1. 慎ましい姉と愛らしい妹
北部山脈の裾に沿って走る街道を三日揺られると、谷を抱く霧が白い城壁のように立ちはだかる。
その霧を抜ける瞬間、旅人は必ず息を呑む。
切り立つ断崖の上に、白磁を思わせる館が浮かんでいるからだ。
レルモン伯爵家――王都の社交録では中位に名を連ねる古い家だが、冬の気配をまとったその館は、地図の上の肩書きだけでは測れない静謐と緊張を湛えている。
晩秋の昼、館の居間には薪の甘い匂いが漂い、本のページをめくる柔らかな音が響く。
長卓の一端で読書にいそしむのは16歳の長女――レティシア・ド・レルモンだ。
背丈はもうすぐ父に届くほどで、華奢な肢体をいっそう細長く見せる。
こげ茶の髪はまっすぐ肩下まで垂らしただけで、顔も化粧っ気がない。
灰が混じった淡い青の瞳は、無意識に人を遠ざける冷たさを帯びている。
社交的とは言えない彼女にとって、ドラゴンと吟遊詩人と姫君、市井の人々の笑い話、遠い砂漠の景色や食べ物――本は自分を無限の世界に連れ出してくれる親友だった。
一方で、同じ長卓の向かいからは、鈴を転がすような笑い声が響く。
14歳の妹イヴリンが、母ベルナデッタの膝に頬を寄せ、菫の砂糖菓子をつまんで笑うせいだ。
ダークブロンドの巻き毛は光を集め、大きな藍色の瞳は愛嬌に満ちている。
背は姉よりひと回り低く、丸みのある頬や女らしい体つきが、見る人にコケティッシュな印象を与える。
父母は「我が家の薔薇よ」とイヴリンを褒めそやす。
この家では誰もが知っていた。
薔薇に注がれる水は惜しまれず、雑草は放っておかれる、と。
イヴリンの髪を飾るリボンは日々新調され、衣装部屋の引き出しには絹の手袋や香り高い香水の瓶があふれている。
若い侍女たちは彼女の命令ひとつで菓子を買いに走り、父は領庫から金貨を出し、母はその浪費を「愛らしさへの投資」と微笑んで肯定した。
対照的に、レティシアに与えられるものは帳簿とペンくらいのものだ。
背ばかり伸びた娘には、丈の足りないドレスを「みっともないから」と取り替えてもらえたのが数少ない贅沢だった。
だが彼女は不満を口にしない。
嘆く代わりに、イヴリンが欲しがる絹や菓子の額を計算し、どうすれば支払えるか思案する。
浪費は止まらない。
止まらないなら、どうにかして賄うしかない――それが彼女の生存戦略だった。
◇◇◇
七歳。
レティシアの心に最初の亀裂が走った歳だ。
祖母の形見として与えられた豪奢な絵本は、羊皮紙に手彩色で描かれた神話の獅子や星を駆ける天馬が、生き物のように紙面を跳ねていた。
けれどある夜、イヴリンは泣きながら「欲しい」と叫び続け、拒む姉を見て床を転げまわった。
父も母も使用人もおろおろするばかりで、騒ぎは一向に静まらない。
レティシアはとうとう絵本を抱えて寝室へ逃げ込み、扉に鍵を掛けた。
翌朝、暖炉の前に舞っていたのは、挿絵が裂けた紙片だった。
燠火に照らされた破片は鮮やかなまま赤く焦げ、パチパチと短い悲鳴を上げながら黒く縮んでいく。
燃えてゆく絵本を見ながら、レティシアの胸の奥で何かがぷつりと切れた。
以来、彼女は「欲しがられる前に差し出した方がダメージが少ない」と悟った。
妹が望む前に差し出せば、泣き声も紙吹雪も生まれない。
欲望を差し出し、数字で痛みを手当てする――悲しみは静かに凍りつき、氷片のように心の底へ沈んでいった。
そんな姉の努力を、館の誰も深く気に留めてはいない。
むしろ、帳簿を抱える娘を見とがめた父グレゴールは、眉をひそめて小言を放つ。
「レティシア、イヴリンを見習って女らしさを覚えろ。本と数字だけでは男の目など引けんぞ」
「……はい、お父様」
レティシアはただ薄く微笑んで頷いた。
胸の内に冷たい水面が広がるのを感じつつ、もう諦めていた。
◇◇◇
遠く西部――銀山と鍛冶工房を抱えたヴァロワ侯爵家。
嫡男ジェラルドは雪に縁取られた屋敷の執務室で、家令から一枚の報告を受け取った。
「西部税調査官が王都で拾った小噂でございます。昨年、『15歳の若さで領地を立て直した伯爵令嬢がいる』と」
