新緑の風4
「これかわいい」
「えっ、どれどれ?」
文房具店で見つけた四葉のクローバーのデザインのしおりを見つけて、私はそれにふと惹かれた。
手に取った四葉を興味津々に覗き込むのぞみと目が合って、私は照れ笑いをした。
のぞみとの身体的な距離が、さっきまでよりも更に近くなった。
歩くときはずっと手を繋いでいるし、立ち止まっても私の手とか背中とか、どこかしらに必ず触れている。
ずっと遠く眩しい存在だと思っていたのぞみの本音を聞いて、私はのぞみのことをもっともっと好きになって、もっと深く親しくなりたいと思った。
それはきっと彼女も同じだったんだろうけど――あまりの物理的な距離の詰め方に、私はちょっと驚いてもいた。
――そりゃあ確かに、感極まって泣いてしまいましたけど。
だいぶ恥ずかしいこともたくさん言ってしまいましたけど。
それでも、お互いに本音を曝け出した途端、溢れ出して止まらないのぞみの好意の大きさを測りかねた。
こんなかわいい女の子にたくさんスキンシップをとってもらえるのは恥ずかしいけれど嬉しいし、嫌ではない。
けれど、みんなの人気者で友達には困らないであろうのぞみにこんな一面があったことを、私は想定しきれていなかった。
のぞみは誰とでもすぐに仲良くなれて、私なんかは数いる友達のうちの一人。
みんなの輪の中に入っていって、仲良く楽しく――というのは、大勢で賑やかな人間関係が苦手な私には向かないけれど、せめてこうしてときどき二人で一緒に遊べるくらいの仲になれたら……。
もしそうなれば嬉しいし、そこまでいかなくても彼女に名前を覚えてもらえている友達のうちの一人とカウントしてもらえるだけでも十分だったのに。
「四葉のクローバーだー!」
のぞみは私が手に取った本のしおりを見て、明朗な反応で顔を綻ばせた。
四葉といえば、私たちの通う学校の名前でもある。
キラキラと目を輝かせて、いつも新鮮な反応をくれるのぞみは、知り合った時の印象から陰ることなく、むしろより輝きを増して美しく見えて。
その輝きを今、親友と認めた私にだけ見せてくれていると思うと、独占欲に似た感情すら湧き上がってくる。
その笑顔を特別に私にだけ見せてほしい――なんて、そんな贅沢な願望を私なんかが持つべきではないのに。
「せっかくだし、おそろいで買おうよ」
「うん!」
私は商品を二つ手に取り、レジへ向かう。
もちろん良く懐いたペットみたいに私の手をぎゅっと握り締めて離さずに、のぞみも着いてくる。
二つ分の値段を払って店を出て、片方をのぞみに渡した。
「付き合ってくれたお礼」
「ましろちゃんだーいすき!」
今日何度目になるか分からないハグで、私は体勢を崩しそうになるところを寸でのところで堪えて、抱擁をし返した。
私より少しだけ小柄な背丈で、私の胸に顔をうずめるみたいに密着して、柔らかくて温かいのぞみの身体が、私自身と一体になって。
お互いの鼓動が混じり合って、まるで合唱するかのよう。
誰かとこんなに近くで触れ合うのなんて初めてだった。
私のことを大好きでいてくれる友達を、大好きだと思えるのなんて、初めてだった。
夢みたいな一日は日暮れと共にゆっくりと、でも確実に終わりに近づく。
ショッピングモールを出て、きれいな夕日に思わず見惚れて、隣で手を繋ぐのぞみも同じ気持ちだったのか、手のひらを握る力が少しだけ強くなった気がして、私たちは人の波の真ん中で立ち止まった。
隣へ視線を下ろした先に、心なしかのぞみの黒く澄んだ瞳が少し潤んでいるように見えた。
「今日は楽しかったね」と私は言う。
のぞみは返事の代わりに、私の背に腕を回して、胸に顔をうずめた。
