第三話
私の中で予感が確信へと変わった。ここは、現代日本じゃない。
「ここ、どこ……家はどこなの……」
やっとの思いで絞り出した声は、自分でも驚くほどかぼそくて、震えていた。
やれやれ、話が通じない上に迷子ときたか……。
若者は心の中で大きくため息をついた。
この様子だと、家まで無事にたどり着けるかどうかも怪しい。
二人が押し問答を繰り広げている間に、若者の腕輪はさらに激しく点滅するようになっていた。銀白色のブレスレットが、赤熱された時のような明るい赤を放つ。
生ぬるい風が、若者と少女の間を吹き抜けていった。
もはや若者に迷っているだけの時間は残されていない。
「人助けを仕事にした覚えはないんだがな……。君を追っ手にみすみす引き渡す訳にもいかない」
警戒心を剥き出しにした少女の横で、若者は杖を取り出すと、横に軽く振った
少女が瞬きした次の瞬間には、立派な毛並みの馬具をつけた馬が一頭、目の前に佇んでいた。
若者は素早く馬に股がると、茫然としている少女を急かした。
「今後の人生を地獄で過ごしたくないなら、乗れ」
「でも、ママは……」
尚もためらう少女に痺れを切らし、若者は最後の手段に出た。
若者が杖で虚空にサークルを描く。
数秒のうちに毛布サイズの黒い布が現れ、あっという間に少女を簀巻きにしてしまった。
少女は暴れて身体に絡みつく布から逃れようとしたが、急に金縛りに遭ったように身体の自由が利かなくなり、あっけなくぐるぐると巻かれてしまった。
あんな性根の腐った政府の重鎮に、この少女を利用させるつもりはない。
追っ手に見つかる前に、俺が保護する。
若者は布の中で悲鳴を上げる少女を抱えあげ、自分の前に座らせるとフードを被せて外から顔が見えないようにした。
「頼むから少しの間黙っててくれないか」
若者はそう言って片手で少女の口をふさぐともう片方で手綱を取り、馬の腹を蹴った。
鋭い雄たけびを上げて、疾風の如く馬が走り出す。
雨上がりの道を駆けていき、そのうちに草木の生い茂る獣道へと馬は入って行く。
フードの隙間から、少女は外の景色を垣間見ていた。
私の見たことのない景色が、すぐ横を流れていく。
さっきはいきなり布にくるまれて、無理矢理ママから引き離されたから必死に抵抗した。
でももう、その気力も体力も残ってない。
そもそも、ここは私の知っている世界じゃないのだから、どこへ行ったってどうにもならないのだ。
……。
馬を移動手段にしているから、技術も未発達の部分があるのかもしれない。
男の人の格好や、建物の外観から察するに、中世のヨーロッパに近いものを感じる。
私とママは場所だけじゃなく、時間ごとこの場所へワープしてしまったのだ。
「さっきは手荒な真似をしてすまなかった。その……君の母親のことも……。残念だが、本当にもう助けられなかったんだ。」
だまってあれこれ考えていると口を押えていた手が離れていき、上から男の人の声が響いてきた。
「……。」
たしかに、男の人が持っていたような魔法の力も使えない自分の力ではママを安らかに葬ることすらできなかっただろう。
「あのままあそこにいたら、君は……危ない目に遭っていた。俺の腕輪が、危険を知らせてくれたんだ。」
「ありがとうございます……。」
後ろの男の人は、先ほどとは打って変わって優しく話している。私のことを気遣ってくれているのかもしれない。
黙っていると、男の人がもう一度済まなかったと言って手綱を持っていない方の手で頭を撫でてくれた。
今は、この人に頼るしかないのだろう。
この男の人の本性は分からないが、それ以外に私に出来ることがないのだから。
もしこのまま悪いことに巻き込まれたら、その時はその時だ。
だが幸いにも、私とママとの間に起きたことを気にしているのか、あまり踏み込んだ話はしてこない。その気遣いだって、この人の優しさの表れなのだろう。いい人なんだ……きっと。
「君、住居区に入ったら家を捜すと良い。あの界隈なら民家も少ないし、人に聞けばすぐに家は見つかるはずだ。無事に追っ手も撒けたようだし、住居区の入り口までは送っていこう」
「私、住むとこないんです」
驚くほど紳士的な男の人の好意をぶち壊すように、少女は現状を打ち明けた
「元々、ここに住むところがなかったんです。親戚も知り合いもいないので、いく宛は……ないです。」
若者は息をのんだ。
異国人で言葉が通じない上に、この国で畏れられる影鬼のことも知らず、挙げ句にすむ場所すらないだと……?
