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3. 雪の中に咲くクロッカス

6/6 登場人物イメージを追加しました

華麗な調度、きらびやかな装飾、燭台に煌めく金糸銀糸の刺繍。

ヴァロア侯爵家の結婚式は、王都の噂に違わぬ絢爛豪華なものであった。


高く掲げられたシャンデリアの光が天井のフレスコ画を照らし、招待された貴族たちは皆、笑顔を浮かべていた。

イヴリンはその中央、純白のドレスをまとい、王冠のようなティアラを戴いている。

その姿はまるで、童話の姫が現実に舞い降りたかのようだった。


だが、その光の陰にひっそりと立つひとりの給仕――レティシアの心には、誰にも届かぬため息が宿っていた。


(こんなはずじゃ、なかったのに……)


彼女は銀の盆を両手で支えながら、視線をそっと天蓋の装飾へ向けた。

黄金の糸が贅沢に使われ、花嫁の座す椅子は紅玉と真珠で飾られている。


(私が助言をした時、ヴァロア家の財政は決して豊かではなかったわ。少しずつ、税を調整し、無駄を削り、やっと均衡を取り戻したはずなのに――)


それなのに今、目の前にあるのは、まるで王族の婚儀と見紛うような浪費。

ひとつひとつの装飾が、彼女の胸に棘のように突き刺さる。


(この式のために、どれだけの無理を重ねたのでしょう。か……)


ほんの少し前までは、未来の夫として文を交わしていた男の隣に、今、妹が立っている。

その妹は、微笑みながら群衆に手を振り、誰もが称賛の言葉を送っている。

それを前にして、レティシアはただ静かに盆を持ち、名もなき使用人として振る舞うしかなかった。


「お前が顔を出せるわけがないだろう。ただし――飯炊き女としてなら許可する」


そう言ったときの、父の蔑んだ表情が脳裏にちらついた。

だが、レティシアはその言葉にも、涙を流さなかった。


表面ばかりを飾り、真の価値を知らぬ妹。

それでも――それでも、彼女はもう恨むことをしない。

ただ、冷静に、静かに思うだけだった。


(薔薇のような華やかさはないけれど、私は……雪の中でも咲く花でありたい)


レティシアは背筋を正し、目の前の来客へと丁寧にワインを注いだ。


その動作のひとつひとつに、落ち着いた気品と揺るぎない芯が宿っていた。

やがて、その所作に気づいた一人の男の目が、彼女に向けられることになる――。


◇◇◇


祝宴の只中、会場でもひときわ目を引く長身の男がいた。

北部に領地を預かるルミエール辺境伯――その名は王都にも知れ渡っていたが、実際に彼の姿を見た者はそう多くはない。


彼は、まるで氷の彫像のようだった。

白い肌は雪のように滑らかで、つややかな黒髪を撫でつけている。

そして何より、人目を引くのは、氷の結晶を思わせる怜悧な水色の瞳だった。


「……あの娘は誰だ?」


ワイングラスを持つ指先が、給仕の少女――レティシアを示す。

声をかけられた侍従は、そっと耳打ちした。


「レルモン伯爵家が長女、レティシア様かと。以前はこの家に嫁がれる予定でしたが、醜聞がございまして……」


公爵はグラスを唇に運ぶのも忘れ、レティシアを見つめ続けた。

彼の顔に浮かぶ感情は、誰にも読み取れなかった。

ただ、その目だけが、じっと――レティシアという存在を見定めていた。


彼の中には、かつて耳にした噂があった。

ヴァロア侯爵家の財政を陰で立て直した聡明な令嬢。

その名はレティシア。


そして今、その名と結びついた少女が、下働きの給仕として立っている。


(この娘が……)