まるで赤子が駄々をこねるみたいにしがみついた腕の力が、小柄な彼女の体躯からは想像もできないくらいに強く感じられて、私はあやすように滑らかなロングヘアを優しく梳いた。
「また遊ぼう。何度でも、たくさん」
「帰りたくない……」
「でも……家族が心配するよ?」
「まだまだ、もっとずっと一緒にいたい」
「…………」
子どもっぽいわがままだなと思いながら――その抱擁を無碍に引きはがせない私もいた。
私だって、ずっと一緒にいたいと思った。
永遠みたいな一瞬の、夢みたいな二人の時間。
君のことが好き。
そんな気持ちでただただ溢れて、何をするかより、君といられることが何より重要で。
楽しくて、嬉しくて、愛おしくて、愛で溢れていっぱいになって。
人のことが嫌いだった私が、初めて誰かのことを好きになれた。
「のぞみはさ、私のどんなところを好きになってくれたの?」
面倒くさい恋人みたいな質問をしてしまった。
のぞみは私の胸に顔を潜らせたまま、くぐもった声で少しずつ答えてゆく。
「優しいところ」
「優しいかなあ」
「優しいよ」
「……他には?」
「かわいいところ」
「かわいくはないよ」
「かわいいもん」
「……他には?」
「声がきれいなところ」
「は、初めて言われたかも」
「あとね」
のぞみは、ゆっくりと顔を見上げる。
星空を映す鏡みたいに澄んだ黒い瞳でこちらを上目遣いに、私はその瞳にまた魅了されて、頭がぼうっとしてゆくのが分かった。
「目がきれいなところ」
眉尻を下げて、今生の別れでもなし、約束さえすればまたすぐにでも会えるというのに、寂しそうに儚げな表情できれいな目をしばたかせる。
映画のワンシーンみたいに美麗なその儚さは、真っ赤な夕日が影を作って、私の記憶のフィルムに強い印象を以て焼き付けられた。
永遠にでも見ていたいそのワンシーンは、しかしながら一瞬で過ぎ去ってゆく。
せめて少しでもその絵画のような美麗さに酔い浸っていようと、しばらく何も言わずにふたり見つめ合っていた。
「――そろそろ帰ろうか」
勇気を持って視線を外した時には、東の空はもう闇の帳が降りていて、白い街灯の明かりが街を夜に照らしはじめる。
のぞみの私を抱き締める力がより強くなったみたいで、さすがに息苦しさを感じた。
「分かったから。もう離して――」
「寂しいよ、ましろちゃん」
痛々しく、しかし消え入るように悲鳴したのぞみの声が、胸の奥に強く突き刺さった。
……だから、もうずっと会えないわけじゃないのに。
時計の読み方を知らない幼児みたいな聞き分けのなさに、私は困惑した。
私の彼女に対する第一印象は、みんなから人気の愛され体質の女の子。
友達がたくさんいて、お日さまみたいにみんなを照らす、ムードメーカー。
でも今、私を強く抱き締めるこの少女は、ひとりぼっちで誰も満たすほどの大きな愛まではくれなくて、ただひとりできた初めての親友から離れることを怖がる、寂しがり屋のうさぎだった。
「――のぞみ」
私は彼女の名前を一回だけ優しく呼んで、昔よく妹をあやしたみたいに、一定のリズムをとって背中を叩いた。
同級生の寂しさをそれで紛らわすことができるのか分からなかったが、しばらくそうしていると少しずつのぞみのこわばった腕が解れていって、安らかな吐息を一定の感覚で吐き出すようになった。
折を見て抱擁を解くと、俯いた彼女はまだ不安そうな表情をしていたが、呼吸は落ち着いていた。
「大好きだよ。私と友達になってくれてありがとうね」
高嶺の花、雲の上の存在だと思っていた人気者の女の子が、本当は孤独に苛まれる寂しがり屋だったというバックグラウンドは、本人から少しずつでも聞き出そうと思った。
