3. 雪の中に咲くクロッカス
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華麗な調度、きらびやかな装飾、燭台に煌めく金糸銀糸の刺繍。
ヴァロア侯爵家の結婚式は、王都の噂に違わぬ絢爛豪華なものであった。
高く掲げられたシャンデリアの光が天井のフレスコ画を照らし、招待された貴族たちは皆、笑顔を浮かべていた。
イヴリンはその中央、純白のドレスをまとい、王冠のようなティアラを戴いている。
その姿はまるで、童話の姫が現実に舞い降りたかのようだった。
だが、その光の陰にひっそりと立つひとりの給仕――レティシアの心には、誰にも届かぬため息が宿っていた。
(こんなはずじゃ、なかったのに……)
彼女は銀の盆を両手で支えながら、視線をそっと天蓋の装飾へ向けた。
黄金の糸が贅沢に使われ、花嫁の座す椅子は紅玉と真珠で飾られている。
(私が助言をした時、ヴァロア家の財政は決して豊かではなかったわ。少しずつ、税を調整し、無駄を削り、やっと均衡を取り戻したはずなのに――)
それなのに今、目の前にあるのは、まるで王族の婚儀と見紛うような浪費。
ひとつひとつの装飾が、彼女の胸に棘のように突き刺さる。
(この式のために、どれだけの無理を重ねたのでしょう。か……)
ほんの少し前までは、未来の夫として文を交わしていた男の隣に、今、妹が立っている。
その妹は、微笑みながら群衆に手を振り、誰もが称賛の言葉を送っている。
それを前にして、レティシアはただ静かに盆を持ち、名もなき使用人として振る舞うしかなかった。
「お前が顔を出せるわけがないだろう。ただし――飯炊き女としてなら許可する」
そう言ったときの、父の蔑んだ表情が脳裏にちらついた。
だが、レティシアはその言葉にも、涙を流さなかった。
表面ばかりを飾り、真の価値を知らぬ妹。
それでも――それでも、彼女はもう恨むことをしない。
ただ、冷静に、静かに思うだけだった。
(薔薇のような華やかさはないけれど、私は……雪の中でも咲く花でありたい)
レティシアは背筋を正し、目の前の来客へと丁寧にワインを注いだ。
その動作のひとつひとつに、落ち着いた気品と揺るぎない芯が宿っていた。
やがて、その所作に気づいた一人の男の目が、彼女に向けられることになる――。
◇◇◇
祝宴の只中、会場でもひときわ目を引く長身の男がいた。
北部に領地を預かるルミエール辺境伯――その名は王都にも知れ渡っていたが、実際に彼の姿を見た者はそう多くはない。
彼は、まるで氷の彫像のようだった。
白い肌は雪のように滑らかで、つややかな黒髪を撫でつけている。
そして何より、人目を引くのは、氷の結晶を思わせる怜悧な水色の瞳だった。
「……あの娘は誰だ?」
ワイングラスを持つ指先が、給仕の少女――レティシアを示す。
声をかけられた侍従は、そっと耳打ちした。
「レルモン伯爵家が長女、レティシア様かと。以前はこの家に嫁がれる予定でしたが、醜聞がございまして……」
公爵はグラスを唇に運ぶのも忘れ、レティシアを見つめ続けた。
彼の顔に浮かぶ感情は、誰にも読み取れなかった。
ただ、その目だけが、じっと――レティシアという存在を見定めていた。
彼の中には、かつて耳にした噂があった。
ヴァロア侯爵家の財政を陰で立て直した聡明な令嬢。
その名はレティシア。
そして今、その名と結びついた少女が、下働きの給仕として立っている。
(この娘が……)
彼は心の中で呟いた。
◇◇◇
やがて祝宴もたけなわとなり、楽団の奏でる弦の調べと上流貴族たちの笑い声が交差する中、レティシアは裏口からひっそりと退出しようとした。
「……レティシア様とお呼びしても、よろしいでしょうか?」
低く、落ち着いた声。
驚いて振り返った彼女の目に映ったのは、ひときわ背の高い男。
白い肌、艶やかな黒髪、そして氷を湛えたような水色の瞳――
北部を治めるルミエール辺境伯、テオドール・ド・ルミエールだった。
「閣下……どうして、私に?」
伏し目がちに問いかけるレティシアに、彼はわずかに眉を動かし、静かに答える。
「私の領地にも、あなたのことは噂として届いておりました。侯爵家の財政を陰で立て直した才気ある令嬢。そして、婚約を破棄された不名誉な女性として」
その言葉に、レティシアの瞳が揺れる。
「ですが、今日のあなたは――どの噂とも違いました。給仕として立っていながらも、所作の一つひとつが、内に品と芯を宿していた。私はそれを、見逃しませんでした」
言葉を失ったレティシアに、彼は歩み寄る。
その手には、紫の小さな花が握られていた。
「これは……クロッカス?」