彼は心の中で呟いた。


◇◇◇


やがて祝宴もたけなわとなり、楽団の奏でる弦の調べと上流貴族たちの笑い声が交差する中、レティシアは裏口からひっそりと退出しようとした。


「……レティシア様とお呼びしても、よろしいでしょうか?」


低く、落ち着いた声。

驚いて振り返った彼女の目に映ったのは、ひときわ背の高い男。

白い肌、艶やかな黒髪、そして氷を湛えたような水色の瞳――

北部を治めるルミエール辺境伯、テオドール・ド・ルミエールだった。


「閣下……どうして、私に?」


伏し目がちに問いかけるレティシアに、彼はわずかに眉を動かし、静かに答える。


「私の領地にも、あなたのことは噂として届いておりました。侯爵家の財政を陰で立て直した才気ある令嬢。そして、婚約を破棄された不名誉な女性として」


その言葉に、レティシアの瞳が揺れる。


「ですが、今日のあなたは――どの噂とも違いました。給仕として立っていながらも、所作の一つひとつが、内に品と芯を宿していた。私はそれを、見逃しませんでした」


言葉を失ったレティシアに、彼は歩み寄る。

その手には、紫の小さな花が握られていた。


「これは……クロッカス?」


「この時期には珍しく、厨房の裏手に咲いていたのを、偶然見つけました。雪の下から咲く花だそうですね。寒さを耐え抜いた者にしか咲けぬ、強い花です」


レティシアは目を見開いた。

「あなたが、何者であるのか。その答えを、私は急ぎません。ですが、知りたいと思っています」


そう言って、テオドールは花を差し出す。


「この先、もしも私の言葉に耳を傾けてくださる日が来たなら。そのとき、もう一度名を呼ばせていただけませんか?」


沈黙の中、レティシアは小さく息をのんだ。

凍てついた心の奥に、ほんのわずかに光が差し込んだような気がした。


◇◇◇


ヴァロア侯爵家の新たな侯爵夫人となったイヴリンは、望んでいた地位と称賛を手に入れた。

だが、それは彼女にとって決して「目的の達成」ではなく、「始まりの合図」に過ぎなかった。


「ドレスは新しくなければ着る意味がないわ」

「このダイヤの輝き、王妃様に負けていないでしょう?」

「私のお茶会に呼ばれないなんて、あの伯爵夫人も地に堕ちたものね」


耳を澄ます間もないほど、イヴリンは絶え間なく贅沢と見栄に明け暮れていた。

王都から職人を呼び寄せ、鏡張りの舞踏会場を作らせ、使用人は倍増、花壇の配置にまで自ら口を出した。


ジェラルドは最初のうちこそ得意気だったが、日ごとにその額に皺を刻んでいった。

贅沢は屋敷内に留まらず、やがて領地の財政を圧迫しはじめたからである。

屋敷の外――寒風が吹きすさぶヴァロア侯爵領では、民が静かに怒りの色を濃くしていた。


「税がまた上がったそうだ」

「この冬も、子どもにまともな毛布を買ってやれない」

「侯爵家では金のカトラリーで食事をしているとか……」

「聞いたか? 婦人は日に五度の着替えをするらしい」


噂はやがて、ため息へ。ため息はやがて、呻きへ。

そしてそれは、怒りとなって蓄積されていった。


村の寄合では、粗末なランプの明かりの下、老いた男が呟いた。


「昔は、こんなに苦しくはなかった。いったい、どうしてしまったんだ……」

「きっと、あの新しい奥方さまが無駄遣いしてるんだよ」

「侯爵さまも、すっかり尻に敷かれているらしい」


イヴリンは、民の声など知る由もなかった。

彼女のもとには日々、王都のデザイナーや宝石商、仕立て屋がひっきりなしに訪れ、最新のドレスや宝飾品を届けては「どれがお気に召しますか」と問いかけた。

侯爵家の執事たちは取り次ぎに奔走し、侍女たちは彼女の身支度と宴の段取りにかかりきりだった。

美と贅沢を謳歌するその日常の中で、民の暮らしがいかに逼迫しているかなど、考える暇さえ与えられていなかったのである。


