彼女
「なあ、落ち着けよ」
落ち着け?
ねえ、どうして裏切った側が、落ち着けなんて言うの?
テーブルの上のコーヒーカップが、まだ湯気を立てていた。
あなたがいつもブラック、私は砂糖を二つ。
同じように頼んだはずなのに、味はまるで違った。
もう、何を飲んでも苦い。
「彼女とは、ただの…」
その言葉の続きを、私は聞かなかった。
«ただの»がつく言い訳で、愛を守れると思っているなら、それはもう終わってる。
私はあなたの顔を見た。
あなたは少しだけ目を逸らした。
その一瞬で、全てが冷めた。
「ねえ、あんたさ」
声が自分のものじゃないみたいだった。
「人を好きになるって、そんなに軽いこと?」
あなたは沈黙した。
私の怒りが、テーブル越しに伝わったのだろう。
でもそれは、叫ぶような怒りじゃない。
静かで、深くて、もう戻れない種類の怒り。
「嘘を平気な顔で私に投げたあの日のあなたが私を奈落の底に落としたんだよ」
カップの中のコーヒーが、波打っている。
私の手が震えていた。
でも、その震えは悲しみじゃない。
やっと怒ることを、思い出しただけ。
「あなたのために我慢してきた全部を、今日でやめる」
覚悟を決めた私はこれ以上ないくらいの笑顔を向けてやる。
立ち上がると、椅子の脚が床を擦った音がした。
その音が、まるで過去を断ち切るナイフみたいに響いた。
「もう、名前を呼ばないで。
私の中のあなたは、もう死んだの」
外に出ると、風が冷たかった。
でも、妙に息がしやすかった。
夜空の下で、私はようやく笑えた。
怒りが、私を壊すんじゃなく、
私を自由にしたのだと気づいたから。




