新緑の風5
連休の二日目も雲一つなく晴れて、カーテンから差し込む白い朝日に目を覚まさせられた。
日が少しずつ長くなっていくのを感じる。
生来の寒がりで、冬よりは夏が好き。
そして、寒く閉塞した季節が終わり少しずつ暖かくなって、世界が鮮やかに色づいてゆくこの季節が好き。
朝の早い私は休日でも起きる時間は変わらなくて、顔を洗い寝癖を直してから自室へ戻る。
ぼうっと本を読んでいると、スマートフォンへの突然の着信によって漫然とした思考がにわかに突き動かされて、一つ深呼吸をしてからその着信に出た。
「……もしもし?」
『ましろちゃんおはよー!』
回線を通してものぞみの声は相変わらず快活で、心がほんのり温まって口元が綻ぶのが分かる。
のぞみに対する様々な愛情が溢れてくるみたいで、私は本を閉じてスマホを抱き締めるみたいに持ち直した。
「おはよう、のぞみ。朝早いんだね」
『ましろちゃんのこと考えてたら眠れなくて』
「えっ、徹夜?」
『二時間くらいは寝たよ!』
睡眠不足とは思えないくらいの元気はどこから出てくるのやら、深夜テンションで弾けたように笑う彼女の元気に、寝起きでのんびりとした私の気分は置いてけぼりにされてしまっていた。
やはりのぞみはちょっと変わった子だ。
最初はただみんなの中心にいる人気者という色眼鏡で見てしまっていて、深い仲になるまで本当の彼女を理解していなかった。
だから幻滅したというわけではなくて、寧ろもっと彼女のことを好きになってしまいそうだけど……。
私はじわじわと昨日の出来事を思い出して、その温もりに身を委ねる。
「ちゃんと寝ないと、体に悪いよ」
『うん。ましろちゃんはよく眠れたー?』
「私はちゃんと八時間眠れました」
『えらい! 寝る子は育つって言うもんねー』
ちっちゃな体でぴょんぴょんと飛び跳ねて、子どもみたいにじゃれる姿が、通話越しに容易に想像できた。
妹たちがまだ小さかった頃、かわいらしく懐いてくれた妹たちのことが大好きだった。
今はもう雪菜と和穂は中学生になって、甘えるような年頃でもなくなった。
末っ子の若葉も小学四年生。
まだまだ末っ子らしい甘えムーブはあるものの、段々と持ち前のマイペースを解放するようになって、彼女自身の家族のもとから離れた世界を構築するようになっていっているようだった。
のぞみと話していると、同級生なのにかわいい妹が増えたような感覚になる。
そういえば、のぞみには兄弟はいるのだろうか。
甘えん坊の妹のイメージがすっかりついていたが、実際はどうなのだろう――もっともっと彼女のことを知りたくなる。
『ねえね、ましろちゃん。次はどこへ遊びにいこうかー? 海、それとも山?』
「それは夏休みに行くものじゃない?」
『夏は暑くて溶けちゃうよ。どさんこにはきついー』
「どさんこ……。のぞみって北海道出身なの?」
『うん、そだよー!』
新情報ゲット。私は無性に嬉しくなって、手元にあったメモ帳に、うろ覚えの北海道の地図を一筆書きした。
札幌ってどの辺だったっけ。のぞみは北海道のどのあたりに住んでいたのだろう。
まだ北海道には行ったことがないや――いつか一緒に行ってみたいな。
そして椅子の上で猫みたいに背をまるめて足を乗せ、背もたれに体を預ける。
大好きな子の声が通話口から聞こえるのが嬉しくて、心がとくん、とくんと跳ねている。
「のぞみって、お姉ちゃんかお兄ちゃんがいたりする?」
『どうして?』
「なんかその、妹と話してるみたいな感じがするから」
『ましろちゃんってお姉ちゃんなの?』
「うん。妹がいるよ」
『ましろおねーちゃん!』
……心臓が止まるかと思った。
耳元で元気よく放たれたあまりにも甘美なフレーズに、私はきゅんと胸が高鳴って、危うく意識を持っていかれるところだった。
妹キャラの「おねーちゃん」呼びはあまりにも破壊力が高い。
