プロローグ 捨てられた公子は、毒都に嗤う
帝都では、役に立たぬ者に価値はない。
そしてゼノス・ヴァン・アストレアは、生まれた瞬間から役に立たなかった。
アストレア帝国の貴族は皆、血に宿した錬成術を持つ。
骨を強くし、肉を癒やし、兵を鍛え、時に魔獣すら屈服させる、生体への干渉能力。
それこそが高貴の証であり、貴族である理由そのものだった。
だがゼノスの術は違った。
皮膚にも、血にも、骨にも触れられない。
生きたものには一切作用しない。
代わりに彼が扱えるのは、石と鉄と水と毒、そして瓦礫だけ。
幼い頃、訓練場の隅で兄たちが喝采を浴びていた。
傷を癒やし、筋力を増し、華々しく錬成を披露するたび、周囲は惜しみなく賛辞を送った。
その傍らで、ゼノスは折れた剣を拾った。
刃を撫でる。
砕けた金属が、音もなくほどけた。
細かな粒となったそれは、空中で組み替わり、元よりも薄く、強く、均整の取れた一振りへと再構築される。
教官は一瞥だけして鼻で笑った。
「兵を治せるならまだしもな」
「壁職人向きだ」
「公子ではなく工夫の才能だろう」
兄たちの笑い声が重なった。
その日、ゼノスは何も言い返さなかった。
ただ、作り直した剣を無造作に地へ突き立て、静かに思った。
――ならば、奪ってやる。
お前たちが誇るものを、別の形で。
玉座の間は、白く、冷えきっていた。
天井まで伸びる巨柱。磨き抜かれた床。帝国の威光そのもののような空間の中央で、ゼノスは一人、膝をついている。
正面には皇帝。
血を分けた父だった。
だが玉座の上の男は、息子を見る目をしていない。
失敗作を見る目だった。処分を決めた書類の最後を確認するような、乾いた視線。
宰相が巻物を広げる。
「ゼノス・ヴァン・アストレア。貴公を旧第七封鎖区画ネクロヴァリアへ赴任とする」
広間の空気がわずかに揺れた。
ネクロヴァリア。
旧文明の残骸と有毒霧に沈んだ、廃棄都市。魔獣、疫病、盗賊、呪われた機構がうごめく死地。
事実上の追放先として、これ以上ない名だった。
「それで?」
宰相が言葉を継ぐ前に、ゼノスは顔を上げた。
広間が静まり返る。
「……何だと?」
「説明は終わりかと聞いた。まだあるなら続けろ。無駄に間を取るな」
不敬。
誰もがそう顔に書いた。
皇帝が低く言う。
「お前には、最後まで悔い改める意思がないようだな」
「悔いるべきことをした覚えがありませんので」
「無能であること自体が罪だ」
その場の誰もが息を止めた。
父が、息子に向ける言葉ではない。
だがゼノスは、ほんのわずかに口角を上げただけだった。
「なるほど」
彼は立ち上がる。
「ようやく、罪人にふさわしい土地を賜るわけだ」
「死地だぞ、ゼノス」
皇帝の声は冷たい。
けれどその冷たさの奥に、苛立ちにも似た何かがあった。
役に立たなかった息子への失望か、それとも理解できないものへの嫌悪か。
ゼノスは肩をすくめた。
「帝都よりは静かでしょう」
何人かが顔色を変えた。
だが彼は、もう彼らを見ていなかった。
旧封鎖区画。
旧文明の残骸。
廃棄都市。
その言葉だけで充分だった。
朽ちた塔、崩れた街壁、埋もれた施設、放棄された兵器、毒に沈んだ鉱脈。
人が価値を見いだせず捨てたものばかり。
だがそれらはすべて、ゼノスにとっては違う。
素材だ。
皇帝が告げる。
「三日以内に発て。兵も従者も最低限しか付けぬ。以後、帝都への無断帰還は許さない」
「結構」
「最後に言い残すことはあるか」
ゼノスは少しだけ考え、笑った。
「一つだけ」
その笑みがあまりに愉快そうで、広間の誰もが不気味さを覚えた。
「私を捨てたこと、後で後悔しないでいただきたい」
馬車は帝都を離れ、幾日も荒れた道を進んだ。
向かいには護衛騎士が一人。
罪人の監視役のようなものだ。
退屈しのぎに、ゼノスは懐から古い鉄貨を一枚取り出した。
親指で弾く。
宙に浮いたそれが、次の瞬間には細かな粒子にほどけた。
騎士が目を細める。
銀色の粒は糸のように絡み合い、短剣になり、輪になり、最後には歯車じみた小さな細工物へ変わる。
