星降る夜5
れいかに連れられて三年越しに足を踏み入れた文芸部の部室は、記憶より煤けた情景に映った。
違うクラスになり話さなくなって久しいれいかがなぜ、今になって突然教室に押しかけて私をこんなところへ連れ出したのか、皆目見当はつかなかった。
しかし私は、れいかのあまりの気迫に逆らえなくて、手を引かれるがままそこへ辿り着いた。
もう二度と来ることもないと思っていたその場所に、あの甘酸っぱい夕日をリフレインする。
あの時のれいかの気持ちはどんなものだったのだろうか――当時の彼女と同じ立場から、まだ昇ったばかりの朝日が差し込む教室を、ドアの外からおずおずと眺める。
れいかは部室に辿り着くなり手を離して、ちょうど真ん中に置かれたテーブルの上に腰を下ろした。
何を考えているか分からないくらいに無表情で、口を真一文字に結んで、私をまっすぐに睨み上げるようにこちらを見ている。
その鬼気迫る雰囲気に気圧されて、私は思わず一歩後ずさりをした。
「朝雛さんと付き合ってるって、ほんと?」
開口一番、ストレートに彼女は問う。
「……なんの話?」とはぐらかす。
れいかの声音は怒っているようにも、不安で悲しんでいるようにも聞こえた。
久しぶりに話すはずの彼女が、今更私にそんなことを聞いてくる理由も分からなくて、私はどう答えたらいいか分からない。
れいかとのぞみに、接点なんてないはずだ。
私がのぞみに交際を提案したのだって昨日のことで、その日はお互いの家にいたから、このことが外部に漏れることなんてないはず。
「誤魔化さないでよ」
その声は痛々しく棘があるように聞こえた。
その棘が胸を刺して、過去を抉るように深く突き刺さる。
「……最近仲良くしてるけど、付き合ってはない」
「――キス、したんじゃないの?」
心臓が飛び跳ねた。
罪悪感で胸が張り裂けそうになって、私は途端に強烈な吐き気を催してその場に倒れこんだ。
頭上から槍を降らすかのように、れいかは畳みかける。
「私のこと、なんて言って振ったか、ましろちゃん忘れたわけじゃないよね?」
セピアに塗り潰されて忘れかかったネガフィルムが、乱暴に掘り起こされてゆく。
「一緒にお風呂に入ったんだ――女の子とは無理だって、修学旅行の時だって他の子と時間をずらして入ったくらいなのに」
レモンみたいに甘酸っぱい記憶が、喉の奥から全身を溶かすみたいにせり上がる。
息切れがして、うまく呼吸ができない。
「一緒の布団で寝たんだ――よかったね。私じゃなくて、あんなかわいい子と付き合えて!」
過熱して早口になる金切り声が、刃物みたいに私の鼓膜を突き刺してくる。
耳が痛い。心臓が張り裂けそうだった。
「ねえ、朝雛さんとのキスはどんな味だった……? 柔らかかった? ねえ答えてよ――――!」
「――ちょっと、やめなよ。れいかちゃん」
天地が分からなくなるくらいに平衡感覚がぐちゃぐちゃになって、気付けば私は優しく抱きかかえられて支えられていた。
頭上から降りかかるのは落ち着いた声はあすかのもので、私は涙をボロボロと流しながら声なく嗚咽していた。
涙で歪んだ視界の先に、夕日の差す淫靡な光景を幻視する。
その先にいた私が、きっとあの日のれいかの情緒をぐちゃぐちゃにしてしまった。
「――大丈夫、ましろちゃん?」
多分、あすかが心配して話しかけてくれていた。
私は何とか首を縦に振ったが、涙でめちゃくちゃになった顔を曝すのが恥ずかしくて、手のひらで顔を覆った。
情けない嗚咽が止まらなくて、それ以外に何も考えられない。
「まったく、様子がおかしいと思って追いかけてきて良かったよ。……もうホームルーム始まるよ?」
――それきり、足音が遠ざかっていって、れいかの声は聞こえなくなった。
ホームルームの開始を知らせるチャイムが鳴っても、あすかはその場にうずくまって時折震えるだけの私に寄り添って、背中をさすってくれた。
しばらくしてようやく顔を上げると、涙で濡れた視界の先に、あすかの端整な顔立ちが心配そうに微笑んでこちらを覗き込んでくれていて、私は気まずく目を伏せた。
「落ち着いた?」
あすかは短く問うて、いつもするよりもずっと優しく、頭を撫で髪を梳く。
私は短く首を縦に振った。
「れいかちゃんにひどいこと言われた? あとであの子に直接言っておこうか」
「……別に、本当のことだから」
