人質になりましたが幸せです?
戦争とは多くの人間の人生をあっけなく壊してしまうものである。
しかし、アンネは思う。壊されただけなのかそれとも、新しく作り替えられたのかそのどちらだろうかと。
「おら! さっさと歩け、略奪者ども!」
「馬車を降りたらまっすぐ小屋の中に入れ!」
乱暴に怒鳴りつける兵士たちの声が聞こえる。アンネのそばにいた人質の少年ロミルダは硬い表情でアンネの簡素なドレスを強く握りしめていた。
「っ……っ、う……うう゛」
十人ほどの子供たちをアンネは上から見下ろしつつ、神経質に気を配っていた。
すると後ろの方からすすり泣くような声が聞こえてきて、途端にその声は堪えられなくなったように大きく泣きわめく声になる。
「ひっく、う、うわぁぁん!!」
「黙ってさっさと歩けってんだろ!!」
泣き出した一番後ろの少女に向かって、剣を抜いたまま兵士の男性が怒鳴りつけた。
ロミルダの手を丁寧に離してからアンネはすぐに彼女の元へと駆けだした。
「やめてください! すぐに泣きやませますから。マルレーネ、大丈夫ですよ。あなたは貴族。立派な出自の子供なんです、この場で泣いては領民に示しがつきません」
「っ、ひっく、でもぉ」
「人目につかないところに行きましょう。それからゆっくり話を聞きますから」
大粒の涙を流すマルレーネに、アンネは優しく話しかけながら手をとる。
彼女の手を取ると腕にはめられた魔力封じの枷が裾の下から露出してしまい、痛ましい気持ちになりながらも裾を整えて、それが見えないように丁寧に抱き上げた。
「さあ、皆、お屋敷の中に入れば休憩できますから、皆で手をつないでゆっくり歩いていきましょう。大丈夫です!」
「ハッ、屋敷なんて言えない家畜小屋同然の場所だけどな!」
「……行きましょう」
アンネの言葉を馬鹿にしたように周りを取り囲んでいる兵士の一人がそう口にする。
確かに示された場所はとても古びた二階建ての屋敷だ。とても今いる子供たちが住むような場所ではない。
しかし貨物のように詰め込まれた酷く揺れる馬車の中よりも随分ましなことは事実だ。
アンネの言葉に、不安そうに歩みを止めていた子供たちは、一人また一人と手をつないで、鉄格子の窓がついているその屋敷へと歩みを進めていった。
屋敷を取り囲む塀の外からは平民たちが隣国ルシュトラ王国から連れてこられた人質の子供たちを一目見ようと人だかりを作っている。
その好奇心になんとも嫌な気持ちになりつつも、アンネは気丈な笑みを絶やさずに、子供たちに何かしらの因縁をつけて虐めてやろうと考えている騎士たちににらみを利かせながら屋敷の中へと入っていった。
「君はどうして、自分の家族にも優しくしてあげられないんだ? アンネ」
「……」
「エルザは、君が私の寵愛を受けられないから自分をいじめてくるのだと泣きながら訴えてきたんだぞ、可哀想に」
「……」
「何とか言ってみろ。この性悪め」
「っ、いっ」
アンネはただ俯いて、婚約者であるカルステンの言葉を聞いていた。
しかし、アンネは思っていた。自分のどこに妹のエルザを虐めている時間があると思うのだろうと。
けれどもその態度が気にくわなかったのか、カルステンは俯いて座ったままのアンネの耳をおもむろに引っ張った。
ぐっと引かれると酷く痛んで思わず顔をあげる。
カルステンを見上げると、彼はさらにイラついた様子でおもむろにアンネの頬を平手で打ち付けた。
ぱちんと爽快な音が響いて、頬がじんと痛むが涙も出てこない。
こんなことは日常茶飯事だ。
「反省のかけらもないような顔だな。そんなだから私に愛想をつかされているのだとまだわからないのか?」
「……」
「いつも黙り込んで、そうしていたら誰かが助けてくれるのはエルザのような愛嬌のある顔つきの女だけだといい加減理解した方がいい」
「……」
彼の言う言葉にアンネは心のなかだけで否定した。
だってどうせ言い返しても、説教が長引くだけだ。彼がアンネではなく妹を可愛がっている事実は変わらないし、アンネは後継者教育とすでに任されている仕事でとても忙しい。
本来なら公爵家の後継者補佐になる婚約者のカルステンだって、一緒に課題に取り組んだり、書類仕事を覚えたりとやるべきことは沢山ある。
しかし、両親もそろって愛嬌のあるエルザの事を可愛がっている。
その彼女が愛しているカルステンに、彼女の要望を聞いてあげてくれてありがとうお礼をする始末だ。
アンネの味方はこの屋敷にはいないし、誰にも尊重されない。ただ従順に生まれ持った役目を果たすことしかできない。
それ以外の事を許されていない。
それを苦しいとさえ、逃げ出したいとさえ思うことができない日々だった。
しかし突然、世界はがらりと色を変えた。
アンネは唐突に公爵家後継ぎの地位から降ろされて、婚約も破棄。代わりにエルザがカルステンと婚約をし、跡継ぎの地位に座った。
「そういうわけだから、アンネ。お前は人質としてオルニア帝国へと向かえ」
「……はい?」
「だってこんなにか弱いエルザを人質にするわけにはいかないでしょう? 姉なんだからあなたが変わってあげないと」
「……はい」
家族と婚約者のカルステンが談話室に集まって言い渡されたことは、まさに晴天の霹靂だった。
何もかもにピンと来ていなかったアンネだったが、母と父の言葉を聞いてなぜか被害者のように涙を見せているエルザのことを見て、何を泣いているのだろうかと疑問に思った。
カルステンはそれに寄り添って彼女をやさしく慰めており、まさかこの期に及んで姉が自分の代わりに人質になることを悲しみ苦しんでいるというつもりではあるまいなと冷静に思ったのだった。
そんな突然の出来事があり、アンネは、最低限の荷物を持って王宮に向かった。
そこには小さな十歳程度の子供が十人ほどおり、オルニア帝国の使者が待ち構えていた。
それぞれ魔力封じの枷をつけられて、鉄格子付きの馬車の荷台に、乗せられてガタゴトと隣国への道のりを出発したのだった。
道中に、使者や使者についていた騎士たちの話を聞いたり、子供たちの話を聞いたりしていくうちに事の全容が見えてきた。
我が国、ルシュトラ王国と隣国のオルニア帝国はそれなりに長い間、険悪な関係が続いていた。
その点については理解していたが、アンネは自分の領地と家族の事だけで頭がいっぱいでルシュトラ王国の外交や政治の事はあまり知らなかったし、公爵家は隣国との国境との反対側に位置する領地を持っている。
