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星降る夜4

 翌朝。黒髪の甘い匂いが鼻腔をついて、幸せな気分で目を覚ました。

 大好きな人の匂いに包まれる中で意識が覚醒していって、のぞみの家に泊めてもらっていたことを思い出し、少しずつ昨日あったことを咀嚼して頬が緩んだ。


 のぞみは寝ている間に寝返りを打ったのか、背中を向けてぐっすりと夢に落ちている。

 私はそんな彼女を起こさないよう気を付けながら、背後からそっと腕を回し、後ろから優しく頭を撫でた。

 湯たんぽみたいな温かい全身から、綿菓子みたいな甘い匂いがした。


 しばらくそうしていて、日が昇りだし、カーテン越しの窓から部屋に朝日が差す。

 ゆっくりと布団から出て、安らかな寝息を立てるのぞみの体に布団をかけなおしてやると、自然と笑みがこぼれた。


 スーツケースから読みかけの本を取り出し、しおりを引く。

 ショッピングモールでデートをした時に一緒に買った四葉のクローバーが顔を覗かせた。


 のぞみの部屋には本棚が一つ置かれていて、漫画本がぎっしりと並んでいる。

 読んだことのない少女漫画や少年漫画のタイトルがずらっと並んでいて、並びの不均質さや、巻数が不揃いであることから普段から愛読しているのだと分かった。


 のぞみもあの時のしおりを使ってくれているのかなと思いを馳せた。

 起きたら聞いてみようかな。


 普段からのぞみが使っているであろう勉強机を拝借し、椅子に掛ける。

 朝日が差し込むようカーテンを少しだけ開けて本を開いた。

 新緑の季節の暖かな日差しが、眠気にもやがかかった思考に明るく差し込んでくる。


 しばらくして気分が良くなったので、本を置いてスーツケースから着替えを取り出してみる。

 詰め込むまでは恥ずかしくて躊躇していた清楚な膝丈ワンピースも、今なら私にでも似合う気がした。


 パジャマを脱ぐ前に、ヘアブラシを取り出して髪を軽く梳く。

 覚えてもいない夢と絡まった現実との境界線が、すっきりとして丁寧に引かれていくかのよう。


 パジャマのボタンを上から丁寧に外し、きれいに畳んでスーツケースにしまう。

 ブラジャーとキャミソールを着けてから、ワンピースに袖を通した。

 外気に触れる太腿の涼しさが心地よくて、思わずその場で一回転してみた。


「――天使がいる」とのぞみが呟いて、私は驚いて布団の方へ目をやった。


「……おはよう、のぞみ」

「ましろちゃん、おはよー」

「いつから起きてたの?」


 半目を開いてのぞみは、まだ夢との狭間にいるみたい。

 私は秘め事を見られた恥ずかしさからおのずと声が上ずって、取り繕うので精いっぱいだった。


「ましろちゃん、こっちおいで――」


 そう言って手を広げて布団へ誘う彼女を断る理由もなく。


「――だいすきだよ、ましろちゃん」


 布団の中であれば身長差なんてそこまで関係がなくて、私はのぞみの胸にうずめられるような形で強く抱きすくめられる。

 小柄な割に豊満な胸の中に顔を埋められて、呼吸が苦しくなった。

 もぞもぞと身体を動かすたび、ワンピースの裾が上がってきて、素肌に直接布団の暖かな肌触り、のぞみの足の感触が触れてくる。

 のぞみは足と足を絡ませるようにして潜り込ませてきて、私はすっかり動けなくなった。


「く、苦しい、のぞみ……」

「ましろちゃん、いいにおい――」

「…………」


 おっぱいに包まれた狭い視界の中、必死で鼻呼吸をすると、嫌でも彼女の甘い匂いに満たされる。

 脳の中がその匂いでいっぱいになって、全身が淡い電撃で焼かれたみたいになる。

 なんだかすごくいけない気分にさせられるみたいで、呼吸の苦しさだけでなく、胸の高鳴りが加速してゆく。


「……あの、のぞみちゃん?」

「んー……?」


 声を震わせるとのぞみの胸の鼓動も同期して振動するよう。

 彼女の世界に包み込まれたみたいに錯覚して、それが余計に私をドキドキさせる。


「そろそろ、離してほしいかなって……」

「ずっと一緒だよー……」

「……完全に寝惚けてるじゃん」


 さっきよりもっと私の顔を抱き寄せ、足を絡めとって、両手はのぞみの腕の中で身動きが取れなくて。

 息が出来なくて苦しいのに、多幸感が私の覚醒した思考を奪って再び夢の世界へ落とすよう。

 せっかく起きて着替えまでしたのに、温かな彼女の体温が強烈な眠気を誘う。


 のぞみは私の頬を両手のひらで挟みこんで、彼女の顔の前に手繰り寄せた。

 半目だけを開いた眠そうな黒い瞳でこちらを虚ろに見据えて、ほのかに微笑を作る。

 その夢想的な表情に見惚れていると、そのまま覆いかぶさるようにして包み込むようなキスをした。


「ましろちゃん、かわいい」

「……うん」


 呆気に取られてされるがままになって、のぞみはそのまま私を、肩に腕を回して強く抱き締めた。






 連休明け。

 未だ夢見心地のままの重い身体を引きずって登校する。


 長かったようであっという間だった大型連休を明けると、いつも通っていたはずの学校が何故だかそわそわしているように見えて、どこか違う世界かと錯覚した。


 他にすることもないので本を開いているのだが、連休中にあった出来事がぐるぐると頭の中を巡って――初日にはショッピングモールへ遊びに行った。お揃いの四葉のクローバーのしおりを買った。中日には山へ遊びに行き、最終二日はのぞみの家に泊まらせてもらった。そういえば弟さんの陸人くんとはほとんど話さなかった。緊張していたのもあったが、次はもう少し話せればいいと思う。お菓子を摘まみながらゲームをして、一緒にお風呂に入って、同じ布団で寝た。