まだ声が震えているみたいで、上手く話せているか自信がなかった。
こんなに大泣きしたのはいつ以来だろうか。
小学生のときに何度か姉妹喧嘩をした時ですら、喋れなくなるくらいに泣いてしまったことはなかった。
「ましろちゃんは何も悪いことしてないでしょ?」
「…………」
「中一の時のことだって、ましろちゃんは何も悪くないじゃん」
「…………」
「昔のことなんて、もういいじゃん」
「…………」
あすかは私の目元をそっと拭って、それをぺろりと舐めた。
そしていたずらっぽく微笑むと、舌を出しておどけてみせる。
「しょっぱ」
「……きも」
後ろから抱き着くようにして覆いかぶさると、あすかは面白おかしく笑った。
そんな彼女の様子に毒気を抜かれて、私は徐々に動悸が収まって息が整っていくのが分かった。
ホームルームの後、生まれて初めて授業をサボって、私はあすかと文芸部の部室にいた。
午前中でも少し薄暗い、本棚に囲まれた無機質な部屋。
壁には所狭しと部活の活動内容とか、成果物が模造紙で貼られていて、ほどよく生活感がある。
最後に訪れて三年も経てばあの時と様相もだいぶ変わっていて、懐かしさを感じるのに居た堪れないような、居心地の悪さを感じた。
「これでましろちゃんも、サボり処女卒業だね」
「あすか、さっきからなんか、いちいちきもい」
「ごめんってー」
からからと笑うあすかに呆れて、私は溜息を吐いた。
さすがの私でも、あすかが私に気を遣って、敢えて明るく接してくれていることは分かった。
「のぞみちゃんと付き合い始めたんだ」
「……なんで知ってるの?」
さっきの話の最初からいたわけでもないあすかも、そのことを知っていた。
れいかにそれを指摘された時、私は完全にパニックになってしまっていた。
何故そのことを、れいかもあすかも知っているのだろう。
「なんかね、のぞみちゃんがクラスのグループメッセージで言ったみたいで」
「……そっか」
浮かれていたのはあの子だけでなく、私もだった。
目立つのが苦手な私は、校内で付き合っているなんてことを知られるのは絶対に避けたかった。
しかしそれをのぞみには伝えていなかった。
そもそものぞみは、私とあったことを簡単にあすかに言いふらしていたじゃないか。
あの口の軽さなら連休中にあったことも、本人の口からすぐに周囲に伝播して当然だと考える想像力が足りていなかった私のミスだ。
それが最悪の形で露呈してしまった。
「やっぱましろちゃんは嫌だったよね」
隣り合って椅子に掛けて、あすかは私を慰めるように言って頭を撫でた。
私は無言で首を縦に振る。
「れいかちゃんに何言われたの?」
「……付き合ってるの、って」
「うん」
「……それで、女同士なんて無理って言ったのに、なんでのぞみとはいいのかって」
「……そっか」
ちゃんとのぞみに言っておくべきだったのだ。
この関係はみんなには秘密だと。
私たちの間であったことを、簡単に誰かに教えちゃだめだと。
「恋愛って難しいねえ」
「……そうだね」
「モテる女はつらいね」
「……なにそれ、自慢?」
「ましろちゃんのことだよ」
「別にモテないし」
「……どの口が言ってるのかなあ」
私の頬を不意に抓って引っ張ると、痛くて私は「いだだだ――――やめて、やめて!」と喚いた。
涙はもう渇いて、声の震えも収まっていた。
やっと離してくれた頬をさすり、あすかを睨みあげながら言う。
「私とのぞみは別に付き合ってないよ」
「そうなの?」
あすかはきょとんと首を傾げる。
私は昨日のことを思い出しながら、慎重に言葉を選んだ。
「私ものぞみもね、誰かを好きになるなんてまだよく分からなくて、あの時はどうかしてたんだ。……だからあの告白は勘違いで、私たちは普通に仲がいいだけの、ただの友達」
「女同士の恋人なんて、みんなそういうものじゃない?」
そう言う口調はどこか達観していて淡白だ。
淡々と、まるで他人事みたいに空虚な言葉選びはまるで放り投げるみたいな言い方で、だからこそ彼女とのこういう他愛のない会話が、私は好きだ。
「恋愛なんて時間の無駄だよ。どうせ卒業までには別れるのに」
「でも、ましろちゃんはのぞみちゃんのこと、どうしようもなく好きなんじゃない?」
あすかの核心を突いた問いに、私は即答できなかったのが悔しかった。
「今が楽しければ、それでいいと思うけどな。高校時代を楽しんだ思い出は、きっと無駄にはならない」