「相変わらず、不気味な術ですな」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「それで人を治せれば、見方も違ったのでしょうが」
ゼノスは答えず、窓の外を見た。
遠くの空が、少しずつ濁っていく。
草木が痩せ、川は鈍く濁り、風に刺激臭が混じり始める。
いい。実にいい。
他人にとって死地であるほど都合がいい。
誰も欲しがらない土地ほど、好きにできる。
「着きます」
御者の声とともに扉が開いた。
馬車を降りた瞬間、毒混じりの風が頬を撫でた。
ネクロヴァリアは、終わっていた。
黒く沈んだ石畳。
半ば崩れた塔。
裂けた城壁。
紫がかった霧が低く流れ、風が吹くたび、どこかで金属の軋む音が鳴る。
死んだ都市の音だ。
いや、死にきれず、まだ腐敗の途中にある死体のような静けさだった。
護衛騎士が鼻と口を覆う。
「長居する場所ではありませんな」
ゼノスは答えない。
崩れた外壁を見た。
露出した骨組みを見た。
街路に転がる黒鉄の残骸を見た。
ひび割れた導水管と、毒で変色した石材を見た。
そして、ゆっくりと口元が吊り上がる。
舌の上に残る、鉄と腐敗の味。
肺に絡みつく、紫の霧。
視界を埋める、朽ちた構造物。
全部が素材だった。
「なるほど……」
ゼノスは小さく呟いた。
「悪くない」
彼は一歩、街へ踏み込む。
靴底が砕けた石を踏む音すら、妙に心地よかった。
「ここを俺の城にする」
護衛が怪訝そうに振り向く。
ゼノスは街の中心へ視線をやり、愉快そうに続けた。
「帝国に捨てられたゴミも、街も、資源も、全部まとめて俺のものだ」
遠くで何かが唸った。
魔獣か、風に鳴る鉄骨か。どちらでもよかった。
「救うつもりはない。慈悲もない。理想もない」
ゼノスは笑う。
「これは略奪だ。
奪い尽くして、作り替える。俺だけの、悪の楽園にな」
そのときだった。
瓦礫の陰に、目があった。
ひとつではない。
ふたつ、みっつ、もっとだ。
痩せた老人。
幼子を抱く女。
包帯を巻いた男。
足を引きずる少年。
飢えと疲弊で表情の削れた人間たちが、壊れた壁や崩れた荷車の陰から、新しい領主を窺っていた。
逃げる力もないのだろう。
期待することに慣れていない目だった。
それでも、見てしまう。見ずにはいられない。そういう目だった。
ゼノスは眉を寄せた。
――面倒だな。
だが、使えるなら使えばいい。
都市を動かすなら人手は要る。
飢えて死なれるより、餌を与えて働かせる方が遥かに効率的だ。
彼は住民たちへ向き直り、冷たく告げた。
「聞け。お前たちは今日から俺の所有物だ」
ざわめきが起こる。
「勝手に死ぬことは許さん。逃げることも許さん。怠けることも、壊すことも許さん」
住民たちの顔がこわばる。
処刑宣告を待つ顔だった。
ゼノスは構わず続ける。
「住む場所は整える。水も食料も用意させる。働けるように覚えさせる。外から来る害虫どもは排除する。病で倒れるのも禁じる」
沈黙。
誰も理解できていなかった。
それが脅しなのか、命令なのか、救済なのか。
ゼノスは薄く笑う。
「安心しろ。搾り尽くすまでは生かしてやる」
一拍遅れて、誰かが膝をついた。
皺だらけの老人だった。震える唇で、地に額を擦りつける。
「……神よ……」
女が子どもを抱いたまま、泣き崩れた。
「新しい領主様が……追い払わない……」
包帯の男が目を見開く。
「水を……食料を……?」
少年が、信じられないものを見る顔で呟く。
「死ぬなって……言った……」
次の瞬間、堰が切れたように嗚咽が広がった。
「お見捨てにならなかった……!」
「俺たちを、まだ使う価値があると……!」
「生きろと……生きろと仰った……!」
ゼノスは本気で意味が分からず、毒霧の空を見上げた。
「……なぜそうなる」
だが、その困惑を理解できる者はまだいない。
この日。
帝国に捨てられた無能公子は、滅びた廃都に降り立った。
そして誰も知らぬまま、後に帝国を震え上がらせる最凶の都市国家は、静かに産声を上げたのである。




