まっしろな君へ1
クラスも違えば、内進生と高入生でカリキュラムも違う。
ひとたび連絡をとらなくなれば私とのぞみにはまったく接点がなくなって関わらなくなる。
浮ついて落ち着かない気分のまま、あっという間に一週間が過ぎていた。
結局あの日、私はあすかの誘いを断って直帰した。
私からしてみれば、れいかだってもう無理に仲良くする義理もない。
れいかのことは嫌いではないが、今のこの不安定な精神状態で、敢えて彼女と関わろうとも思えなかった。
そもそも私は根本的にひとりでいる方が好きだ。
誰かとの関係に一喜一憂して心が乱されるのが嫌だったし、自分だけの世界に引きこもっている方が私らしいと思えた。
要するに、今までの日陰者の私に戻っただけだ。
昨日、席替えをした。
あすかとは席が離れて、私は窓際の一番後ろの教室の隅の席になった。
近くの席に話せるような友達もいなくて、これで本格的にひとりぼっち。
あすかは昔からよく話しかけてくれるけれど、席が遠くなったら毎日のようには話しかけてこないだろう。
登校してバッグを置くと、いつものように読みかけの本を取り出してしおりを引く。
桜の刺繍の入ったしおりを、昔から愛用している。
この一週間でようやく本の内容にも没頭できるくらいに落ち着いて、お気に入りの先生の新作をもうすぐ読み終わる。
お小遣いもまだ残っているし、これが読み終わったら次は何を読もう。
帰りに本屋に寄って、ついでに久しぶりにあのカフェにでも行こうかなと思いを馳せる。
「なに読んでるの?」
一人だけの世界に入りこんで活字のさざ波に揺蕩っていると、あすかの弾んだ声。
あすかは登校するなりわざわざこちらへ来て話しかけにきたようだった。
「……『まっしろな君へ』」
私は淡々と本のタイトルを読み上げた。
「それっておもしろい?」
ある日、何の取柄もない女の子が、一人の女の子と出会う。
その子はまるで太陽みたいに明るく優しい子で、友達を作るのが苦手だった主人公にすごく優しくしてくれた。
二人は次第に仲良くなり、親友になった。
「おもしろいよ」
私はもうとっくに、のぞみと付き合っているだとか、変な噂の標的からは外れて、誰からも関心を持たれず平穏な日常を取り戻していた。
のぞみと出会う前の、よく話す友達も愛し合う恋人もいない、教室の隅でひとり目立たず本を読む、決してエンドロールに名前の載ることのないエキストラ。
あすかは、他の席の友達のところへ話にいっている私の前の席を拝借して、横向きに腰かけた。
そして右手の肘を私の席について、そぞろに頬杖をつき唇を尖らせる。
「ましろちゃんが早くのぞみちゃんと仲直りしてくれないと、つまらない」
「……急になに言い出すのさ」
私は不機嫌に声音を尖らせた。
あすかはおもしろいからと私に絡みにくる。
それはいいのだけれど、人をエンタメみたいに消費されるのはさすがに気分が悪い。
「最近よくのぞみちゃんと話すんだよね」
「そうなんだ。私には関係ないね」
「あるよ。恋人じゃん」
「一週間も話さない恋人いる?」
「だから、早く仲直りしなって」
「あすかには関係ないでしょ」
「あるって。のぞみちゃん、ずっとましろちゃんのこと話してるよ」
あれからのぞみはメッセージの一通も送ってこない。
最後に話したのは憑かれたようにのぞみの家まで行こうとして、迷子で辿り着けなくて偶然街灯の少ない畑道で出会って、公園で話した時だ。
あの時、私はのぞみが何を考えているのかとか、傷つくかも知れないとかお構いなしに、自分勝手に思っていることを全部ぶちまけた。
結果は何も好転せず、私は意固地になったのぞみに徹底的に距離を置かれている。
あの時の私だってどうかしていた。
特定の誰かとの関係に固執して、感情を昂らせて一時間もかけて夜の電車に飛び込むなんて、今までの私では絶対に考えられなかった。
……いや、今の私でも考えられない。
向こうが話したくないというのなら、もうそれでいいじゃないか。
「今更何を話すことがあるの。私の悪口大会?」
「ましろちゃんに会いたい、たくさんお話したいって」
「…………」
本当に何を考えているんだろう、あの子は。
私は煮えくり返る苛立ちが抑えきれなくて、思わず短く舌を打った。
のぞみのことを考えていると、活字を読み進める思考回路が完全に止まってしまって、一文字も読み進められなくなるのが本当に苛つく。
教室の女の子たちのお喋りのインストが、普段なら瀟洒なバロック音楽を聴いているみたいに落ち着くのに、今は雑音みたいにうるさくて不愉快だ。
「これ以上私にどうしろって言うの?」
私は荒いでしまいそうな声を必死で抑えながら、低い声を震わせる。
私はもうできる限りのことをやった。
その上で、彼女のエゴでこれ以上関わらないと言うのなら、私にできることなんてもうないじゃないか。