「……いずれ別れることになっても?」
その問いを、自信満々に答えるあすかの笑顔もまた、お日さまみたいに眩しくて、ふとした時に見惚れて吸い込まれそうになる。
「当たり前でしょ。女の子なんだから、恋をしないと!」
あすかと二人きりで、こんなに長い時間を一緒にいるのが久しぶりで、その時間が過ぎるのが早く感じられた。
一限目が終わるチャイムはいつの間にか鳴り終わっていたけれど、私は教室へ戻る気力をすっかり失くしてしまっていて、ふたりしばらく薄暗い教室の真ん中でたそがれる。
教室のない部室棟を午前中から見回りにくる先生なんているはずもなくて、私たちはしばらくそうしていた。
教室へ帰れば、向き合いたくない現実と向き合わなければならない気がしてしまって、あすかも強引にこちらへ引き込んで、いつまでもそうしていたいと思ってしまった。
『あすかちゃんから、朝あったこと聞きました』
『いろいろ勝手に話しちゃったこと、ごめんなさい』
『ましろちゃんに迷惑かけたくないから、しばらく距離を取ります』
『本当にごめんなさい』
――三限目からしれっと授業に復帰しようと試みたが、れいかにあんな呼び出され方をした挙句二限までの授業をサボってしまった私が、クラスメートからの注目を浴びないなんて到底無理な話だった。
私はなるべくいつも通り、目立たず教室の空気に徹しようとしたが、いくら集中したって普段はあまり話さないような子と不意に視線が合ってしまう(挙句、すぐに目を逸らされる)し、ひそひそと噂をされているように感じてしまう。
前の席のあすかにも助けを求めた。
あんなことがあった手前、あすかは私にすごく気を遣ってくれてはいたが、だからといって彼女一人の力で噂好きの女子高生たちの好奇心をどうにかすることはできず、私は針の筵に放り込まれたような一日をなんとか過ごし終えて放課後。
のぞみから改まったメッセージが届いていて、私はどう返信するのが正解か分からずに、そのまま放置してしまっていた。
――のぞみが私たちの関係を言いふらしたことについては、はっきりと嫌であったが、それとれいかの問題はまったく別の問題である。
いくらここが女子校で、実際に女の子同士で付き合っているカップルもいるとはいえ、それは堂々と公言するようなものでもない。
私のような日陰者であればなおさら、隠れてやるべきことであって、決して周りに自慢するような行為ではないのだ。
のぞみは本当に子どもっぽいというか、情緒が育ちきっていないところがあって、時々デリカシーがない。
私が「普通ならば」と考えてしまうようなことであっても、彼女にとっては常識ではなくて、好きの感情が溢れて抑えが利かなくなったところを、身の回りの誰かに話してしまいたくなるのは、冷静に考えれば当然だった。
実際に前にも二人の間のやり取りを勝手にあすかに言ってしまうなんてこともあったのだから、私がもっと落ち着いてのぞみのことを考えて、先に言っておくべきことだった。
クラスのグループで話した――ということは、少なくとものぞみのクラスメートは全員知っていることになる。
既に高入生の友達も多いあすかは勿論、そこまで友達の多いわけではないれいかも知っていたということは、恐らく一年生の大半はこのことを知っているのではないだろうか――そう推測して、私は背筋がぞっとするのを感じた。
そうなれば、恐らくあすかのアドバイスを受けたのだろう、私とのぞみがしばらく距離を取るという判断は懸命なものだったように思う。
本当に彼女には頭が上がらない。
それよりもれいかの話だ――文芸部まわりのいざこざはもう過去の話だったと思ったのに、彼女はあの時の話をまだ引きずっていたというのか。
……いや、彼女の言う通りだ。
あのとき私は誠実さを欠いていて、勝手に解決したと思い込んでいたのは私だけだったのかも知れない。
何も考えず流されて、自分勝手に逃げて、れいかを傷つけたツケが今更回ってきたのだと思うと、納得のいく話だ。
「今日、ちょっと寄り道してかない?」
いつもよりも素早い手つきで帰りの支度をし、そそくさと帰ろうとしていると、あすかがそう提案してきてくれた。
正直ぜんぶ投げ出したくて、不安で仕方なかったから、その提案はあまりにも魅力的で、私は一も二もなく即座に承諾した。