だからこそ国境付近の緊張を察知できなかったのではないかと思っている。
しかし、王都に住んでいた子供たちは事情をよく知っていた。
浪費の激しい我が国の王族は、オルニア帝国の国土を荒らし、略奪や殺しを繰り返す賊に支援をし、間接的に武装をしていない村々を襲い女子供までも殺す行為を許容し助長させていた。
それが今回の火種として元々悪かった国同士の関係は悪化、オルニア帝国はルシュトラ王国に賠償を求めたが、到底支払えるはずもない。
そして武力では圧倒的にオルニア帝国の方が上だ。
彼らからの正当な要求を突っぱねるだけというわけにはいかずに支払いを待ってほしいと懇願した。すると賠償金の支払いを待つ代わりに、彼らは高貴な血筋の子供を十名以上、人質として要求した。
そして現在に至るのである。
けれどももちろんアンネは子供とは言えない、成人はしていないが、大人に近い。
どうしてアンネが今こうして子供たちとともに人質になっているのかという点についての答えは自分の中にあった。
ファーレンフォレスト公爵家には一目見ただけで高貴な貴族だとわかる特徴がある。それは真っ赤な髪と瞳だ。そして色白の美しく透き通った肌。
この特徴は神の使いである白兎を宿した体であるという証明になり、その話は大陸でそこそこ有名な話なのだ。
だからこそ、こんなに貴重な人間を人質にした、という分かりやすい象徴が欲しかったのだろう。
なので同じ外見をしている、アンネの妹のエルザが選ばれた。
しかし、彼女はカルステンや父と母に守られた。
だから今、アンネはこの場所にいる。
それが、良い事なのか悪い事なのかそんなことを考える暇もなく、アンネは子供たちを励ました。彼らは、たしかに身分だけはとても高貴な子供たちだった。
ロミルダは魔力が高い事で有名だし、ディーターはたしか傍系の王族の出身だ。当然荷馬車で運ばれていいような子供ではない。
ほかにも大切にされるべき子供たちがたくさんいて、彼らは総じて賢かったり、美しかったり優れた魔法を持っていたりする。
しかし、根本の部分ではみんな同じだった。
……私のように、助けてもらえなかった……選ばれなかった子たちなんです。
大切にされている子供は皆、どうにかして親に守ってもらうことができる。決して大きな国ではないけれど、貴族の子供といえばそれなりに数がいるのだ。
それなのに、選ばれてしまったアンネたちは皆同類なのだ。
だからこそアンネは一番の年長者として守るようにここまで彼らを励ましてきた。きっと大丈夫だと自分にも子供たちにも言い聞かせるようにしながら。
アンネは過去に思いをはせるのをやめてぱちりと目を覚ました。自分の周りには温かい子供の体温がたくさんあって、皆で身を寄せ合って眠っていたことを思い出した。
自分は眠っているような、思いだしているだけのようなそんな時間を過ごしていたが、どうにも今は目が冴えてしまってアンネはこれ以上横になっていることは苦痛だった。
なので子供たちがよく眠っていることを確認しつつ、大きな埃っぽいベッドからゆっくりと移動して降りる。
いくら子供と言えど十人で眠るのはどう考えても多すぎる。
はみ出している子が落ちないように自分のいた場所に移動して、彼らに布団代わりのタオルをかけてそれからそっと寝室を出た。
この場所は人質とはいえ、一応は子供たちの尊厳を尊重するために用意された場所らしく、二人で一つの部屋を使える程度には部屋数があり、ダイニングと浴室それから談話室程度は備えられている。
しかしながら家具も質素で掃除も行き届いているようには思えない。
それにすべての窓には丁寧に鉄格子が付けられており、子供たちはこの様相をみてとても恐怖を感じている様子だった。
……どうせ子供の足ではルシュトラ王国までは戻れないのですから、こんなふうにしなくてもいいのに……。
苦い気持ちになってアンネは窓から視線を外して廊下を歩く。
眠って起きたところだったからか、灯りがなくとも夜の屋敷を歩くことができた。
こんなふうに囚われの身なのだと嫌でも理解させられるような場所のせいで、子供たちは頼れる大人であるアンネから離れようとせずに、ああして狭い中で眠ることになった。
彼らを少しでも安心させてあげたいという気持ちはあっても、こんな自分に何ができるのかという気持ちがもたげてくる。
エントランスの窓から少し顔を出して外を見てみれば案の定、見張りの騎士が張り付いていて、彼らは退屈そうに何か会話をしている様子だった。
……できないとは思ってましたが逃げ出す手立てはなさそうですね。
考えつつも髪紐で軽くいつものように高い位置で赤毛をくくった。
せめて彼らの会話から何か情報が得られないかと耳を澄ませて、外の塀の方に立っているので、ここからでは何も聞こえない。
静かにしているとどうしても、考え事がはかどってアンネはこれからの事を考えた。
きっちりと賠償金が支払われ、ルシュトラ王国が誠意を見せればその対応によってアンネたちも解放されたり、待遇の改善をされる場合がある。
しかし、逆に言えばルシュトラ王国が誠意を欠いた対応をしたり……例えばオルニア帝国に攻撃を仕掛けたりしたら……。
考えるだけで体が震えて、恐ろしい。
ここまでくる間にはこんなふうになったりはしなかったのに、一人になって考えてみると、今この場にこうしている自分は危険な状況で、戦争という名の大きな波に呑みこまれている。
波にもまれて安全な場所まで逃げられるかどうかは運しだいだ。
アンネの手でできることはない。現にアンネは魔力封じの枷をはめられている状態でこの窓の鉄格子を外すことはできない。
父も母も家族は誰もそばにいない、アンネを守ってくれるものなどどこにもない。心細いとあんなに非情な家族もこいしく思うのは不思議なことだ。
震える手を抑えていると外の見張りの騎士の元に一人の男がやってきたところが見えた。
騎士たちはすぐに彼に頭を下げた。その様子からして現在地である、オルニア帝国、エーレンベルク辺境伯領の領主一族ではないかと推察できる。
別の貴族が人質を一目見たいとやってきた、もしくは王族が確認の為にという可能性もあるが、こんな日も暮れた時間にというのはおかしいだろう。
なのでこの場所に元からいるエーレンベルクの貴族なのは確かなはずだ。若い男性のようなので辺境伯子息だろうか。