家令は続けて、レルモン家の領収支と娘の働きを要約した。
帳簿を読み慣れないジェラルドは数字を一見して眉をひそめたが、読み上げられる改善案の切れ味に目を見張った。
「15の、しかも女の身で、これほどの計算を?」
呆然と漏らすと、家令は控えめに頷いた。
ジェラルドは窓外の雪雲を見上げる。
剣と軍略で領地を守ってきたが、倉を守る術は家に根付いていない。
民を飢えさせずに雪解けを待つには、勉学に長けた人材が必要だ。
「会ってみよう。私の剣より、その娘のペンの方が領民を救うかもしれん。醜女でなければ結婚でもちらつかせるか」
◇◇◇
山の稜線が雪帽子を被り始めたころ、レルモン館に王都から深緑の封蝋を押した手紙が届いた。
差出人は西部を治めるヴァロワ侯爵家の嫡男ジェラルド。
封を切った伯爵が難しい顔で娘に渡すと、レティシアの指は震える指で手紙を持ち上げる。
〈レルモン伯爵令嬢レティシア殿。貴女の才覚に深く感じ入りました。西部の未来を共に描く道を、どうかお話しする機会を賜りたく存じます〉
父グレゴールは腕を組み、娘の横顔をちらりと見た。
「レティシア、お前に女らしさがあれば話は早いがな」
いつもの嘆き節。
しかし、手紙の真摯で温かな筆跡のせいか、父の嫌味はレティシアの耳をすり抜けた。
◇◇◇
冬至を越えた頃。
山道を登って来た黒馬四頭立ての馬車が霧を割って館に入った。
肩章に銀槌と双狼の紋章を佩いたジェラルドは、金褐色の髪をきらめかせ、真っ直ぐにレティシアへ歩み寄る。
「お足元の悪い中、遠路のご足労、感謝いたします。私はレルモン家が長女レティシアでございます」
凛とした声が冬の空に透き通る。ジェラルドは軽く息を飲み、剣士が王に向ける型どおりの敬礼で応えた。
「ヴァロワ侯爵家嫡男、ジェラルドだ。あなたにぜひ見てもらいたいものがある」
館へ入ると、暖炉の炎がわずかに雪の匂いを溶かす。
玄関ホールを抜けた書斎で、彼は帳簿と地図、鉱山収支の粗い試算表を並べた。
ジェラルドは手袋を外し、霜焼け気味の指で資料を押さえる。
「剣と馬で領地を守って来たが、民の胃袋を満たす術が我が家には不足しているのです」
レティシアは卓の反対側に腰掛け、震えを押し隠すように言った。
「拝見いたします」
数ページめくっただけで、支出欄の重複や輸送費のムダを見つけた。
項目に細い赤線を引き、どの費目を組み替えれば三年で黒字転換できるか、簡潔な列を書き加えた。
「……ここの石材運搬路を山麓へ付け替えれば、雪崩の季節でも迂回できるはずですし、夏の間は水路を利用すれば――」
ジェラルドは言葉を失い、ページと彼女の顔を交互に見つめる。
「見事なものだ……」
低く漏れた驚きに、レティシアの頬がほのかに染まる。
「民の冬を短くできるなら、私の計算など安いものです」
「安くはない。私にはできない」
青年は深く息を吸い、細かく立つ白い息を一歩前へ押し出す。
「あなたのペンは私の剣よりも頼もしい。どうか婚約者となって、力を貸してもらえないか」
唐突な申し出にレティシアは息を詰まらせた。
書斎に、薪がはぜる音だけが長く続いた。
「私はただの伯爵家の娘に過ぎません。それに、このように地味ですし……」
「私は立場より中身を信じたい」
しばしの沈黙を経て、レティシアはペンを置き、椅子から立って小さくうなずく。
「承知しました。ヴァロワ侯爵家と西部の人々のために、私の知恵がお役に立てば光栄です」
その返事を聞いた瞬間、ジェラルドの方から力が抜け、安堵の笑みがこぼれる。
ジェラルドは片膝をついて、懐から小箱を取り出した。
「ぜひこれを、婚約の証に受け取ってほしい」
ぱかりと蓋を開けると、それは美しいルビーの指輪だった。
「我が家に伝わる品だ」
彼女の胸の奥で、かつて絵本を失くした時に開いた穴が、初めて静かに埋まる気がした。
頬が熱を帯びるのは暖炉のせいだけではあるまい。
使用人を呼ぶと、レティシアの手を取ったまま片膝をつくジェラルドの前に、伯爵夫妻が慌ただしく入って来た。
「ほう……若き侯爵殿が自らここまで!」