「お昼休み、一緒にご飯食べに行かない? のぞみちゃんも一緒に」
「嫌だよ。気まずくなるもん」
「謝りたいって言ってたよ」
「……やだ」
「ねえ、ましろちゃん」
「やだって言ってるでしょ!」
しおりも挟まず本を閉じて机に叩きつけると、自分でも驚くほど大きな声が出て、教室中が静まり返った。
後先考えずに感情的になって叫んで、クラスメートの注目を集めることになったことを後悔しながら、目を伏せる。
最近柄にもなくこんなことばかり――目立つのは本当に苦手なのに。
それに妙に涙脆くて、ぜんぶ私が悪いのに勝手に涙が落ちてきて止められない。
あすかは机に落ちた一滴を拭うと、それを当て所もなく摘まんで――私は机上を睨むだけで彼女の表情が見えなかったからどんな顔をしていたかは分からないけれど、抑揚のない声で冷たく言い放つ。
「そうやっていつまでもうじうじしてれば」
――あすかなんて大嫌いだ。
いつも周りにたくさんの人たちがいて、明るくてかっこよくてきれいで人気者で、何でも要領よくこなせて、欲しいものは何でも手に入れることができて。
それなのにおもしろいからなんてしょうもない理由で私に絡んできて、自分をキューピッドだとか訳の分からないことを言って日陰者の私なんかのことを自分勝手に振り回す。
昔からずっとそうだ。
あの子は私の本当の気持ちなんて分かってくれやしない。
ずっと一人でいれば、れいかに告白されることもなかったし、ひかり先輩に犯されることだってなかった。
のぞみと出会って、どうしようもなく好きになって、今も止められないくらい好きだって気持ちが溢れてきてそわそわと落ち着かないこの感情を知ることだってなかった。
ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴って、前の席の子が戻ってきて私のことを心配そうに見てくるのが分かった。
止め処なくこぼれる涙のゆく当てもなくて、私は両手で顔を覆い、時間が過ぎるのだけを待った。
「大丈夫?」と声を掛けてくれるのを頷くことしかできなくて、何もできない自分が――こんな時に物語の主人公でいられない自分が、ただただ本当に悔しかった。
れいかに話したいと言われれば断り、のぞみに仲直りをしたいと言われれば断り、そしてついにはあすかのことも突き放してしまって、私はとうとう本当の意味でひとりぼっちになった。
さよなら、また明日ねを言う相手もおらずとぼとぼと帰路に就くと、駅までの道のりが灰色に濁って見えた。
車がアスファルトを擦る音、人波の靴が地を蹴る音は、私がそこにいる事実ごと押し流して雑踏という名の騒音になり、この世界のどこかにいるのかも知れない、私ではない物語の主人公である誰かの生活を彩る。
誰の世界にも入りこめないひとりぼっちの私は、誰の物語のエキストラとしても登場しえない雑音になって埋もれてゆく。
呑み込まれるように電車に乗り込んで、一刻も早くその場から逃れようとする。
大好きな新作小説はもうすぐで読み終わるのに、最後の章がなかなか読み進まない。
本屋にだって寄る気にならずに、まるで幽鬼のようにいつもの通学路をなぞって、自宅の最寄り駅の改札を通り、駅を出る。
家にすら帰りたくなくて、ただただひとり夕暮れの道に消えてしまいたかった。
考えないようにしていたら、あの子を思うこの気持ちだっていずれ過去になって淡く消えてゆくのだろうか。
気付けば自宅とは反対方向に歩いていた。
住宅街の立ち並ぶ入り組んだ道で、家から程近い場所のはずなのに道筋が分からないというだけでこんなにも不安になる。
でも、この迷路に迷い込んだ先にもしかしたら消えてしまえるかもなんて破滅願望だけが、意思を持たない私の歩を突き動かした。
居てもたっても居られなくて家を飛び出して、のぞみの家に向かおうとしたあの時と似ている。
違うのは、ここがあの子の家の家の近くなんかじゃなくて、誰かが救いの手を差し伸べてくれる可能性なんて微塵もないところ。
住宅街の真ん中に唐突に現れる寂れた神社をよく覚えている。
昔一度だけ来たことのある鳥居を、考えもなしにくぐった。
もしかしたら迷路が私を攫ってくれる期待をしてしまっていたけれど、記憶にあるこの場所は決して異世界への扉なんかじゃなくて、私はどこまでも現実という迷宮から抜け出せないのだと絶望した。
今すぐにでも逃げ出してしまいたいこの辛い気持ちに、向き合わなくてはならない。
気味悪く湿ってぬかるんだ石畳の参道を、爪先を目でなぞりながら歩く。
足跡が石畳を打つ音を除けば他に物音もなくて、私はいつの間にか騒音のしがらみからは解放されていた。
そのお陰で身軽になったことにやっと気付いて、境内の静寂を確かめようと足を止め、右手に折れる参道を振り向く。
こじんまりとして古びた拝殿のもとにぽつんと、薄明の夕日を赤茶色に乱反射して、異界との狭間に儚く、ブレザー姿の少女が佇んでいた。