……彼の名前は知らないけれど、この土地はルシュトラ王国が支援していた賊の被害が一番多かった国境の土地……思う所があって昼のうちにはできない事をしに来た……なんてことはないでしょうか。
嫌な想像をしているうちに、彼は騎士たちに何やら酒瓶を渡した様子でこの屋敷に近づいてくる。
何をされても文句を言えないし、何をされるかもわからない。
逃げて隠れるべきだと咄嗟に最善案が出た。
アンネは元から自分はこういう性質の人間だと知っている。できるならば逃げ隠れる。できないならば耐え忍ぶ。臆病で、諦めが良くて、受け入れることが得意。
気が弱いのは欠点だと知っていつつも、治せない。
そういう人間だとアンネは自分の事を思っているのだ。
「!……なんだお前、脱走する気か?」
しかし、扉があいたときにはアンネは彼の行く先に立ちふさがるようにしてエントランスに立っていた。
その行動は理にかなっていないと理解していた。けれど、アンネの人生はあの時から急激に変化している。
ただ屋敷の中で忙殺されていたあの時から、アンネは小さな子たちに頼られて、恐ろしくともなんだか温かいと思ってしまっていた。
たしかに不安で守ってくれる人はいないけれど、守ってあげたい人が出来たアンネは、夢中になって言葉を紡いだ。
「こんな夜更けに何の用事でしょうか。皆眠っています」
「……」
「それとも私で対応可能な案件でしょうか」
声は不思議と震えなかった。この特殊な状況にアンネは普段とは違って強気な自分になれていた。
それはどこか現実味がなくて、さっきほどの手が震えていた時が正しい自分らしい姿だと思うが、必要に駆られて人間は変わるものだ。
アンネが睨みつけてそういうと彼は、この屋敷の扉の鍵をチャラチャラと指で弄んで、それから口をへの字に曲げて眉間にしわを寄せた。
「……人質は子供だって聞いてたんだがな。お前いくつだ?」
「成人はしていません」
「だから子供かって言われたら、子供ではないだろ」
当たり前のように言う彼に、それはそうだが、だから何だとアンネは思った。
そしてそのまま彼は考えている素振りを見せて、うかつなことを言ってもなんなのでアンネは静かに彼を見据えていた。
歳はアンネより少し上ぐらいだろう。それにしてもいけ好かないカンジだ。ニコリともしないし名乗りもしない。
もちろん丁寧に名乗られたからと言って信用するわけではないのだが、それにしてもお互いに貴族として立場というものがあるのだから……。
そう考えてからはたと自分の状況を思い出して、あくまでアンネだからこんなふうに感じが悪いのかと考えた。
「……しかし……何と言うか。はぁ、せっかく略奪者どもの子供が悲壮感たっぷりに泣いてるかもしれないと思って見物に来たのに。随分静まり返って、つまらない」
……つ、つまらないですって?
彼は心の底からの適当な呟きのようにそう言って、それからアンネの事を気にせずに興味が失せたとばかりに身を翻して出ていこうとする。
それにその言葉にアンネはかっと血が上って、彼のランプを持っている方の腕をつかんだ。
「待ってください。それは、無実の子供をあざ笑いに来たという事ですか?」
「っ、離せ」
「そんなことをして、あなたの何が満たされるというのですか。それに、私たちは何も孤児になったわけではありません、帰る国があり、帰りを心待ちにしている家族がいます」
「……だとしてもここではなすすべもない、お前らに施しを与えようなんて人間はいないだろ」
「そうですが、私たちに危害を加えれば、オルニア帝国は示しがつかないはずです。まだ何も起こっていないこの状況では私たちは尊重されてしかるべきではありませんか」
彼に言っても仕方ないかもしれないが、素性のしれない彼は辺境伯子息の可能性がある。もしかすると、今後のアンネたちの待遇に関わる可能性がある。
であれば正しく物事を認識してくれなければ困るのだ。
まだ救いはある、そのはずだ。
「生意気な奴だな。離せと言っている」
彼はアンネの手を振り払うようにして振り返った。その表情は苛立っている様子で、気が引けるような気もするけれど、一歩も引くことなくアンネは彼を見つめたまま言った。
「あなたが何者か私は知りません。ですが、あなた方の略奪者への恨みが私たちに向いて当然なのだとしても、私は子供たちに罪があるとは思えません。それに子供が悲しんでいるのを見て楽しむような人間は軽蔑します」
「はぁ?」
「私はあなたのような人を認めないと言っているんです。ですから、子供たちに用事があってもまずは私を通してください。私はアンネと申します」
「……なんだそれ。腹立つな」
わざと強い言葉を使ったのは、彼の注意を自分に向けるためだった。
こんな人が子供たちに接触しては何をされるかわからない。
キチンと考えたうえでの行動ではなかったが、いざとなったら、子供たちだけでも助かればいいという気持ちがないわけでもなかった。
「俺は別に…………まぁいい。気の強い女は嫌いじゃない。覚えたからな。アンネ」
彼は鋭くアンネの事を見つめて、不敵に笑みを浮かべて去っていく。
そのランタンに照らされた顔はやっぱりとても意地悪そうで、身の毛がよだつ。
人質として連れてこられた子供を笑いに来たなど、きっととんでもないサディストに違いがない。きっとカルステンよりよっぽど悪い男だろう。
そんな彼に目をつけられて、どうなるのか。心配になりつつも、去っていく背中を眺めていれば寝室の方から泣き声が聞こえてくる。
子供たちが起きてしまったのかもしれない。
すぐに思考を切り替えてアンネはぱたぱたと歩いて寝室へと戻ったのだった。
この屋敷での生活は決して快適とは言えなかった。
しかし子供だけではなく、アンネのような成人間近の大人がいることによって、弱い立場の人間を虐めようとする悪い人間から、人らしく生きる尊厳だけは守ることができた。
食料はそれなりに与えられたし、子供が熱を出せば薬も用意された。
もちろん、アンネは自分の国のやったことを理解しているし、このエーレンベルク辺境伯領にいる騎士たちや使用人たちの気持ちもわかる。
許されることではないというのも知っている。しかしだからと言って頭を下げているだけでは割を食うのは幼く弱い子供たちだ。
だからこそアンネは大人の丈夫な体や、多少なりとも回る頭を使って尊厳を主張しなければならない。