若者は気づかないうちに、勝手に薄幸な少女の身の上を考察していた。
きっとこの少女は、獄中であの女が生んで育てた子供なのだろう……。
少女は脱走した母親について逃げたが、その母親が影鬼にとりつかれて娘を殺そうとした、
そんなところか……この少女のこれまでの道程は。
俺がこの不運な少女のためにできることなどたかが知れている。
だが、祖国に帰れば、この少女も故郷で新しい人生を歩めるかもしれない。
少なくともいままでの人生よりはマシなはずだ。そのために俺が出来ることは……。
「君、出身はどこだ」
「に、日本です」
「聞かない国名だな……隣国じゃなく、もっと遠くにあるのか。名前は?」
「春川杏です。漢字で書くと……」
「かんじ? なんだそれは。そういうんじゃなくて、ファーストネームを教えてくれ」
「ファーストネームは……杏です。」
「アンか……。良い名前だ。俺は、カイル。カイル・ウィリアムズだ。今決めたよ、アン。俺の家に来ると良い。君が祖国に戻るまで、置いてやろう。」
少女は突然の誘いに思わず言葉を失った。
自分の家に来いって?
保護施設に連れていくとかじゃなくて?
「行くところもないし、この国の事を何も知らないのだろう。俺が君を保護して、君に色々教えよう。訓練所に行って訓練を受ければ、王都での就業資格も取得できる。君の年齢なら、ギリギリいけるはずだ。就業資格がないと、何かとこの国では苦労するからな。」
いやいや一気にそんなまくし立てられても困る。
そもそも保護すると言っても、そんな無償でなんでも面倒を見てくれるなどという話は怪しすぎる。
私は抗議するつもりで、布に巻かれたまま首をふった
「そんな、私を保護するといっても、赤の他人に何から何までやってもらうなんて虫のいいはなしは……。」
「ああ、そんな事を気にしていたのか。最初から対価を要求するつもりはないんだが、強いて言うなら……そうだな……君、働いた経験はあるのか?」
「一応……給仕の仕事なら……。」
レストランのウェイトレスのバイトだ。
バイトと言っても通じないだろうから、オブラートに包んで答えた。
「それは丁度良い。働きながら独り暮らしをするのは自炊やら何やら大変でな。俺は君の保護者になる。その代わりに君は家事を手伝ってくれ。」
「……そもそも、なぜ私の保護者になるなんて突然言い出したんですか?」
どうしても申し出を受ける気になれず、私はフード越しに最大の疑問をぶつけた。
「それは、君を幸せにする為だ。」
男の人は、迷うことなくハッキリと答えた。
「俺は君の母親と君とを引き離してしまったからな、その罪滅ぼしだ。君を祖国に送ってやるのが一番だが、君のその状態ではすぐには無理だ、書類をそろえたり、資格を取る必要があるからな。君は身寄りもない。だから俺がしばらくの間、助けになる……それだけだ。」
若者が少女を強く説得する理由は他にあった。
彼女は影鬼の呪いに打ち勝った。この国の上層部がそれを知れば、捕らえて研究の実験台にするだろう。もうあんなひどい所業の犠牲者を出したくはない。それに、後々奴らを糾弾するときの生き証人として、彼女を利用できるかもしれない。その時まで、彼女を若者のもとで保護しておくのが彼にとっての最良の対応だった。
二人を乗せた馬は、速度を落とすことなく走り続け、とうとう獣道を抜けて住宅街へとはいっていった。
「私、祖国に帰りたいです」
少女はしばし逡巡したのちこう答えた。
「……。料理は、得意です」
「決まりだな。」