 どれも前までの私では考えられないくらい充実した思い出で、それが現実であったことなのか未だに信じられないくらい。


 私はすっかり集中力を欠いて、紙面に羅列された文章の意味がまったく入ってこなかった。

 朝から一頁も進まない読書から引き戻すように、あすかの声が降ってくる。


「今日はなに読んでるの?」

「……あすか、おはよう」


 あすかの顔もなんだか久しぶりに見る気がして、私はぼうっと彼女の端整な顔立ちに見入った。

 連休中に少し髪が伸びたみたいで、頭の後ろでかわいらしい白のリボンで一つ結びにしている。


「髪型、なんかかわいい」

「あっ、これ? わかる?」


 あすかは束ねた髪をぽんぽんと跳ねさせて、嬉しそうに声を弾ませた。


 そしていつもそこにいる地域猫をかわいがるみたいに、私の頭をくしゃくしゃに撫でる。

 私はうっとりと目を瞑ってされるがままになった。


「ましろちゃんが髪型褒めてくれるなんて、今日はいいことあるかも」

「そうだといいね」


 私は表情を変えずに髪型を梳き直して、本へ目を落とした。

 あすかが話しかけてくれたお陰で、夢見心地だった休日の私が、平日の日常生活へようやく戻ってこれた気がした。


 あすかは私の前の自分の席に着くと、椅子を反対へ向けて私の机に頬杖をつく。

 しばらく話し相手になるつもりみたいだ。


 私は目は合わせず、ぼんやりと活字に目を落としたまま、彼女の踊るような言葉運びに耳を傾ける。


「そういえば、文芸部の子たちとはまだ話すの?」

「…………」


 私は口には出さず、静かに首を横に振って否定した。


「そっか。れいかちゃんから最近よくましろちゃんの話聞くんだけどな」

「あの子とはしばらく話してないんだけど……」


 中学の二年間同じクラスだった文芸部の月崎(つきざき)怜歌(れいか)とは、クラスメートだった頃はあすかを除けば唯一の友達だった。

 れいかもまた、私と同じように人付き合いがあまり上手くなくて、中学二年の学校行事ではあすかに誘われて同じ班になった。

 控えめだが優しい子で、馬も合ったからよく一緒にいた。


 喧嘩別れをしたというわけではなく、クラスが離れてからは一年以上話していなかった。

 それ以来、時々学校ですれ違って目が合う程度だったのだが、そのれいかがどうしたというのだろう。


「話してないならいいや。――ましろちゃんも、あんまり思い出したくないこととかあるだろうし」

「……何かあった?」

「ああ、あったというか……」


 何か言いにくそうにするあすかの表情へ顔を上げてみると、彼女は困ったように笑って視線を逸らした。


「先輩とも、話してないんだよね?」

「……うん」


 それだけ言って、あすかは席を立って、賑やかにさえずるキラキラグループの輪の方へ小走りしていった。

 呆気に取られてしばらくその後ろ姿を目で追っていたが、あすかと話をしたことで思考がすっかりクリアになっていた私は、その後読書に集中することができた。


 昔の文芸部の子たちとのひと悶着ももう気にしていないし、のぞみとの関係性も日常生活にスパイスを加えるみたいな形できっと続いてゆく。

 やっぱり私には、みんなからは目立たないところで離れて、本を読んでいるくらいでちょうどよくて――。


「――あの、ましろちゃん!」