もちろん緊張はするけれど、ここにきて一日目のあの日以来、気弱になることはなかった。
それにアンネが悲しい顔をしていたら、子供たちが心配する。
マルレーネは勘の鋭い子で、ストレスで夜はよく眠れないようだし、ディーターは羽目を外してよく怪我をする。仲の悪い子もいればいい子もいてその喧嘩の仲裁もアンネの役目だ。
ちょうど今、アンネは、夜に眠れなかった子たちに腿を枕に貸してやって寝かしつけていた。
するとぱたぱたと軽い足音が聞こえて、小さなノックの音が響いた。
「入ってもいいけれど、眠っている子がいるから静かにね」
最低限ドアまで届くような声で言うと、ゆっくりと扉が開いてひょっこりと仲の良い三人組が顔を出した。
「ご飯が来たみたいです」
「アンネ様の分はここにもってくる?」
「皆は食事の準備はできたって!」
彼らは、子供とは言えきちんと躾のされているいい子たちばかりだ。基本的にはアンネのサポートもいらない事が多い。
「ありがとう。後で向かうから残しておいてくれれば大丈夫よ。先に食べていて」
「はぁい」
「ねー、後でご本、読んで?」
「あ、ずるい! 私はダンスの練習がしたいのに!」
「順番に皆と遊ぶから、大丈夫ですよ。ゆっくりとよく噛んで食事をしてきてくださいね」
子供たちが言い合いになる前にきちんと皆の為に時間をとると口にすれば、彼らはそろって返事をして、またぱたぱたとダイニングの方へと去っていく。
本当に聞き分けのいい、いい子ばかりだとふと思った。
しかし聞き分けのいい、良い子だからだったのだろうか、と彼らが国に残って親に愛される子として選ばれなかった理由を考えて悲しくなった。
アンネの腿を枕にして眠っているマルレーネの頭をゆっくりと撫でる。
そんなふうに窮屈だけれど穏やかな生活がしばらく続いた。
この場所に来てから一週間と少し経ったとある日、屋敷に初日の夜に来た男が日の高いうちにやってきた。
突然の訪問に子供たちを必死に隠そうとするアンネにも気を配らず、彼は色々と出合い頭に自分の事を話して案の定、辺境伯子息であり、跡取り息子であること、名をクラウスという事をアンネに説明した。
しかしそれはまったくの本題ではなく、彼は案内した談話室でしたり顔で偉そうにアンネに言った。
「まずは、この場所にとらわれている人質のお前らは知らないだろうから、今の状況を教えてやる」
彼の耳についた銀のピアスが揺れて、なんだか嫌な予感のする前置きに、アンネは表情を険しくしながらも向かいあった。
その真剣な表情にクラウスは勝ち誇ったような笑みを浮かべて、たっぷりと間を置いた後に、目を細めて口にした。
「ルシュトラ王国の王族が大陸外に亡命した」
それはまさしく終わりを告げる鐘の音のように残酷な言葉だった。
「というのも、お前らがこの場所にとらわれる前、すでに緊張状態だった前線で衝突があったらしい。その衝突で勝ちを見込んだルシュトラ王族は我々に攻めてきた。
もちろん、こちらはルシュトラの兵士など造作もない。ただ不意を突かれて少し損害を出したが備えていれば何の脅威にもならない
というわけで結果は彼らの惨敗に終わったぞ……追い詰められて金に目のくらんだ人間というのは無能なことをするな?
それにしても残念だったな、アンネ。お前がいくらこの場所で最善の立ち回りを演じようとしてもそれはまったくもって無意味だ。だってすでに捕らえられた時点で終わっている。
指揮系統を失ったルシュトラ王国は現在混乱状態にあるらしい、お前らの実家も人質になった子供を取り戻すどころではないと見た」
大げさに身振りをつけて話す彼に、アンネはただ俯かずに話を聞き、その裏を読んだ。
どうしてこんな話をわざわざしに来たのか、エーレンベルク辺境伯という地位を継ぐと自称している彼が、何をしようとしているのか。
それがアンネにとってとても重要な事実だろうと思う。
「……それで、私たちはどうなるのでしょうか」
続きを促すように冷静に言うアンネに、クラウスはパチパチと瞳を瞬いてこれまた意外そうな顔をして、それから不服そうに顔をゆがめた。
「なんだそれ。つまらん」
「そうですか。それで何をしにいらっしゃったのでしょうか。クラウス様」
機嫌を損ねたいわけではないけれど、彼の言葉にいちいち気をもんでいても仕方ないだろう。続きを促すように言う。しかしアンネの反応が腑に落ちないらしく、クラウスはぶっきらぼうな声でアンネの言葉に応えた。
「何か用事があってここにいるという訳じゃないかもしれないだろ」
「……」
「全員処刑だと言ったらどうする? その可能性が十二分にあり得る状況だぞ」
彼の言葉には重みがあった。
その可能性はある、わかっていることだがこうなったらオルニア帝国にはアンネたち人質を生かしておく必要はどこにもない。
むしろ処刑をすることによって、戦争によって不安になっていた国民のフラストレーションを解消するエンターテイメントにできる。
とても効率的な使い方だとアンネも思ってしまうほどだ。
そう考えると何と言ったらいいのかわからずに黙り込む。
するとクラウスは途端に機嫌を良くして、これまた偉そうに笑みを浮かべて「怖いだろ?」ともったいつけて聞いてきた。
うんと言ってはいけないような気がして、アンネはにらみつけるだけにとどめて、静かにクラウスの話の続きを促した。
するとやっと彼は楽しい舞踏会への誘いを言うようにアンネに言ったのだった。
「そこで、もう少しお前らの事を楽しむために俺は策を考えた」
……楽しむため、ですか。何が楽しいのかまるで分りません。
彼に対する嫌な気持ちでいっぱいで、アンネは彼が考えていそうなことを予想してみた。
……私たちに殺し合いでもさせる気でしょうか。
あるいは魔力を捻出する道具としてオルニアの皇族に使われるという可能性もある。
考えれば考えるほど残酷な子供たちの行く末が思い浮かんだ。
「十人分、ルシュトラからやってきた人質の魔力もちと養子縁組をしてもいいという貴族を見繕ってきた」
クラウスは意地の悪そうな笑みを浮かべている。しかしアンネはびっくりして固まっていた。
「もちろん、ルシュトラから距離があり、オルニア以外の人間にも寛容な下級貴族たちだ。どうだ、素晴らしいだろう?」
「……それは、もう」
