第一話
夢を見ていた。空を飛ぶ夢。
最初は、鬼に追われていたのだ。
実体はなく、恐ろしいうなり声と共に影でせまってくる鬼だった。
私は家に侵入して来た鬼から逃げようと、外へ転がり出たのだが、
そこから恐怖で硬直しかかった手足をめちゃくちゃに動かして走っていたら、いつのまにか身体が浮き上がって、上空何十メートルもの高さを飛んでいたのだ。
魔法みたいですごい怖かったけど、同時にとてもワクワクした。
私もこんな風に、魔法で空を飛べたらいいのに……。
すごい素敵な夢だったけど、所詮夢は夢に過ぎないわけで。
目を覚ますや否や、私は穴だらけのベッドの上で顔を殴られた。
「いつまでも寝てんじゃないよ! いい加減起きて仕事しな、この穀潰しが!」
三十分前にここで眠り始めたばかりなんだけどな……。
「ゴメンなさい、ママ。でももうちょっとだけ、寝させて下さい」
がなりたてる声のする方に背を向けて丸まり、私は再び空飛ぶ夢の続きを楽しもうとした。
が、ママは容赦なかった。
「また背中に新しい焼き印が欲しいのかい? 」
そう言ってママは、私の髪を鷲掴みにしたかと思うと、服で隠れて見えなくなっているうなじの下の部分をさらけ出し、何かを押し付けて来た。何を押し当てられたかなんてわかる、火のついたタバコだ。
ジュウウウと火種がつぶれる音とともに、うなじに激痛が走った。
「いたいいたいっっ。ごめんなさいママごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
背中にじくじくと広がる火傷の痛みのせいで、心地よい眠気は容赦なくはぎ取られてしまった。
タバコでやられたのはいつぶりだろうか……
二日ぶり?
いや、昨日ぶり?
ああ、思い出した……十二時間ぶりだった。
タバコで火傷した部分の処置は後回しにして、私はベッドから起き上がった。
学校から帰ってきて着替えもせずにベッドに倒れ込んだものだから、制服には少ししわがついていた。
制服には悪いが、着替えてしわを延ばしてあげるだけの時間は私にはない。制服のまま仕事するしかなさそうだ。
「一時間だ。一時間で、昨日アンタがサボった皿洗いと、居間の掃除を終わらせな」
「……はいママ。」
いつもなら三十分で済ませろと言う筈のママが、今回はめずらしく一時間も時間をくれた。
昨日今日で、私を燃えタバコで痛めつけたから、気分がいいのだろうか。
ともかくこれはラッキーだ。さっさと済ませてママの機嫌を直さないと。
鬼の様な形相のママが部屋を出て行ったのを見届けると、私は階下へと駆け下りた。
一目散に台所へと向かう。
昨日から放置されているシンクは、汚れた食器でいっぱいだった。
とはいえ、まだ臭いもそこまでひどくはない。
以前は一週間かけてじっくり腐らせた大量のカレーを処理させられることもあったんだから、この程度の皿洗いはなんてことない。さっさと済ませてしまおう。
居間にサッと目を走らせたが、居間の汚れ具合思っていたほどではない。ママが夜通し酒を飲み明かし、スナック食べあさって放置したゴミが残っているだけだ。今までのママなら、こんな程度のいやがらせでは済まさないはずなのに。
ママがいつもと比べて特別ご機嫌ということもなかった。むしろ、今日は何かを気にして普段以上に神経質になっているように思える。
どうして、ママはこんなに仕事のノルマを緩めたのだろう……?
ママがこんな風に奇妙な行動をとるときには、必ず悪い事が起きる。
今までがそうだったからだ。
急にママが優しく振る舞うようになると、その少し後に必ず私が痛い目にあう。
ならば今回も、ママは何か企んでいるのかもしれない
洗った皿を食器乾燥棚に重ねながら、考えを巡らせていたその時だった。
背後で、フローリングの床が僅かに軋む音がした。
出しっぱなしになっている水道水の音で、油断すれば聞き逃してしまう程度の音だった。
続いて、言葉にならない圧迫感が私を襲う。
この場の空気が張りつめて、息が苦しくなった。
緊迫感の原因はすぐに解った。
ママだ
ママが音も立てずに居間にやってきたのだ。
息を殺して立つ居間に立ちすくむママからはいつもの悪意以外の、もっと邪悪なものを感じた。
憎しみよりももっと黒い感情……これを殺意と言うのかもしれなかった。
誰かを殺そうとしているのだろうか?
恐怖で震えそうになる手をなんとか制する。
もしその殺意が本物なら……その殺意は誰に向けられているのか。
皿洗いに集中するフリをしながら、私は思考を巡らせた。
ママの気配は、リビングをうろうろと移動している。何かをぶつぶつつぶやく声も聞こえてきた。
少なくとも私ではない筈だ。私を殺すなら、私がママに背を向けている今がベストタイミングなのだから。無防備な私なんて、とっくに殺されているだろう。
だとしたら、ママが狙っているのはパパ……?
ママの人間関係が広くないことを考えれば、答えはそれしかなかった。
時刻は午後六時、ちょうどパパが帰宅する時間だった。
後方でママは落ち着きなく居間を行ったり来たりしていた。
振り向かずとも、これまでママの神経に障らぬよう極限まで気を遣って来た私には感じ取れた。
間違いない。
ママはパパが帰ってくるのを待っているんだ……あの殺意を纏ったまま。
私がそう結論づけたそのとき、玄関の鍵の開く音がした。
扉が開いて、「ただいまー」という落ちついたパパの声が聞こえてきた
同時に、ママが無言で玄関へと歩いていく音がする。
おかえりとパパに言う様子もない
私もママがどうするのか気になって、水道の水は出しっぱなしにしたまま、ママの後をこっそりつけた。
チラリと様子をうかがって、すぐに持ち場に戻れば問題ないだろう。
いま皿洗いを中断しても、タイムリミットまではまだ十分に時間がある。
ほんのちょっと確認するだけだ。
居間と玄関をつなぐ廊下を歩く間、何の物音も聞こえなかった。
さっきのは私の杞憂に過ぎなかったのだろうか。
どんなに私を虐めるのが好きなママでも、なぜかパパの事は虐めようとはしなかった。
そうだ、ママがパパを殺すなんて絶対にあり得ない
私のことが嫌いでも、パパの事は大好きなんだから
きっといつも通り猫をかぶった様な態度をして、玄関でパパの仕事鞄を受け取り、その場でおかえりのハグをしているに違いない
そう思って玄関をそっと覗き込んだ次の瞬間、その場の空気が凍り付いた。
薄暗い玄関灯に照らされて、私の目に戦慄の光景が飛び込んで来た
胸を押さえて床に倒れ込むパパ
床に広がっていく赤黒い水たまり
その水と同じ色に染まった包丁を手に、無言で玄関に立ちすくむママ
包丁を持つママの手は、少しも震えていない
ママの殺意は本物だったと自覚し、私は思わず息を呑んだ
その時、後ろで様子をうかがっている私の気配を察知したのか、ママがゆっくりと振り向いた。
乱れた栗毛色の髪の隙間から、光のない目がのぞいた。
薄闇の中で、ママの瞳がしかと私の姿を捉える
「み た な」
そう言って包丁を握り直すママの瞳に、夢の中で見たあの鬼の姿が映った様な気がした。