まっしろな君へ3
帰りのホームルームが終わるや否や、にわかに教室がざわめきだす。
遊びたい盛りの中高一貫の高校一年生にとって、大学受験なんてまだ実感の沸かない先の話で、いくら偏差値の高い高校であっても勉強より遊びや色恋沙汰の方が好き。
そんなのはいつものことで、私はいつも通り帰る支度をしていると、前の席の子がつんつん、と教科書を揃える私の手の甲をつついてきた。
「あの、美星さん。……彼女さん、来てるよ」
「……えっ」
指差す方へつられると、のぞみはもじもじと居心地悪そうにたじろいで、教室のドアの前に立っていた。
朝とは逆転して、のぞみは私のクラスメートの注目を一斉に集め、多分私のことを待っている。
「ありがとう。……それじゃ、また明日ね」
「うん、また明日」
短く感謝を告げて、バッグに教科書を詰め込みながら立ち上がる。
小走りでドアの方へ向かうと、のぞみは弾けたように飛び出して私の腕に抱きついてきた。
「……早く会いたかった」
「うん。一緒に帰ろうか」
もう周囲の注目を受けるのとかどうでもよくなっていた。
気にならないわけでは当然ない。
今だって隠れてしまいたいくらい恥ずかしい。
それでも我慢できたのは、のぞみと恋人である自分に自信を持っていられるようになったから。
連休が明けてからは初めて、のぞみと手を繋いで通学路を下る。
道中を彩る様々な音、行き交う人々の会話や、信号機の音楽が、まるで私たちの物語をきれいに装飾するマスターピースみたいに聴こえた。
擦れ違う男女のカップル、疲れた顔でスマートフォンに目を落とすサラリーマン、犬の散歩をするおばあちゃんにも、それぞれ彼らが主人公の物語があって、悠久の時間のなかのちっぽけなひとかけらを懸命に生きている。
その中の一つに、私たちが加われていることが、とても嬉しかった。
「ましろちゃん」とのぞみが名前を呼ぶ。
「なに?」
ただ名前を呼んでくれるだけで、私は幸せな気持ちになった。
少しだけ背丈の低いのぞみの目線に合わせると、彼女は僅かに頬を朱に染めて、無邪気にはにかんでいる。
握る指先の力が、さっきより強くこもった気がした。
「私ね、もうましろちゃんとは話さないつもりだったんだ」
「うん」
「また、ましろちゃんのことを傷つけるのが嫌だったから」
明るくてみんなを元気にする魔力を持った、お日さまみたいに眩しい人気者。
でもその実、寂しがりで臆病で、怖がって大きな一歩を踏み出せない。
それはどちらかが虚像だなんてことはなく、どちらも彼女自身の本質だった。
傷つけるのが嫌なのはのぞみが誰よりも優しくて温かいから。
それと同時に、どうしようもなく臆病で、何より自分自身が傷つきたくないから。
「一緒にいる時間が長くなると、その人の色んな一面を知れるよね」
「……うん」
「のぞみは、私のどんなところが意外だと思った?」
「……ましろちゃんはのんびりしてて、ほんわかしてる子だと思ってた」
のぞみからの私の第一印象を聞くのは初めてだった。
私はずっと一人でいたから、誰かから客観的に見られるのなんて慣れてなくて、その評価は新鮮なものだった。
「優しくて、お姉ちゃんみたいにしっかりしてて」
「うん」
「でも、ちょっと頑固なところもあって」
「うぅ……」
「だけどね、芯が強くて、すごくかっこいい」
……照れ臭いな。
自分のことなのに、意外と自分のことなんて分からないものだった。
のぞみの私に対する評は一つも私の自己認識と合っていなくて、今まで自分のことをそう思ったことなんてなかったから。
私は変わった。
ちょっと前までは一人が好きで、頑なに親しい友達を作ろうとしなかった。
それはあすかも言っていたことだし、一面ではそうなのだと思う。
でもそれは無からいきなり出てきたわけじゃなくて、色々な人との関わりの中で複雑な化学反応を起こしてきた結果なのだろう。
その人との関わりこそ、私が主人公である物語そのものなのだと思う。
私は変われたから主人公になれたのではない。
変わることを受け入れることができたから、主人公になれたのだ。
別に私は、物語の主人公になりたかったわけではない。
それは、自分自身が変わるきっかけがあって、そこに向かって素直に手を伸ばした結果に過ぎないのだ。
「のぞみはね、明るくてお日さまみたいな子だと思った」
みんなに囲まれて笑っているその姿を、羨ましいと思った。
だけど私自身がそうなりたかったわけじゃなくて、ただその温もりを世界の端で少しだけお裾分けしてもらえればそれでよかった。
「寂しがり屋で臆病で、不器用でわがままで――だけどみんなを元気にできる素敵な光を持っている」
その真っ白な光につられてしまったんだ。
「なんか、照れちゃうね」
そうやって恥ずかしそうに笑うかわいさも、今は全部独り占めにしてしまっているのがちょっと申し訳なく感じられて。
でも、私が遠慮することなんてない。私はのぞみの恋人なのだから。
「私がお日さまなら――ましろちゃんは、お星さまかな」
夕暮れ時、お日さまが沈むのと交代で、悠久の黒に輝く一番星。
「お星さま?」
「うん。……ましろちゃん、入学式に会った時のこと覚えてないでしょ」
「……覚えてない」
「ほら、やっぱり」
のぞみはくすりと嬉しそうに、だけどどこか切なそうに笑った。