「そうか! で、十人分だ。意味は分かるだろ。リストを用意させる、それぞれに名を記入して養子に入ることができる人間を決めろ」
……それはつまり、一人分足りないという事ですか。
彼の提案にアンネはなるほどと思った。残酷といえば残酷だし、彼の外見や横柄な態度も相まって、なんだかとてもひどい事をされているような心地を覚える。
しかし実際問題、敗戦国の人質と養子縁組しようという奇特な貴族を見つけてくることは、よっぽど骨が折れる作業だったのではないだろうか。
しかもそれを十人分、大きな国で国民性も寛容、大きな港を持ち行商で財を成した大国だとは知っていても、簡単ではないことぐらいはアンネにだってわかるのだ。
……もしかして、使う言葉が悪いだけで……いい人では……いえ、駄目です。アンネ、結局残った一人をどのように扱うかということについては明言していません。
それを決めるために苦悩する私や子供たちの騒動を見て楽しみたいなんて常人の考えではないでしょう。
「養子に入れなかった残った人間はどうなるのでしょうか」
「……さぁ? 俺次第だな。実のところ皇帝陛下も人質の件については、頭を抱えている様子でな。
このあたりではルシュトラの被害もあったせいで戦争に躍起になっているように見えるが、国全体で考えると、閉鎖的な小国が暴走して、仕方ないから属国にしているに過ぎない。
こんなことは別に珍しくもない。賠償の為に人質を取ったはいいが、この状況では有用に使えない。
使用用途が亡くなったとはいえ、あまりにぞんざいに皇族が扱えば他の属国からも何かしらの面倒な申し立てがある可能性もある。
だからこそ、当事者となった俺らに任されたんだ。まぁ、一人ぐらいなら見せしめに処刑してもいいし。我が国の寛容は美徳だが、民に押し付けるのは傲慢だろう?
ここらでガス抜きも必要だからな」
その言葉は嘘には聞こえない。脅しとして言っている可能性も十二分にあるが、何を言っても問答無用で人を殺しそうな冷徹な雰囲気もあるのだ。
人の上に立つ人間は、自分以外の死に立ち会うことも多くある。良くも悪くも目立つ存在であり、多くの利権と人間が絡んでいれば、命の駆け引きになることもある。
慣れている人間はそういう時に躊躇しない。父や母もそういう人だった。
「……わかりました。……それにしても、この短期間で十人の養子受け入れ可能な貴族を見つけてきた、ということはあと一人分もクラウス様であれば用意できたのでは無いでしょうか」
アンネは了承とともに、なぜこんなことをするのかという気持ちを込めてクラウスに問いかけた。
すると彼は、アンネの言葉に首をかしげて「っはは!」と機嫌よく笑い、にんまりと笑みを浮かべてやはり意地悪く言ったのだった。
「言っただろ。あの夜。覚えたぞって」
……つまり、私への嫌がらせという事ですね。
しかし、果たしてあの夜に彼に対して何もしなかった場合には、子供たちの養子受け入れ先は決まっていたのだろうか。
アンネは余計なことをしたのだろうか。将又、何も面白そうなことがなければ彼は興味も示さずに居たのか。
その答えはわからないが、やはり、良くない人に目をつけられたというのは事実だったと思う。
アンネはあまり意味がないとわかっていつつもクラウスと書面を交わした。
子供たちが送り出された先で不遇な扱いを受けている場合には必ずエーレンベルク辺境伯家が介入すること。
それから、定期的な安否確認など必要な最低限行って欲しい事を纏めて、これが守れるならば子供たちを養子に出すこともやぶさかではないと上から言い放った。
その態度にクラウスはこれまたイラついた様子だったが、内容を見て承諾し、養子入りする先の貴族の情報とすり合わせて、社交的な子たちから次々に檻のようなこの館から一人、また一人と子供たちは魔力封じの枷を外されて出ていった。
「みんな元気にやってるかな?」
ロミルダは窓の外を見ながら、ぽつりとそうつぶやいた。
それにアンネは優しい声で、笑みを浮かべて返した。
「大丈夫です。心配いりませんよ」
「嘘! 嘘よ! もうとっくに皆死んでますわ!」
「マルレーネ。どうしてそう思うの?」
「昨日の夜、夢で見たんですの! 皆、騎士様に切られて死んでるんですの!」
マルレーネは極端にマイナス思考なところがあるし、こういう事も多い。彼女が泣き出したのを気にせずに、アンネは手招きして自分の膝の上に乗せた。
それから、遅れていた食事を再開する。
子供たちは皆意外と食事をとるのが早く、残っていた三人はアンネの食事が終わるのをダイニングで律儀に待っていた。
そしてマルレーネはいつもの通りに泣き出して、ロミルダはそれを見て悲しそうな顔をする。
「ぅぅ、っひ。……誰も、わたくしたちを助けてなんて下さりませんわ!」
「そんなことありません。マルレーネ、あなたの養子入り先ももうすぐ迎えに来ます」
「嘘ですのぉ!」
「……」
マルレーネはぐずりながらアンネの胸元に顔をこすりつけた。
背中を軽く叩きながらアンネはパンを口に運ぶけれど、なんだかとてもパサついているような気がして、うまく咀嚼できない。
心細くなったのか、ロミルダもそばによりアンネのドレスの裾を握った。
……最近、あまり食欲を感じなくなったような気がしていましたけれど、それどころか食事をするのもなんだか億劫ですね。
自分の体調の変化にアンネはぼんやりとそんな感想を覚えた。
ここに来るときに持ってきた私服のいくつかは、腹回りの寸法が合わなくなってきている。
この歳になって急激にやせるようなこともそうないとは思うが、この状況だ、おかしくもない。
「……アンネ様、どうして私たちは、帰れないのですか」
ロミルダと同じように鉄格子のついている窓の外を眺めていた、ディーターがアンネにそう静かに問いかけてきた。
「私は、養子に入ることよりも、ルシュトラに帰りたいです」
「そうですね。そうすることが出来たら一番よかったのですが……」
彼らは、ルシュトラ王国の王族が亡命し、戦争を仕掛けすでに敗戦済みであることを知らない。
この状況で戻ること、それはすなわち、戦後の混乱に身を投じることに他ならない。
どのように争いが起こったのか知らないアンネたちは、戻る間にも様々な危険にさらされるだろう。
だからこそ無事に帰りつくためには、オルニア帝国の騎士の協力が必要になってくる。
そしてその騎士に囲まれて帰ってきた一度捨てられたアンネたちは歓迎されるのか。