父グレゴールは頬を上気させ、娘の肩をぐっと押し出す。
「レティシア、返事は済んだのか?」
「ええ──」頬を染めたままのレティシアがうなずくと、父は満足げに両手を打った。
「では祝賀の準備を急がねば。華やかさには欠ける娘だが、今日という日は人生で一度きりだ」
「華がない」という言葉が刺さったが、彼女は黙って受け止めた。
代わりに、母ベルナデッタが心配そうに小声で聞く。
「ヴァロワ家の格式に合わせるには、ドレスも宝飾も新しく要りますわね」
父は即座にかぶりを振る。
「費用の心配などするな。長女が侯爵家に入れるなら安いものだ」
レティシアは指先で指輪の箱をそっと持ち直す。
急な話に、胸に不安が広がったが、ジェラルドはその手を包み込み、静かに口を開く。
「披露の場はこちらで整えます。三月初めに王都の噴水広場近くのヴァロアの屋敷でいかがでしょう。令嬢はご準備を優先なさってください。西へお迎えするのは正式な婚礼の後で構いません」
「承知しました」
伯爵はもう頷くだけでは飽き足らず、招待客の名簿や持参金の額を早口で並べた。
イヴリンが柱の陰から踊り出る。
「お姉さまが結婚?しかもこんな素敵な方と?羨ましいわ!わたくしではダメ?」
ジェラルドは苦笑しながら肩をすくめる。
「これは、そういうわけにはいかないんだよ」
「残念だわ…お姉さま、その指輪とっても綺麗だわ。私にも着けさせてくださらない?」
「これ、イヴリン、よさんか」
いつになく父もイヴリンの欲しがりに釘をさす。
「これは、ジェラルド様との婚約の証だから、だめよ」
ジェラルドが横にいてくれたからだろうか、レティシアは物心付いてから初めてはっきりと断ることができた。
「そうですか……お姉さま、滅多にないご縁ですわね。本当におめでとうございます」
柔らかい声の下に、棘が含まれていることを、姉は誰より敏感に感じ取った。
その夜、レティシアはジェラルドにもらったルビーの指輪を月光にかざしていた。
「こんな美しい物、初めてもらった……」
同じ時間、イヴリンは自室で足を踏み鳴らしていた。
自分が相手にされなかったのは初めてだ。
いつだって我儘を許してくれたお父様に叱られた。
恥をかかされた。これもお姉さまのせい。
屈辱と悔しさが胸に渦を巻き、嫉妬に変わっていく。
◇◇◇
一か月後、王都のヴァロア家の屋敷で小さな婚約式が行われた。
暖炉の火とローズマリーの香り、銀の燭台と二つの杯。
ジェラルドは事前に贈ったルビーの指輪をそっとレティシアの左薬指にすべらせた。
「この灯が春まで消えず、雪解けと共に我が家へ導いてくれることを願う」
「雪は必ず溶けます。私も必ず参りましょう」
杯が軽やかな音を立て、招かれた数名の親族が温かい拍手を送る。
そのかすかなざわめきに混じり、レティシアの頬へ控えめな紅が差した。
――その夜。嫉妬に狂ったイヴリンは、自室で爪を噛んでいた。
「ずるいずるいずるい!!地味なお姉さまが、私でさえもらえなかった大粒のルビーだなんて!!ジェラルド様だってあんなに見目麗しくて、お姉さまには似合わない!!横にいるのはわたくしであるべきよ!!」
わめき散らし、ふと顔を上げると鏡の中の自分がこちらを見つめていた。
イヴリンは垂れ目でレティシアは吊り目だが、怒りの形相で吊り目ぎみに歪んだ自分の顔は、姉と意外に似ている――その事実に気づき、胸がざわついた。
鏡台に近づいて、化粧を拭い落とし、素顔をじっと見つめる。
思ったより姉に近い輪郭、鼻、唇の形。
「……こうすれば、もっと似るかしら」
そう呟いて暖炉でコテを熱し、柔らかな巻き毛を真っすぐに伸ばす。
アイラインを跳ね上げ、ふっくらした頬へさっとシェーディングを入れ、色付きのヴェールをかぶる。
鏡の中の『レティシア』が氷のような微笑を浮かべる。
「かわいいだけじゃ足りないなら、奪い取ればいいんだわ」
紅をひと塗りして唇を閉じると、炎の揺らぎがヴェールの影を長く伸ばした。
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