妹みたい、とは思ったがのぞみが本当に妹になったら、死ぬほど甘やかしてしまう自信がある。
返事をするのにしばらく時間を要したのを許してほしい。
「……は、はーい?」
『えへへ』
かわいすぎかわいすぎかわいすぎ。
『私はね、弟が一人いるの。三歳年下でー、いま中一なんだ』
「あっ、じゃあのぞみもお姉ちゃんだ」
『うん。一緒だね!』
こんなにも妹属性の女の子が、実は姉であるというギャップ。
……それはそれでありかもしれない。
のぞみの弟ってどんな子なんだろう。
中学一年生といえば、和穂と同い年だ。
『こんど紹介するねー。ましろちゃんには連休中にうちにお泊まりに来てもらうから』
「は、初耳!」
突然投下された爆弾に、私は思わず背筋を伸ばして座りなおした。
ちょっとまってください、心の準備ができていない。
一緒にカフェに行って、古着屋に行った。
買ってもらったおしゃれな服を着て、休日ショッピングデートもした。
私たちは確かにお互いに何度もハグしあったくらい深い関係の親友になれたわけだけれど、家にお招きされるのは緊張する。
『というわけで、いつならあいてますか!』
「え、えーっと……」
私は泳ぐ視線で卓上のカレンダーに目を躍らせた。
二人で遊びに行った翌日の朝に通話がかかってきて、仲良くおしゃべりをしていたと思ったら起きた急展開についていけきれずに、私はすっかり大混乱。
「じゃ、じゃあ火曜日……」
『火曜日ね! ――はーい、いまいくー! それじゃあましろちゃん、またあとでね!』
一方的に通話は切れて、そこには呆然と椅子の上で背筋を伸ばしたまま机に向かうだけの私が残された。
……いや、友達どうしなら家に誘うなんて普通だよね。
私は思い直して誰に向けるわけでもなく咳払いを一つ。
これまで友達のいなかった私は、当然誰かの家に上がった経験なんてない。
友達の家に行くということは当然、友達の家族にも会うわけで……。中一の弟さんや、ご両親にも? なんてご挨拶すれば……。
そもそも、数年来お父さんや学校の先生以外の男の人とまともに会話してない私が、ご家族と上手くやれるんだろうか。
改めてカレンダーを二度見する。
火曜日、連休の最後から一つ手前の日……、あと一週間。一週間しかない!?
いや、考えようによってはあと一週間もある。
それまで私は平静を保って連休を過ごすことができるのか……。
なぜか今から緊張してきた。
落ち着け、恋人の家に行くわけでも、まして結婚の挨拶に伺うわけでもなく、ただ友達の家にお招きされるってだけの話で……。
――スマートフォンが振動して、一件のメッセージを受信した。
のぞみからのメッセージだった。
『言い忘れたけど、海か山にも行こうね』
『またあとで予定決めよー!』
「…………」
どうせ連休中の予定なんて他にないし、のぞみに誘ってもらえるのは願ったりなんだけど……。
すっかり振り回されて心を乱されているというのに、私は満更でもなく嬉しかった。
扉の開く音がして、私は思わずスマートフォンを置いて、読みかけていた本のしおりのページを開き直した。
読みかけた行頭よりも、ゆうべ封を切ったばかりの四葉の意匠に視線が落ちて、すっかり身近になったのぞみとの会話が、二人で歩いた夕日のペデストリアンデッキの情景がよぎる。
のぞみのことを思い出すたび思考がそれ一色に染まってしまうみたいで、独りだけど平穏だった日々が劇的に変わってゆくみたいで嬉しくて、少し怖かった。
気の休まる暇なんてありやしない。
「ましろちゃん起きてるの?」
物音に気付いたのか、雪菜の眠たげな声がカーテンの向こうから聞こえてくる。
八畳間をカーテンで仕切っただけの個室は、プライベートのスペースとしては頼りなかった。
私が中学に上がるくらいの頃に、それまで姉妹で遊んだり物置に使っていた部屋を、お父さんがリフォームしてくれて、姉妹四人それぞれに自室が与えられた。