 俄然、春の空気が凪いで、女の子たちのさえずる声がぱたりと止んだ。


 記憶にあったものよりずっとよく澄んだ高い声が、教室中の注目を集めるかのように鳴り響いたかと思うと、女の子たちの視線が一斉にこちらへ集まる。

 三つ編みの大きな丸眼鏡の女の子が、ほのかに頬を朱に染めて、意志の強い眼差しをこちらに落としていた。


「――れいか?」

「ちょっと、話があるの!」


 そう言って彼女は――月崎怜歌は、本を開く私の手を強引にとって、私は読みかけのページに四葉のしおりを挟む余裕すらなく、教室の外へ連れ出されていった。



  *  *  *



 初めてのキスは、甘酸っぱいレモンみたいな味がしたのを覚えている。


 妖しげに夕日の差し込む新棟の奥まった一室、本棚に囲まれた秘境みたいなところに文芸部の部室がある。

 入学したばかりの中学一年生の頃、私は部に所属こそしていなかったものの、れいかに連れられてよくこの部室に入り浸っていた。


 文芸部は中高合わせて十人前後のこじんまりとした所帯で、毎日出席するというよりは、気が向いた時に遊びに来て気ままに活動するといったような、緩い部活のようだった。

 入部自体はやんわりと断っていた私だが、れいかに連れてこられるうちに何人かの同級生や先輩と仲良くなった。


 私が二つ上の先輩、宇多川(うたがわ)ひかりに見初められたのもちょうどその頃だった。


 ひかり先輩は当時、中学の生徒会副会長で、学園の王子様とも名高かったスパダリ生徒会長と双璧を成す人気を、生徒たちから獲得していた。

 一時期は二人は交際しているのではないかなんて噂も流れた。


 れいかとの付き合いは中学二年いっぱいまでは続いたものの、文芸部の部室に行かなくなったのはもっと前。

 ひかり先輩と話すのが気まずくなってからは、もうそこへは行けなくなった。


 中学時代の私は今よりもっとツンツンしていてかわいげがなかったと思う。

 周りの子とはどうせ仲良くできないと思っていたし、かといって小学生の頃まで持っていた謎の自信は既に失っていて、ただ卑屈でひねくれた子だった。


 あすかやれいか、文芸部の一部の子たちには気を許していたが、それを除けばまともに人と関わることのなかった私にとって、ひかり先輩は実際以上に魅力的な人に見えてしまったのだと思う。


 黒髪ロングの美少女ですらっと背が高く、モデルみたいな体型のきれいな人で、旧財閥グループ会社の社長令嬢。

 そんなあらゆる女の子の憧れの的みたいな人に言いくるめられて、当時何も知らなかった私では騙されない方が難しかった。


 長く濃厚で貪るようなキスは、腐りかけのレモンみたいに甘酸っぱく刺激的で、頭の中がぐちゃぐちゃにかき混ぜられて、自分が自分でなくなるみたいにわけがわからなくなった。


 獣みたいに理性を失ってタガが外れた先輩の眼光は、夕暮れの薄明に歪に煌めいた。

 私はその瞳に射殺されるのではないかと恐怖した。


 制服ははだけさせられ木製の机の上に仰向けに押し倒されて、薄暗く他に誰もいない一室できっと、まだ穢れを知らなかった私の柔肌の色は、ドア越しに偶然居合わせてしまったれいかでは分からなかったと思う。

 まだ無垢な中学一年生の少女に強い衝撃を与えるには、きっと十分すぎた。

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