「この時期には珍しく、厨房の裏手に咲いていたのを、偶然見つけました。雪の下から咲く花だそうですね。寒さを耐え抜いた者にしか咲けぬ、強い花です」
レティシアは目を見開いた。
「あなたが、何者であるのか。その答えを、私は急ぎません。ですが、知りたいと思っています」
そう言って、テオドールは花を差し出す。
「この先、もしも私の言葉に耳を傾けてくださる日が来たなら。そのとき、もう一度名を呼ばせていただけませんか?」
沈黙の中、レティシアは小さく息をのんだ。
凍てついた心の奥に、ほんのわずかに光が差し込んだような気がした。
◇◇◇
ヴァロア侯爵家の新たな侯爵夫人となったイヴリンは、望んでいた地位と称賛を手に入れた。
だが、それは彼女にとって決して「目的の達成」ではなく、「始まりの合図」に過ぎなかった。
「ドレスは新しくなければ着る意味がないわ」
「このダイヤの輝き、王妃様に負けていないでしょう?」
「私のお茶会に呼ばれないなんて、あの伯爵夫人も地に堕ちたものね」
耳を澄ます間もないほど、イヴリンは絶え間なく贅沢と見栄に明け暮れていた。
王都から職人を呼び寄せ、鏡張りの舞踏会場を作らせ、使用人は倍増、花壇の配置にまで自ら口を出した。
ジェラルドは最初のうちこそ得意気だったが、日ごとにその額に皺を刻んでいった。
贅沢は屋敷内に留まらず、やがて領地の財政を圧迫しはじめたからである。
屋敷の外――寒風が吹きすさぶヴァロア侯爵領では、民が静かに怒りの色を濃くしていた。
「税がまた上がったそうだ」
「この冬も、子どもにまともな毛布を買ってやれない」
「侯爵家では金のカトラリーで食事をしているとか……」
「聞いたか? 婦人は日に五度の着替えをするらしい」
噂はやがて、ため息へ。ため息はやがて、呻きへ。
そしてそれは、怒りとなって蓄積されていった。
村の寄合では、粗末なランプの明かりの下、老いた男が呟いた。
「昔は、こんなに苦しくはなかった。いったい、どうしてしまったんだ……」
「きっと、あの新しい奥方さまが無駄遣いしてるんだよ」
「侯爵さまも、すっかり尻に敷かれているらしい」
イヴリンは、民の声など知る由もなかった。
彼女のもとには日々、王都のデザイナーや宝石商、仕立て屋がひっきりなしに訪れ、最新のドレスや宝飾品を届けては「どれがお気に召しますか」と問いかけた。
侯爵家の執事たちは取り次ぎに奔走し、侍女たちは彼女の身支度と宴の段取りにかかりきりだった。
美と贅沢を謳歌するその日常の中で、民の暮らしがいかに逼迫しているかなど、考える暇さえ与えられていなかったのである。
「私がいるだけで、パーティーが華やぐのよ。美しいものがあれば、人は満たされる。そうでしょう?」
その笑顔は、どこまでも無邪気で――どこまでも残酷だった。
やがて、耐えきれなくなった民が、怒りを声に変える夜が来る。
イヴリンは知らなかった。すでに民の手には、石が握られつつあることを。
◇◇◇
ヴァロア侯爵家の門前は、ざわめきに満ちていた。
朝もやの中、農具や松明を手にした群衆が次々に集まり、無数の足音と押し殺した怒声が広場を揺らしていた。
晩秋の空の下、貧しい身なりの男女が身を寄せ合いながら叫ぶ。
「パンがないのに、奥方はまたドレスを新調したそうだ!」
「舞踏会?この飢えの中でか?」
「もう我慢ならん! 子どもたちが死んでいくのを見過ごせるか!」
誰かが石を投げた。門に当たり、乾いた音が響いた。
それを皮切りに、怒号が波のように広がる。
「イヴリンを出せ!」
「イヴリンを――斬首しろ!」
その叫びは一人の激情ではなかった。
貧困にあえぎ、裏切られ、踏みにじられてきた者たちの、悲鳴に近い総意だった。
中庭の奥、イヴリンは扉の向こうの怒声に顔を引きつらせていた。
いつものように鏡の前で髪を結っていたが、召使の顔が蒼ざめているのに気づいた。
「……何よ、その顔。まさか、門の外で騒ぎでも起きてるの?」
「お、お嬢様、いえ……あの、その……」
「黙ってないで答えなさい!」
その瞬間、遠くから聞こえた鋭い声が、扉の外から確かに響いた。
「イヴリンを、斬首しろ!」
手元の扇が落ちた。
鏡の中の自分の顔が、どこか見知らぬ他人のように感じられた。
彼女はようやく、民から愛されていないことを悟った。
「ジェラルド様……ジェラルド様は、私を守ってくれるわよね……?」
誰にともなく言い聞かせるようなその声に、召使は言葉を失っていた。
一方、侯爵家の執務室では、ジェラルドが蒼白な顔で文机にすがっていた。
外の怒声はもはや手の施しようがない。
「伯爵に……援軍を……」
震える手で羽根ペンを取り、助命嘆願の書状を書こうとした瞬間、扉が乱暴に開かれた。