むしろ賠償金を請求されて小さな国の国庫がそこを突き、国全体が困窮するというときに、すぐに働き手となれない子供が戻ってきたときにどうなるのか。
それは想像に容易い事だろう。
物理的に帰れるかも怪しく、さらには戻った時の状況も出た時よりよっぽど悪いとなったら、帰るという選択肢はとるべきではないと思う。
それでも帰り祖国の敵国オルニア帝国を打ち倒すために闘志を燃やす、と言うのが人の上に立つ貴族の務めと考える崇高な人間もいるだろうが、アンネは生憎、ルシュトラ王国があまり好きではない。
「たしかに人質として送られる前のルシュトラに帰ることが出来たら一番でした。けれど状況は常に移り変わっています。物理的にもここからあなた達を連れて緊張状態の国境を通って帰ることはできません」
「……そう、ですよね。わかってるんです」
「でもいつか、自分の足でルシュトラに帰れるほどに健康で立派な大人になれば故郷の地を踏むことができるはずです。どんな状況でもやれることというのはあるものです」
アンネは自分で言っていてどの口がそんなことをいうのかと自虐的に笑いたくなった。
だってそうだろう。あんなふうに死んだような日々を過ごしていたアンネはそんなふうに思っていなかった。
けれどもそう子供たちには思って欲しい、信じてほしいと思って口にしている。
「希望を捨てずにいましょう。ディーター、私たちは決して何もかも駄目になったわけではないんです」
「……はい」
ディーターの返答はあまり納得している様子ではなかったが、それでも不条理を呑み込んで返事をした。
それから残りの彼ら三人が養子に行くまでの間アンネたちは静かに過ごしたのだった。
最後にマルレーネが屋敷を出てから、アンネは糸が切れた操り人形ようにばたりと倒れて意識を失った。
何か自分の体がまずそうだとは思っていたが、限界だったことにはアンネは気が付いておらず、もうこのまま誰にも気づかれずに死んでいくのかと悲しくなったのだった。
しかし目を覚ますと幾分体調がよくなっていて、アンネはぼんやりとしながらふかふかとしたベッドから体を起こした。
人質の屋敷とは違って、それなりに豪勢な部屋にうつされていて窓の外には鉄格子はついていない。
それどころか窓が開いていて、心地の良い風が日差しと一緒に差し込んでいた。
……私、死んだのでしょうか……。
はたとそんなふうに考えたが、部屋に入ってきた侍女が大慌てで外に出ていく。それから立ち代わり色々な人がやってきて、安静にするように医者に言われ、最終的にはクラウスが顔を出して、ベッドのそばにどっかりと座ったのだった。
「で? 結局、自己犠牲か?」
「……」
「つまんねえなぁ、おい」
明らかに嫌悪感を抱いているような表情で、クラウスはアンネの事を見つめていた。
しかし、アンネは静かに俯いた。そういえばやっと子供たちを全員送り出して、それから倒れたのだったと思いだす。
それに自己犠牲のつもりはない。クラウスにつまらないなどと言われる筋合いも。
「子供は救って自分はどうなってもいいなんて間抜けの考えることだろ。せめて何か策を巡らせて来ると思ってたが飛んだ期待はずれだったな」
「……はい」
「……? いいのか、俺次第では処刑だぞって言ってあっただろ。お前死にたいのか」
「……」
この状況を作り出した本人のくせによく言う。
自己犠牲なんて良い事ではないというのはアンネだって知っているし、アンネはたしかに考えていた策も言葉もあったのだ。
しかし、子供たちとルシュトラを旅立った時とは違ってアンネは、やり終えたという気持ちでぱちりとスイッチが押されたかのように、元の自分に戻っていた。
「……」
「なんだ? 体調が悪いのか? 随分無気力だな、アンネ」
「……」
「せめてこちらを向け」
命令口調で言われて、顎を救われてアンネは落ちてきた髪の隙間からクラウスの事を見つめた。
言いたいことは沢山ある、しかしどうにもその気が起きない。処刑すると言われたら納得してしまいそうな虚無感だった。
そしてその虚無感を感じるとともに、今までアンネを突き動かしてきたものの正体がわかった。それは強烈な使命感だ。使命感があってやっとアンネは抗う事を選べるようになった。
……むしろ、私はそうでもなければ一歩だって踏み出せないただの小心者なんです。
心の中で呟いて、驚いた顔をしているクラウスからも視線を逸らした。
「まるで別人だな。悪魔と契約して魂でも抜かれたのか?」
彼の妙なたとえに、アンネは少しだけ心の中で少し笑ったが真剣に聞いている様子だったので一応首を振って意思表示をした。
「ではなぜ、そんなにしおらしい。もう、生きることをあきらめたからか?」
「……」
「なんとか言え、俺は退屈させられるのが一番嫌いだ」
クラウスはアンネの両頬を片手で掴むように無理やり持って、それからじっとアンネをにらみつけた。
聞かれたからにはアンネは惰性で答えた。
「……今までの私は、守るべき子供たちがいて使命感を覚えて動いていましたが、今はもう、ただ、虚無感でいっぱいになってしまいまして、その……私は元からこういう性分です」
「はぁ?」
「……」
「なんだそれ。使命感がないと動けないだと?」
確認するように問いかけられて、アンネはゆっくり頷いた。
するとクラウスは、これまた軽快に笑ってアンネの事をぱっと離し、軽やかな声で言ったのだった。
「そんなもん自分自身を守ってやるためにいくらでも湧いて出るもんだろ。このままだと処刑するぞって俺が言ってるんだからなんとかするべきだろ」
彼は当たり前のことを言っているつもりらしく、可笑しそうに笑っている。
でもそんなふうには思えない、アンネは強くないし、何もできないし、取り柄もない。
「それに、お前が死んだら駄目だろ。間抜けすぎる」
「……」
「生きようとするべきだ。それがお前の責任だろ」
しかしアンネの言葉をクラウスは端から否定してくる。たしかに生まれてきたからには自分を大切にするべきだとは思うが、気力がわかないのだ。
もうずっと前から疲れ切っているような気がしてならない。
「……それはあなたの主観で、感想です。私の事は私の考えで決める権利があると思うのです」
「何言ってんだ。無いぞ」
「……?」
「だってアンネ。お前、あんなに子供を守ったくせに、お前勝手に死んで、子供はどうなるんだ」