「私がいるだけで、パーティーが華やぐのよ。美しいものがあれば、人は満たされる。そうでしょう?」


その笑顔は、どこまでも無邪気で――どこまでも残酷だった。

やがて、耐えきれなくなった民が、怒りを声に変える夜が来る。

イヴリンは知らなかった。すでに民の手には、石が握られつつあることを。


◇◇◇


ヴァロア侯爵家の門前は、ざわめきに満ちていた。

朝もやの中、農具や松明を手にした群衆が次々に集まり、無数の足音と押し殺した怒声が広場を揺らしていた。

晩秋の空の下、貧しい身なりの男女が身を寄せ合いながら叫ぶ。


「パンがないのに、奥方はまたドレスを新調したそうだ!」

「舞踏会?この飢えの中でか?」

「もう我慢ならん! 子どもたちが死んでいくのを見過ごせるか!」


誰かが石を投げた。門に当たり、乾いた音が響いた。

それを皮切りに、怒号が波のように広がる。


「イヴリンを出せ!」

「イヴリンを――斬首しろ!」


その叫びは一人の激情ではなかった。

貧困にあえぎ、裏切られ、踏みにじられてきた者たちの、悲鳴に近い総意だった。


中庭の奥、イヴリンは扉の向こうの怒声に顔を引きつらせていた。

いつものように鏡の前で髪を結っていたが、召使の顔が蒼ざめているのに気づいた。


「……何よ、その顔。まさか、門の外で騒ぎでも起きてるの?」

「お、お嬢様、いえ……あの、その……」

「黙ってないで答えなさい!」


その瞬間、遠くから聞こえた鋭い声が、扉の外から確かに響いた。


「イヴリンを、斬首しろ!」


手元の扇が落ちた。

鏡の中の自分の顔が、どこか見知らぬ他人のように感じられた。

彼女はようやく、民から愛されていないことを悟った。


「ジェラルド様……ジェラルド様は、私を守ってくれるわよね……?」


誰にともなく言い聞かせるようなその声に、召使は言葉を失っていた。


一方、侯爵家の執務室では、ジェラルドが蒼白な顔で文机にすがっていた。

外の怒声はもはや手の施しようがない。


「伯爵に……援軍を……」


震える手で羽根ペンを取り、助命嘆願の書状を書こうとした瞬間、扉が乱暴に開かれた。


「閣下!王都より勅命が!」


ジェラルドは顔を上げ、紙を受け取った。

そこに記された文字に、彼の目が見開かれる。


――『ヴァロア侯爵夫人イヴリンを、極北の修道院へ幽閉せよ』


一瞬の沈黙のあと、彼は膝から崩れ落ちた。


◇◇◇


イヴリンは城の裏口から、厳重に覆面されたまま馬車に押し込まれた。

贅沢な暮らしは半年しかもたなかった。

揺れる馬車の中、イヴリンは凍える指でドレスのレースを握りしめ、つぶやいた。


「どうして……どうして私が……私は、かわいくて、愛されたかっただけなのに……」


扉の外は雪が舞っていた。

その雪は、ただ冷たく、残酷なまでに静かだった。

イヴリンは叫んだ。


「いやよ、こんなところ、行きたくない! 私は侯爵夫人よ! 婚約破棄された姉の代わりに――」


だが誰も、彼女の声に耳を傾けなかった。

荒れ狂う民の罵声と、鉄の馬車の扉が閉まる重い音に、その声はかき消された。


馬車が動き出すと、イヴリンは格子窓から城門の方を見返した。

そこには、かつて自分が見下ろしていたはずの領民たちが、松明を振りかざし、

石を投げ、怒声を浴びせかけている。

イヴリンの頬を、一筋の涙が伝った。


「なぜ……どうして、こんなことに……」


誰に向けた言葉かもわからない呟きは、馬車の揺れの中で消えていく。

彼女は華やかなドレスの裾を握りしめた。

金糸で飾られた布が、もはや彼女を守る鎧ではないことを知っていた。


雪深き北の修道院――そこが、彼女の「行き先」だった。


◇◇◇


イヴリンは石造りの床に膝をつき、擦り切れた毛布にくるまりながら、何度目か分からぬ夜を迎えていた。かつては絹と香水に包まれて眠った身体が、今や粗末な寝台にすら背を痛め、冷え切った空気が骨の髄まで染み込んでくる。