握った手のひらが忙しなく踊って、ちょっとくすぐったい。
「桜の木の下で、本を読んでいたんだ」
「そうだっけ?」
「そうだよ。ましろちゃん、ボケるの早くない?」
「ええっ、ボケ老人扱いはちょっと……」
「だいたい、ショッピングの時のキスだって、最初忘れてたよね」
「それは……」
上目遣いで見上げて眉根をひそめる顔も、なんだかかわいくて毒気を抜かれた。
私は渇いた笑いをこぼす。
「入学式――かわいい子もたくさんいて、緊張して疲れちゃって、校舎の裏まで来たの。そしたら桜の木の下で本を読んでる、本当にお嬢様みたいな女の子がいて――」
一目惚れだった。
「それは……、罪深い女だね」
「ほんとだよ、もう!」
入学式のことなんて覚えていないんだから仕方ない。
だいたい私たち内進生にとっての高校の入学式なんて、あってないようなものだ。
高校一年生なんてほとんど中学四年生みたいなものだし、ほとんどの生徒はエスカレーターで顔ぶれが変わらないから新鮮さもない。
それに、お母さんは和穂の中学の入学式、お父さんは仕事で忙しくて来れずで家族は一人も来ていなくて、まともに友達もいない私にとっては本当に何のためにあるのか分からない入学式だったのだから。
「そっかあ……。最初は私が一方的に意識してるだけなのかと思ってた」
のぞみの口から直接それを聞けて、一気に安心してゆくみたいだった。
雲の上の人かと思っていた子が、実は最初から私のことを意識してくれていたなんて。
絵に描いたような両片思いじゃないか。
駅に着いて改札をくぐり、すかさずやってきた電車に乗り込む。
座席は空いていなくて、吊革に手の届かない私たちはドア前の手すりにつかまって、時間を忘れて話しふける。
「ましろちゃんとずっと仲良しでいたいな」
「そうだね。ずっと仲良しでいよう」
「おばあちゃんになっても、ずっとだよ?」
「分かった。約束」
人との出会いに、永遠なんてないと思っていた。
いずれ私たちはどこかで別れてしまうのかもしれない。
それでも永遠を誓う意味は、今この瞬間を大切に抱き締めていたい以外にないと思う。
「またましろちゃんのことを傷つけちゃったら……、その時は切ってくれていいから」
「そんな悲しいこと言わないでよ」
電車が乗換駅に到着して、私はのぞみの手を引く。
忙しないホームの上をリードして、小走りで階段を降りる。
鉄塊がレールをけたたましく擦り、車掌のアナウンスが騒々しく響く声に負けないように、何度でも愛を伝え確かめ合う。
「また傷つくかも知れないし、今度は私がのぞみを傷つけちゃうかもしれない。でもそのたびに仲直りして、また一緒に居たい」
「私が傷つくのはいいけど、ましろちゃんは……」
「そういう優しいところ、好きだよ」
「――っ! 違うよ、私のは優しいんじゃなくて、ただ私が嫌なだけで……」
「ほら、一緒じゃん」
改札をくぐった先の、人々が行き交う真ん中、私たちは柱の前で立ち止まってお互いに向き合う。
私たちはお互いにどうしようもなく頑固で、一途で、そして不器用だ。
だからきっとこの先も、何かの拍子にぶつかり合ったり、擦れ違ってしまうこともあるだろう。
「愛し合うっていうことは、お互いのエゴをぶつけ合うこと。そう思わない?」
「……分からない」
そして私たちはまた、短い口づけを交わす。
周りの人たちが見ているから端的に、柱の陰に隠れてこっそりと。
私はちょっとずつ、恋愛をするっていうことがどういうことなのか分かってきた気がする。
「わがままだっていいんだよ。それだけ私のことを愛してくれてるってことが分かるから」
「……愛したことで傷つけるくらいなら、私は――」
「のぞみ――」
その言葉の先を塞いで、私だってわがままにきみのことを愛すんだ。
「愛してるよ、のぞみ」
「……うん。私も、ましろちゃんのこと愛してる」
恋愛初心者な私たちの愛はまだ幼く歪かも知れないけれど、私があなたのことを愛していて、あなたが私のことを愛しているなら、それで十分だと思えた。
抱擁を解いて微笑みあうと、私たちはまた手を繋いで歩き出す。
明日もまた会えるというのに、別れがこんなにも名残惜しくて、私たちはなかなか繋いだ手を離せなかった。
私の自宅へ向かう私鉄線の改札へあっという間についてしまって、私たちは立ち止まる。
その改札をくぐるのに躊躇する人は、私たちを除けば誰もいなかった。
「あのね、ましろちゃん」
「ん?」
少しずつ声が小さく弱々しくなってゆく。
雑踏の中それでも彼女の声が聞き取れたのは、私たちが私たちだけの世界に没頭していたからだったかも知れない。
震えた声に涙が混じりゆくのが、耳障りな騒音の中不思議と分かった。
「私、また失敗しちゃうかも知れないけれど――またましろちゃんのこと傷つけちゃうかも知れないけれど」
「もう――、……うん」
「でも、ましろちゃんのこと信じてるから」
「うん」
「これからも、ずっとずっと仲良くしてね」
「……うん」
のぞみの大きくて吸い込まれるみたいな黒い瞳から、静かに雫がこぼれた。
私はそれをそっと掬い上げて、不安に震える指を安心させるように、ぎゅっと握り返した。
別れ際にもう一度だけ、お互いの体温を交換し合うような長い抱擁を交わした。
そしてこの小さな身体を、もう二度と離すものかと、強く心に誓った。




