえなかったか」


 ゼノスの目が、ぞっとするほど冷えた。


「俺の命令に二度はない。生きたければ、荷物と人間を持って下がれ」


 最初に動いたのはガタガタ震えていたフィアだった。


「み、みんな! 急いで! 子どもを先に!」


 それをきっかけに、路地全体が一気に慌ただしくなる。抱きかかえられる老人、泣きながら鍋を持ち出す女、荷車を引きずる男、裸足で走る子どもたち。


 その様子を見ながら、ゼノスは静かに考えた。


 非効率だ。

 あまりにも。


 家は粗悪。配置は最悪。排水は死んでいる。通路幅も足りない。火が出れば一帯ごと終わるし、疫病が流行れば一月で半分消える。こんなものを街とは呼ばない。


 だったら――全部壊した方が早い。


 その思考は、彼にとってあまりにも自然だった。


 住民の避難が終わるのを待ち、ゼノスは道の中央に立った。

 視界の両脇に、傾いた家々が並ぶ。どれも毒を吸い、崩れかけ、辛うじて形を保っているだけの代物だ。


「見ていろ」


 誰に向けた言葉だったのか、自分でも分からなかった。


「本当の破壊というものを教えてやる」


 両手を広げる。


 次の瞬間、路地全体が静止したように見えた。


 空気が張り詰め、紫の霧がわずかに揺れ、地に染みた毒と石と鉄と木と砂が、ゼノスの感覚に一斉に接続される。


 家々が浮いた。


 否。

 世界の側が、ゼノスの意志に従って分かれていく。


 屋根が剥がれる。

 梁がほどける。

 壁が砕ける。

 床が粒子へと還る。

 腐食は除去され、毒は分離され、使える素材だけが空中に残っていく。


 住民たちは、言葉もなく見上げていた。


 自分たちの住んでいた路地が、恐ろしく整然と、何の無駄もなく、分解されていく。崩落でも爆散でもない。破滅ですら美しく見えるほどの、完全な解体だった。


 フィアが、呆然と呟く。


「きれい……」


 ゼノスはその声に眉をひそめたが、返事はしなかった。


 今は演算に集中している。

 家を一軒直すのとはわけが違う。区画単位で再設計するなら、動線、排水、通気、防衛、拡張余地まで最初に織り込む必要がある。


 頭の中で、街路が引き直される。

 住居の間隔。

 共同井戸の配置。

 避難経路。

 倉庫位置。

 風向き。

 毒霧の流入方向。

 全部、組み替えられる。


 ゼノスは、初めて心から満足そうに笑った。


「そうだ」


 この感覚だ。


 帝都の宮廷では決して味わえなかった。

 誰にも理解されず、誰にも評価されず、それでも自分だけは知っていた力の本質。


 壊して、読み、組み替える。

 世界を、自分に都合のいい形へ。


「実に気分がいい」


 そう呟いた直後、後ろで誰かが涙声を上げた。


「お、俺たちのために……ここまで……」


 ゼノスの笑みがすっと消える。


「違う」


 だがもう遅い。


「街ごと作り直そうとしてくださってる……!」


「こんな……こんな領主様、聞いたことがない……!」


「俺たちを見捨てないどころか……住む場所全部を……!」


 ゼノスは、こめかみに手を当てた。


 何なのだ、こいつらは。

 なぜそこで感動する。どう考えても今やっているのは支配の第一歩だろう。自分の都合のいいように区画整理をしているだけだ。


 だが住民たちの目には、違うものが映っているらしい。


 壊れた路地の上に、浄化された素材が幾重にも浮かぶ。

 その中心に立つ黒衣の公子。

 毒霧を背負いながら、滅びた街を一から組み直そうとする姿は、彼らの目にはあまりに現実離れしていた。


 老人が震える声で言う。


「……灰都の、救い主だ……」


「やめろ」


 ゼノスは即座に言い返した。


「そんな気色の悪い呼び名を――」


 だがその言葉を、別の音が遮った。


 地鳴り。


 ゼノスの目が細まる。


 街の外れ。崩れた城壁の方角から、低い唸りが近づいてくる。

 風に乗って、獣臭が混じった。


 護衛騎士が咄嗟に剣を抜く。


「魔獣……!」


 住民たちの顔が恐怖で引きつる。


「な、なんで今……!」


「解体の音で寄ったのか……!?」


 ゼノスは、ゆっくりと城壁の方を見た。


 なるほど。

 街の構造だけではなかったらしい。外周の防備も、思った以上に終わっている。


 だったら、それもついでに作り直せばいい。


 彼は不機嫌そうに息を吐いた。


「騒がしい」


 その一言に、なぜか住民たちの背筋が粟立つ。


「総督様……?」


「先に片づける」


 ゼノスは、街の再構築を途中で止めることに明らかな不満を覚えながら、崩れた外壁の方へ歩き出した。


 その背中を、誰も止められなかった。

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