「……こんなはずじゃなかったのに」


ぽつりと漏れた声は、誰にも届かない。

壁に埋め込まれた小さな窓から、雪明かりが淡く差し込む。

外界の音は一切届かず、ただ、時折聞こえる修道女たちの祈りの声が、どこか遠くから響いてくるだけだった。


「お姉さま……」


ふと、レティシアの静かな横顔が脳裏に浮かんだ。

かつては姉を妬み、軽蔑すらしていた。

慎ましさを「地味」と、賢さを「つまらなさ」と切り捨てた自分の、なんと浅はかだったことか。

民がどれだけの苦しみに耐えていたかも知らず、自らの欲望に目を曇らせた過去が、今さらになって痛みを伴って蘇ってくる。


「かわいいだけじゃ……だめだったのね……」


雪の舞う窓の外、季節はすでに春の兆しを告げようとしていた。


◇◇◇


静寂と厳しさを湛えた山々のふもとに広がるルミエール辺境伯の城では、ささやかだが心温まる祝宴が開かれていた。


白銀に包まれていた大地がようやくその姿を現し始め、庭先には薄紫のクロッカスが顔を出していた。

冬を越えた生命の象徴であり、この地方に春の訪れを告げる花だ。


城の大広間には、寒冷地ゆえに過剰な装飾はなく、質素な中に、温もりある布と花が飾られていた。

その中央、誓いの場に立っていたのは、レティシア・ド・エルモアと、テオドール・ド・ルミエール。


レティシアの衣装は王都の煌びやかなものとは異なり、厚手の白銀のドレス。

肩には冬毛のショール、髪には小さな花の冠。

凛とした気品と優美さが、彼女本来の内面から溢れていた。

一方、テオドールもまた深い紺の礼服に身を包み、彼女の手を取ると、変わらぬ落ち着いた声音で静かに言った。


「君を妻として迎えられることを、心から誇りに思う」


レティシアは小さくうなずいた。

瞳には涙ではなく、確かな決意と微笑みがあった。


テオドールがレティシアにサファイアの指輪をはめると、群衆の拍手とともに、ふたりは静かに口づけを交わした。

城の上空を風が渡り、雪解けの地に咲いたクロッカスの花びらが風にそよいでいた。


◇◇◇


祝宴の喧噪がやや遠のいたころ、レティシアはひとりテラスに立ち、冷たい夜風にそっと目を細めた。

テオドールが静かに隣に並ぶ。


「君はまだ、あの妹君のことを案じているのだな」

「ええ……今も、少しだけ」


レティシアは穏やかに続ける。


「私たちは別々の道を歩くことになりました。でも――あの子が、いつか心から誰かを思い、心を通わせる日が来たなら……」

「そのときは、君が願ったような人になっているだろう」


テオドールの声は落ち着いていて、しかし確かな響きを持っていた。

レティシアはふっと目を伏せ、それから彼の肩にもたれかかる。

ふたりの背後には、静かな星空がどこまでも広がっていた。


お読みいただきありがとうございます!

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連載中の「トワイライトの瞳」もぜひよろしくお願いいたします!

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― 新着の感想 ―
イブリンは修道院に幽閉されるんだから心を通わせるような相手と出会うのは難しいだろうし、何よりイブリンの贅沢のせいで増税されて領民が貧困化して子供が何人も無くなってるのだから、今後幸せになるのは無しだな…
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