「……ゆきちゃん?」
そこに雪菜が立っていることに気付いて、私の思考はやっと幽世から連れ戻されたみたいだった。
雪菜は私に気付くとすかさずこちらに駆け寄って、胸元に飛び込んできた。
妹とこんな風に直接触れ合うのは本当に久しぶりで、私は一瞬呆気に取られてしまった。
何より彼女が、しばらく見ていなかった今にも泣きそうな表情をしていたのが、印象的だった。
私は赤黒く燃える夕日と同じ色に光る長い髪を丁寧に梳きながら、優しく問いかけた。
「……こんなところでどうしたの、ゆきちゃん」
「ましろちゃんこそ、どうしてこんなところに……」
何となく家に帰りたくなくて、知らないどこかへ迷い込んでしまいたかった。
結局辿り着いたのは記憶の端にしっかりとこびりついたこの場所だというのだから、皮肉なものだった。
「私は……、ちょっと散歩がてら」
「……友達と大喧嘩しちゃって」
「……顔、見せて」
おずおずと顔を上げた雪菜の顔は、夕焼けよりももっと赤くなっていて、瞼は重く腫れ上がっていた。
さっきまで散々泣き腫らしたであろうぐちゃぐちゃの顔がなんだか愛おしくて、昔を思い出した。
小さい頃、泣き虫だった雪菜をよくこうやってあやした。
あの頃よりずっと大人っぽくなったと思うけれど、まだその時の面影が十分に残っているのが嬉しくて、おのずと口元が綻んだ。
「大丈夫だよ」と言って、私はいま一度雪菜を柔らかく抱き締めた。「ゆきちゃんは優しくて強い子だから、きっとすぐに仲直りできる」
……それは私自身、誰かに言ってほしい言葉だったのかも知れなかった。
雪菜の嗚咽が収まるまでずっとそうしていて、しばらくして雪菜の方から抱擁を解いた。
その後もまだ甘えるように、私の右手の薬指の先だけを大事そうに摘まんでいるのを、私はされるがまま受け入れていた。
「ましろちゃん、この場所、覚えてる?」
「……うん」
忘れるわけがなかった。
小学校に上がる前、若葉はまだ生まれてすらいなくて、和穂もやっと立てるようになったかというくらいの頃。
雪菜が何かわがままを言ってお母さんに猛烈に叱られて、幼かった私は雪菜を庇って一緒に家出をして、とにかく遠くへ行ってしまおうとした。
迷い込んだこの神社で、もう二度と帰れなくなるかも知れない不安で、雪菜をもっともっと泣かせてしまった。
「嫌なこととか、つらいことがあると、ここに来るんだ」
「そうなの?」
「うん。……あの時に初めて知った。どんなに上手くいかないことがあっても、その気になれば私はどこへでも行けちゃうんだって」
話すうちに雪菜の表情が穏やかに和らいでゆくのが分かった。
小さくて泣き虫だった妹がゆっくりと独り立ちをしていくみたいに、私の指からそっと指を離して、雪菜は屈託のない笑顔を向けて言う。
「世界は私が思っていたより、ずっとずっと広かったんだ」
――だから大丈夫なんだ、って。
遠い日の思い出を、雪菜がそんな風に解釈していたとは知らなかった。
あの後、近くに住んでいたおじいさんに保護されて、その日のうちに家に帰された私たちは、お母さんにもっと叱られると思っていた。
お母さんは意外なことにそれ以上は何も言わずに、雪菜の大好物のコーンスープを作ってくれて、自然と仲直りをしていた。
「ましろちゃんが教えてくれたんだ――世界は広い。だから今悩んでるこの嫌なことだって、世界からしたらちっぽけなんだって!」
「……私が?」
……全然知らなかった。
私が勝手に小さな世界に縮こまって全部投げ出そうとしていた時、雪菜はちゃんと前に進む術を身に着けていた。
すっかり憑き物が落ちて晴れやかに笑う雪菜の涙の跡に見惚れて、私はお姉ちゃんなのに情けないな……と自嘲した。
「ありがとうね、ましろちゃん」
「……ううん」
私は何もしていないのに。
雪菜が勝手に凹んで、勝手に立ち直っただけだったのに。
全部吹っ切って精一杯に笑う雪菜の顔が、あまりにも眩しくて、そんな彼女のことが羨ましくなった。
それと同時に、今自分が悩んでいることも全部ちっぽけで、気の遠くなるほど広い世界からすればどうでもいいことのように思えてきた。
「帰ろうか、ゆきちゃん」
「うん!」
私たちは何年かぶりに手を繋いで、石畳の道を踏みしめて参道を引き返した。
帰り際、雪菜が和穂からのメッセージに気付いてスマートフォンを取り出した。
雪菜は弾んだ声で嬉しそうに言う。
「今日のお夕飯、ミートソースとコーンスープだって」
「やったじゃん」
雪菜がそうするのを真似して、私も帰り道スキップを踏んだ。
入り組んだ住宅街の細い道を正確に覚えていたわけではなかったけれど、二人でならどこへでも行ける気がして、スマートフォンの地図機能を開かずに歩いた。
そのせいで帰りが遅くなって、家に着くころにはすっかり暗くなってしまっていたけれど。