クラウスはさも常識かのようにそう口にしたのだった。
「誰があいつらの安否を確認してやるんだよ。ここで死ぬな。無責任だろ。それに、子供にも懐かれてたんだろ、お前は何人もの人間の支えになるような良いやつのくせに、そいつを見捨てるのか」
「……」
「そいつを助けてやることに使命感を働かせてやらないのか? 残酷な奴だな」
……残酷、ですか。
言われてみるとたしかにその通りで、アンネはどうしようもない人生を送るはずだったどうしようもないただの令嬢だったけれども、とても頑張った。
アンネは……自分は幸福に生きるに値する人間ではないだろうか。
考えるとふと涙が出てきて、ずっとそう自分を想いたかったような気がする。そういうふうに自分を思えると心がぽかぽかしてくる。
冷え切って動けなくなっていた体も、思考も、言葉も解けてアンネはやっとベッドから乗り出してクラウスの腕を強くつかんだ。
「っ、死にたくないので、私を貰ってくれませんか!」
クラウスは突然の事に驚いたのか、身を引いて目を見開いた。
「考えたんです。一人は必ずこの場所に残ることになる。あなたはまるでこうしてここに人質として大切にされなかった私たちの中から、さらに一番選ばれなかった人間を作ろうとしてるのだと」
彼にどんな意図があるのかはわからないが、全員適当に野に放つようなこともできたのだ。
殺すような労力すらかけたくないのならば、適当に魔力封じの枷をつけたまま、放逐してもいい。女子供ならばすぐに行方知れずになるだろう。
それが一番楽なアンネたち人質の処理方法だ。
人質がいてもルシュトラは攻撃に出た。その攻撃を押さえるための能力すらないアンネたちはまったくの無価値と言ってもいい。
けれど、彼は泣いている子供を見て楽しむような鬼畜であるので、無価値で捨てられたアンネたちの中から、さらに無価値な人間を決めさせる醜い争いが見たかったのだと思う。
いかにも意地の悪い人間が好きそうなことだ。だからこそアンネは選ばれない人間を作るのではなく、アンネが皆が幸せになることを選んだのだ。
彼らは選ばれた、だから少しでも良い道に進んだ。
「選ばれなかった私たちのうちの誰かが絶望して、誰もがそうなりたくないと望んで争うのが見たかったんでしょう?」
「……」
「ですがそう思い通りになんてなりません。けれども自己犠牲なんかでもありません。ただ助かってほしいと望む相手が居たというだけです」
クラウスはキョトンとしていた。まるでまったく予想していなかった言葉のような反応だが騙されたりはしない。
「それに、私には彼らと違う利用価値があります」
「は?」
「処刑しないでくださいませんか、それだけで私はあなたに尽くします。妾で構いません、娶ってください」
言いながらアンネはベッドに立膝をついてクラウスの体に体重をかける。
彼の座っていた椅子には背もたれはなく必然的にバランスをくずしクラウスは後ろに倒れこんだ。
鈍い音がして背中を打ち付けた様子で、アンネは押し倒し馬乗りになるような形でクラウスを見下ろした。
「クラウス様は私たちのような後のない人間をいじめて楽しむサディストなんでしょう?
ですがあなたの行動で私はなにも困っていませんし、さらに子供たちも皆養子に入れてとても助かっています。このまま私を処刑していいんですか? 負けっぱなしで男のプライドは台無しになりませんか?」
「っ、どけ」
「どきません。私に価値を見出してくださるまでどきません」
「こんなことして、ただじゃ済まさないぞ」
「構いません、それでもあなたが、私に価値を見出してくれるならば」
「はぁ……わかった。いいから離れろ」
睨みつけるとクラウスは案外簡単に折れて、それから自分の上からどいたアンネに言った。
「それにしてもお前、俺の事、勘違いしすぎだろ」
「していません」
「いつ俺がそんな血も涙もない鬼畜野郎だと思ったんだ?」
「出会ってからすぐにです」
「はぁ?!」
「いいですよ。今更、嘘をつかなくても、あなたの本性は十二分にわかっていますから」
「待て待て、決めつけるな」
「人には欠点の一つや二つあるものです」
「話を聞け!」
「はい。ちゃんと聞いていますし、あなたの事をわかっていますからね」
アンネがそういうとクラウスはイライラした様子で険しい顔をしてアンネを見つめていたが、そんなことは意に介さずとにかくアンネは死なずに済みそうだと思ったのだった。
その後
アンネは相変わらず仕事ずくめな日々を過ごしていた。
とにもかくにもやることは多く、養子にいった子供たちとの定期報告から、賊に襲われた村に謝罪と支援に直接向かったりもした。
それからルシュトラ王国との交渉役としてクラウス・エーレンベルクとの結婚を許された。
これからも付き合いをしていかなければならないルシュトラ王国とエーレンベルク辺境伯様や辺境伯夫人それからエーレンベルクの貴族たちには、そこそこ受け入れられる結果となった。
なんせ、ルシュトラ王国というのは、とても閉じた国であり国民自体も内向的で古い神話を信じていたり、自国内での貴族同士の争いが熾烈なために自国のこと以外に興味がなかったりする。
そんな彼らと同じ価値観を持つアンネの意見は取り入れられることが多く、賠償をきちんと払う姿勢をルシュトラ王国が見せ始めれば、自然とエーレンベルクの民や騎士たちはアンネへの態度を軟化させていった。
しかし交渉役だなんて大層な役柄になってしまったので、実家が出てきて色々と厄介なことになったりもしたのだがその件は割愛するとしてもアンネはとにかくこのエーレンベルクでそこそこうまくやれていた。
「なぁ、あまり根を詰めてもいいことないだろ?」
うまくやれているのだが、未だに大きな謎がある。
それは、夫となったクラウスの事だった。
彼は、書き物をしていたアンネのペンをスポッと抜いてくるくるとペン回しをしていた。
「……」
「なんだまた虚無になってるのか? 俺が慰めてやろうか?」
「いえ、違います。ペンを返してください。クラウス様」
「だから、根を詰めすぎだって言ってんだ。たまには夫と過ごす時間が必要だろ、それに同郷の奴らに直接会いに行ったりしてもいい」
「……距離があり過ぎます」
「いいだろ、新婚旅行だ。あっち側はこちらよりも温かいからな。海にも入れるだろ」
「……」