「閣下!王都より勅命が!」
ジェラルドは顔を上げ、紙を受け取った。
そこに記された文字に、彼の目が見開かれる。
――『ヴァロア侯爵夫人イヴリンを、極北の修道院へ幽閉せよ』
一瞬の沈黙のあと、彼は膝から崩れ落ちた。
◇◇◇
イヴリンは城の裏口から、厳重に覆面されたまま馬車に押し込まれた。
贅沢な暮らしは半年しかもたなかった。
揺れる馬車の中、イヴリンは凍える指でドレスのレースを握りしめ、つぶやいた。
「どうして……どうして私が……私は、かわいくて、愛されたかっただけなのに……」
扉の外は雪が舞っていた。
その雪は、ただ冷たく、残酷なまでに静かだった。
イヴリンは叫んだ。
「いやよ、こんなところ、行きたくない! 私は侯爵夫人よ! 婚約破棄された姉の代わりに――」
だが誰も、彼女の声に耳を傾けなかった。
荒れ狂う民の罵声と、鉄の馬車の扉が閉まる重い音に、その声はかき消された。
馬車が動き出すと、イヴリンは格子窓から城門の方を見返した。
そこには、かつて自分が見下ろしていたはずの領民たちが、松明を振りかざし、
石を投げ、怒声を浴びせかけている。
イヴリンの頬を、一筋の涙が伝った。
「なぜ……どうして、こんなことに……」
誰に向けた言葉かもわからない呟きは、馬車の揺れの中で消えていく。
彼女は華やかなドレスの裾を握りしめた。
金糸で飾られた布が、もはや彼女を守る鎧ではないことを知っていた。
雪深き北の修道院――そこが、彼女の「行き先」だった。
◇◇◇
イヴリンは石造りの床に膝をつき、擦り切れた毛布にくるまりながら、何度目か分からぬ夜を迎えていた。かつては絹と香水に包まれて眠った身体が、今や粗末な寝台にすら背を痛め、冷え切った空気が骨の髄まで染み込んでくる。
「……こんなはずじゃなかったのに」
ぽつりと漏れた声は、誰にも届かない。
壁に埋め込まれた小さな窓から、雪明かりが淡く差し込む。
外界の音は一切届かず、ただ、時折聞こえる修道女たちの祈りの声が、どこか遠くから響いてくるだけだった。
「お姉さま……」
ふと、レティシアの静かな横顔が脳裏に浮かんだ。
かつては姉を妬み、軽蔑すらしていた。
慎ましさを「地味」と、賢さを「つまらなさ」と切り捨てた自分の、なんと浅はかだったことか。
民がどれだけの苦しみに耐えていたかも知らず、自らの欲望に目を曇らせた過去が、今さらになって痛みを伴って蘇ってくる。
「かわいいだけじゃ……だめだったのね……」
雪の舞う窓の外、季節はすでに春の兆しを告げようとしていた。
◇◇◇
静寂と厳しさを湛えた山々のふもとに広がるルミエール辺境伯の城では、ささやかだが心温まる祝宴が開かれていた。
白銀に包まれていた大地がようやくその姿を現し始め、庭先には薄紫のクロッカスが顔を出していた。
冬を越えた生命の象徴であり、この地方に春の訪れを告げる花だ。
城の大広間には、寒冷地ゆえに過剰な装飾はなく、質素な中に、温もりある布と花が飾られていた。
その中央、誓いの場に立っていたのは、レティシア・ド・エルモアと、テオドール・ド・ルミエール。
レティシアの衣装は王都の煌びやかなものとは異なり、厚手の白銀のドレス。
肩には冬毛のショール、髪には小さな花の冠。
凛とした気品と優美さが、彼女本来の内面から溢れていた。
一方、テオドールもまた深い紺の礼服に身を包み、彼女の手を取ると、変わらぬ落ち着いた声音で静かに言った。
「君を妻として迎えられることを、心から誇りに思う」
レティシアは小さくうなずいた。
瞳には涙ではなく、確かな決意と微笑みがあった。
テオドールがレティシアにサファイアの指輪をはめると、群衆の拍手とともに、ふたりは静かに口づけを交わした。
城の上空を風が渡り、雪解けの地に咲いたクロッカスの花びらが風にそよいでいた。
◇◇◇
祝宴の喧噪がやや遠のいたころ、レティシアはひとりテラスに立ち、冷たい夜風にそっと目を細めた。
テオドールが静かに隣に並ぶ。
「君はまだ、あの妹君のことを案じているのだな」
「ええ……今も、少しだけ」
レティシアは穏やかに続ける。
「私たちは別々の道を歩くことになりました。でも――あの子が、いつか心から誰かを思い、心を通わせる日が来たなら……」
「そのときは、君が願ったような人になっているだろう」
テオドールの声は落ち着いていて、しかし確かな響きを持っていた。
レティシアはふっと目を伏せ、それから彼の肩にもたれかかる。
ふたりの背後には、静かな星空がどこまでも広がっていた。
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