でもそれはまだいい。
今は、改めて彼女に思いを伝えたかった。
「また何度でも、こんな風に遊ぼう。たくさんの思い出を作ろう。だから――寂しくなんかないよ。私は、これからずっと一緒にいるから」
「本当に?」
縋るような瞳を潤ませる。
切り揃えられた前髪を優しく払って、その上にそっと口づけを落とした。
そして目を合わせずに、今度は私の方から触れる程度の抱擁で、問いに答えた。
「うん。約束だよ」
――すっかり空が暗くなって、にわかに駅前の往来が賑わいだす頃、私たちはようやく抱擁を解いて、手を繋いで歩き出した。
乗り換え駅までのロングシート、お互いに肩を寄せ合って、言葉もなく二人の体温を感じ合う時間が幸せで、名残惜しくて。
乗り換えの改札を出たところで、どちらからともなく、今日何度目になるかも分からないハグをした。
「またね」
そう短く告げた時に見えた、のぞみの泣きそうな顔に胸をちくっと刺された気分になる。
でも、私たちは家に帰って、現実の生活へと戻っていかなくてはならない。
大丈夫だよ。これは夢じゃない。
私たちはいつでも会うことができて、何度でもこうやって抱きしめ合うことができるはずだから。
家へと向かう私鉄線に乗り込んで、ひとりになった時間がものすごく久しぶりに感じられて、でも全身に陽だまりみたいなぽかぽかが残っていて、寂しいような温かいような、不思議な気持ちに包まれていた。
(……あっ、取られた本返してもらうの忘れてた)
そこでようやっと、度重なる抱擁で熱に浮かされた私が現実に帰って来たみたいで、各駅停車で外の風が吹き込むたび、ちょっとずつ思考が冷却されていくみたいだった。
まあ、本のことはいいや。
次に会う時の口実にもなるし。
お互いにあれだけの感情を交換し合って、今更会う口実なんて必要もない癖に、照れ隠しにそんなことを思ってみせて、思わずにやける表情を周囲から隠すのに俯いた。
どうせ読書なんかでこの胸の高鳴りが収まる訳はないけれど、今は開く本もない。
本の代わりに、買ったばかりの四葉のクローバーを取り出して、まじまじと見つめながら今日のことをリフレインしてみた。
夢のような幸せと、電車が揺れるたび着慣れないロングスカートがひらひらと揺れて思い出させられる現実が交互にやってきて、夢ではなく現実であったことだと、じわじわと噛み締める。
家の最寄り駅に着く一つ手前で、末っ子の若葉がメッセージを送ってきた。
『今日はましろちゃんが大好きなグラタンだよ!』
お母さん特製のグラタンが、小さい頃から大好きだった。
私の特別な日にはいつも、お母さんがお肉と野菜のたっぷり入ったグラタンを作ってくれて、家族みんなで騒がしい食卓を囲む。
お母さんが今日のことを知っているはずがないから、これは偶然のはずなのだけれど、なんだか嬉しいことが立て続けに起こる今日が少し怖くも感じられた。
どこかで皺寄せがこなければよいのだけれど。
友達の少ない私にとって、人との関係の大半は両親や妹とのものだった。
だから私は両親や妹たちのことは好き。
もしその関係のレパートリーに、のぞみと過ごす時間が加わって増えてゆくのなら、この夢見心地もいつか当たり前の日常へと昇華するのだろうか?
休日に外に出て誰かと一日を過ごすなんて本当に初めてだったから、慣れないことをした疲れがどっと出てお腹が鳴った。
私は大好物のグラタンの温かさを想像して、今日は最後までなんて幸せな日なんだろうと、感傷に浸った。
私鉄線が最寄駅についてやっと、今日いちにちが終わりを告げた。
夜に吹く風が、前より暖かくなったような気がする。
新緑の季節だ。