相変わらずの何か企んでいそうな笑みだ。くるくると回していたペンをたしっとアンネの執務机に置いて首をかしげる。
そうするとしゃらりと片方につけている銀のピアスが揺れた。
意地は悪そうで、初対面は最悪だった。けれども今はその気持ちも変わってきている。
妾でいいといったのに、アンネは彼の正妻になることになった。
それにはもちろん、このエーレンベルクの土地が戦争の前線になるからであり良家の貴族令嬢は嫁ぎたがらず、正妻がまだいなかったからという理由もある。
しかしそれだけならば正妻がいない状態でも妾を娶ることはできるのだから、そうしたって良かったのだ。
そうすればクラウスは適当に遊んで暮らせたというのに。
それなのにアンネの反対を押し切って正妻の座に座らせた。それはとても酔狂なことだ。
「おい、アンネ? そんなに俺と旅行に行きたくないのか」
笑みが消えて、彼は子供みたいな不機嫌な声で言った。立派な大人でアンネよりも一回り大きな成人男性のくせに幼い子供みたいなのだ。
しかし、なまじ外見が整っていて、笑みがニヒルなせいで……何と言うか悪党っぽさがにじみ出ている。本人の行動はいたってまともといえばまともな気もしなくもない。
「それならいいぞ、俺が一人で行って元人質の奴らにお前はまだ監禁されているって話して回ってくるから」
アンネは、すこし彼の評価を少し見直そうかと考えていたが、直後に繰り出されたひどい発言に、アンネはクラウスをにらみつけて「やめてください。それならばいっしょに行きますから」と口にした。
すると彼は満足した様子で、無言でアンネの頭をボスボスと撫でる。それから、アンネの真っ赤な髪に触れて、後ろに回った。
手櫛で梳いてするすると撫でるその様子は、まるで恋人にでも触れているような優しい触り方だが、アンネは知っている。
これはただの、彼の手慰みだ。
いつだって何か忙しなく、くるくるしていたり触れていることが彼の性分なのだとともにいると気が付いた。
「お前の髪は固そうに見えるのに、キツネの毛皮よりも柔らかいな」
「そうですか……あなたの髪は……」
言われた言葉にアンネもクラウスの髪について言及しようと考えるが、特徴のない茶髪をしていて、言葉を止めた。
「俺か? 俺は固いぞ、男だからな」
「そうですね。そうだと思います」
アンネの言葉を待たずに言われた言葉に、深く頷いた。
そしてとても普通のまるで当たり前の夫婦のような会話に、アンネはやっぱり不思議に思ってしまうのだ。
……あれから一度だって蔑ろにされたことも、暴力を振るわれたことも、暴言を吐かれたことだってありません。
それどころか、今のようにアンネの事をほめてくれたり、旅行に誘ったりしてくる。
ここにはまごうことなくアンネの居場所があり、アンネの事を評価してくれる人がいる。そう思えるのだ。
けれどもそれでは話が違う。
……私を娶った理由は……。
「あの、お聞きしたいことがあるんです。クラウス様」
「なんだ?」
「あなたはいつ頃、私を痛めつけるご予定ですか?」
「は?」
「ですから、そういう話で私を嫁にしたでしょう。まさか普通の夫婦と同じように甘い新婚生活を送るつもりだなんて思っていませんよね。私もまったく考えていません」
彼を振り返って、アンネは親切心と心の準備の為に聞いたのだった。クラウスはまぁ、それなりに多分極悪人というほどでもない。
ただ性格は悪いだろう。サディストだし。
「私もまったくもって、あなたに甘い幻想など抱いていませんから、遠慮はいりませんよ。もしかして旅行はこの屋敷の人たちにそのことを知られないための策ですか?」
「……」
「そういう事ならば私も心の準備がきちんとできますから、事前に言っておいてくださると助かります。……私もこの結婚の意義をきちんと果たし、あなたとは対等でいたいと考えていますから」
何故だかアンネの言葉を聞いたクラウスは、瞳を瞬かせてそれから、最後の言葉に、頬を引きつらせてイラついた表情になった。
アンネとしては、助けてもらって立場を与えてもらってもらってばかりでは悪いからという意味の言葉だったが、クラウスからするとまったく見当違いの言葉だった。
それに甘い結婚生活を送るつもりがまったくないだとか、結婚の意義だとか、そんな言葉をクラウスは一度だって肯定したことはない。
これだけ、アンネの為にクラウスは愛情表現をしているのに、まったく伝わってはいないし、アンネもアンネで酷く鈍感だった。
そしてクラウスはどがつくほど素直じゃない。天邪鬼と言っていい性格をしており、悲しい気持ちは裏目に出て、アンネを馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「そんなに言うなんてお前はとんだ自虐趣味の持ち主だな」
「違います。クラウス様に合わせているだけです」
「本当にそうか? どうせ俺に逆らう事ばかり言うのだって俺を煽りたいからなんだろ」
「そんなつもりはありません」
「どうだか、何なら今、この体に聞いてみるか?」
そういってクラウスははったりを利かせた。
しかしアンネはついさっきまで強気ににらみつけていたのに、その視線を仕方ないとばかりに下ろしてしおらしくする。
クラウスはそんな覚悟がなかったので途端に「本気にするなんて、やっぱり期待してるのはお前の方だな!」と捨て台詞を言ってから飛び出すようにアンネの執務室を出ていった。
その後ろ姿を見つめて、アンネはやはり謎だと彼の事を思う。
アンネはもうとっくにクラウスにすべてを許しているというのに、どうにも関係は進展しないし、結婚の名目であったいじめもない。
けれども、結局数時間したら多分彼は旅行の手配を終えて戻ってくる。そういう予感があった。それは、とても嬉しい事であり、子供たちに会いに行けるのはとても楽しみだ。
それもクラウスは知っていて、どういう理由があったとしても誘ってくれている。そうしてくれている関係性に今は、良い結婚理由では無かったけれど、妙に幸せだと思える。
戦争は多くの物を壊す。アンネの人生も一度、まっさらに壊された。
しかしアンネの件に限っては、壊された先でできた想像もしていなかった生活が幸せに思える。
そして昔を不幸せだったと思うことができる。
それが何より、今の幸福を証明することだった。
最後まで読んでいただきありがとうございました。