カーテンのすぐ向こうには雪菜の勉強机や私物があって実質的に同室だが、姉妹仲はさほど悪くはないし、慣れていたから気になったことはなかった。
「おはよう、ゆきちゃん」
私は一つ年下の妹の愛称を呼びながらカーテンの向こうへ顔を覗かせた。
寝ぼけ眼をこすりながら、私とよく似た顔立ちのロングヘアの女の子がこちらをぼうっと見つめている。
――そういえば、のぞみに指摘されるまで全然気付かなかった。
雪菜の瞳も、色素の薄いヘーゼルブラウンをしていて、どこか儚げでエキゾチックな印象を受けた。
自分で自分を褒める気にはなれないけれど、私と同じ色をした雪菜の瞳がなんだかいつも以上に魅力的に見えてきた。
雪菜は私と違って学校でも社交的で、明るい子だ。
もしかしたら雪菜は、私とは違って自分をもっと客観的に見て、自分の魅力ももっと知っているのかも知れない。
「……どうしたの、ましろちゃん?」
「いや、えっと、おはよう……」
「ん、おはよ」
雪菜は淡白に短答すると、カーテンを開けて自室へと入っていった。
窓越しに差し込む朝日を受けて、パジャマ姿の妹の黒髪ストレートロング――だと思っていたブラウン混じりの髪が、幻想的に光って見えた。
雪菜よりは短くしているけれど、同じ髪色の私は、なんだか自分のことが途端に気恥ずかしくなった。
たぶん雪菜には気付かれていない複雑に照れる気持ちを紛らわそうと、私は逃げるように自室へ逃げた。
本でも読んで気を紛らわそうなんて思ったけれど、結局お母さんにお昼ご飯に呼ばれるまで、ずっとのぞみのことを考えてしまって落ち着かなくて、物語の内容も全然頭に入ってこないし、時々そわそわとスマートフォンのホーム画面をチラチラと見てしまう。
結局お昼になって頭も覚醒しきった雪菜には、「今日のましろちゃん、なんだかそわそわしてるね」なんて指摘されてしまった。
「き、きのせいだよー、はは……」
「……なんかいいことあった?」
ちょっと友達ができたくらいでこんなに舞い上がって、ああなんて恥ずかしいんだ。
いつかこの気持ちを制御しきれる日がくるんだろうかなんて不安に思いつつも、一方でいま胸に秘めるこの、誰かをどうしようもなく愛おしく思うこの気持ちも、ゆっくりと噛み締めて大切にしていきたいな。
* * *
薄明に白むヘーゼルアイの揺れる様、玉の瞳にうっすらと浮かぶ涙。
今にも手折れそうなくらい細く儚くて、だけど芸術品みたいに美しい身体。
そして、おでこにされた軽い口づけのほのかな感触が、ずっと残って忘れられない。
「キス、されちゃった……」
――弟が生まれてから、私はお姉ちゃんでいなければならなくなった。
親から向けられる愛は弟と半分こで、私はただ誰かに甘えるだけでいい存在ではなくなった。
寧ろ、甘える弟に愛情を与える側にならなければならなくなった。
私のことを全肯定してくれる温かな存在に、全てを委ねてしまいたいと、ずっと思っていた。
でも、年齢を重ねるにつれて私の全てを受け入れてくれる人はどんどん少なくなっていった。
誰かに嫌われるのが怖くて、誰からも好かれるように笑顔を作った。
でも、手を伸ばせばみんな私の前から逃げていってしまう。
みんなが大好きな私を演じたおかげで、私の周りには常にみんながいてくれるようになって、私は寂しくなくなった。
でも、私の手の届く範囲にはいつも誰もいなくて、私はいつもひとりぼっちだった。
寂しい夜には、ベランダに出て空を見上げ、一番星を探すことにしている。
いつかきっと私のお星さまが現れて、ひとりぼっちの私の全てを包み込んでくれますように。
「大好きだよ」と呟いてみる。
高校生になって出会ったその一番星は、陽が落ちて夜へいざなう薄明に、ひときわ輝いて見えたんだ。
お日さまが出ているお昼には気付けなかったその光に、私は手を伸ばしてついていくことにしてみた。
すでに、その瞳に恋をしていたのだから。




