彼氏
「なあ、落ち着けよ」
あの言葉を、なんで言ってしまったんだろう。
自分でも分かってる。
一番、言ってはいけない言葉だったのに。
テーブルの上のコーヒーカップが二つ。
彼女のほうには砂糖が二つ。
いつもと同じ。
けれど、今日はその
«いつも»がどこか遠かった。
「彼女とは、ただの――」
口にした瞬間、彼女の目が静かに冷えた。
あの目を、俺は一生忘れられないと思う。
怒鳴られるほうがまだよかった。
泣いてくれたら、許された気になれた。
でも、彼女はただ黙って俺を見ていた。
まるで、俺の中の“愛”が空っぽだと見抜いているみたいに。
「人を好きになるって、そんなに軽いこと?」
喉の奥が焼けた。
違う、軽くなんてなかった。
ただ、俺は臆病だったんだ。
誰かに深く踏み込まれるのが、怖かった。
だから別の誰かで埋めた。
彼女じゃなく、自分の弱さを。
「奈落の底……」
その言葉で、胸が潰れた。
俺が壊したのは、彼女じゃなかった。
信じてくれた“彼女の真心”だった。
立ち上がる彼女の背中。
椅子の脚が擦れる音が、やけに大きく響いた。
その音のあと、俺の世界は静かになった。
「もう、名前を呼ばないで」
その一言で、息が止まった。
呼吸の仕方を忘れた。
彼女の名前は、俺が生きる言葉そのものだったのに。
ドアが閉まる音。
残されたカップの中のコーヒーが、まだ温かかった。
それを見て、笑ってしまった。
彼女は戻らないのか……?
でも、最後に笑ったのは、きっと彼女だった。
俺が怖くて言えなかった
「好きだ」を、
彼女は怒りの中でやっと言ってくれたんだ。
「もう、名前を呼ばないで」って。
その言葉の中に、
俺への愛の残り火が確かに見えたから。
きっといつか俺の元に戻ってくる。
そうだきっと




