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恋文屋-蓮次郎-  作者: 行雲流水
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恋文屋

3月2日。 浅草の叔父の家に下宿して一日目の朝。

目が覚めると時間は六時だった。

既に表の通りには人がちらほらと歩き始め、主婦だろう女性が着物の上に割烹着を付けて家の前に打ち水をしていた。

私も顔を洗いに下に向かおうと思い、廊下に出たところで惣佐さんと出くわした。


「おはようございます」

「……おう」


私が慌てて頭を下げると、惣佐さんの方は軽く手を上げて応じてくれた。

背丈が高いせいでか自分の部屋に向かう時に鴨井に頭をぶつけないように腰をかがめて入っていった。

私はそのまま急な階段をとんとんと降りると、そのまま台所の水道をひねり、軽く手を濡らした。

朝の冷たい水に手がしびれるような感覚を味わいながらもパシャパシャと顔を洗っていった。


「あらまあ、貴方が柳原先生の姪御さん?」


からからと勝手口の戸を開けて入ってきた中年の女性に私は慌てて手ぬぐいで顔と手を拭うと、お辞儀をしてから見返した。

人の好さそうな笑い皺のある女性で、目じりに黒子があって、古風な丸髷を結っていた。


「初めまして、柳原 笑美子と言います」

「あら、しっかりしたお嬢さんね。 柳原先生の姪御さんだって言うから、てっきりもっと剽軽な人が来るかと思ってたのよ。 吉田です、昼間はお手伝いに来てるから何かあったら言ってくださいね」


吉田さんはそういうと軽く世間話をしてくれた。

この路地から20分ほど離れた長屋に暮らしているだとか、叔父さんが普段は昼間では起きてこないからのんびりやっていいだとか、そういった類のことで私は素直にうんうんと頷きながらも少し首を傾げたくなった。


「叔父さん、作家なんですよね? そんな時間に起きて、間に合うんですか?」

「作家よりも代書の方が有名よ、柳原先生は字が上手だから」

「代書?」


そういえば、叔父が字が上手いというのは私も父から聞かせてもらっていた。

叔父が昔、実家に送った手紙も見せてもらったことがあったと思うが、小さい頃の私にはその字は模様のように見えて、ただ大小の差がなく均一に並んだ綺麗な模様が連なっているように感じた気がする。

それでも、代書という言葉には聞き馴染が無かった。


「手紙の代筆みたいなものよ、ここらの商店とかの挨拶状は大体柳原先生が書いてるの。 そろそろ入学祝いの手紙なんかも頼まれる時期だから、寝だめてるんでしょうね」


そういうと吉田さんは口元に手を当てて、楽しそうに笑っていた。

実家では挨拶状の類は全て父が書いていたから代書、という職業の存在は知らなかったし、叔父がそういった内職も受けているというのは少し意外だった。

代書、というものについて私はまだしっかり分かっていなかったものの、その日の午後になって、幸いにもその仕事をみる機会ができた。


「ごめんください」


玄関の戸を叩き、女性の声が聞こえてきた。

先程ようやく目を覚ましたばかりの叔父はまだ寝間着姿のままだったので、代わりに私が玄関に出た。

そこに佇んでいたのは三十になったかならないかという女性で、真っ黒な髪にパーマネントを当てて、耳にかけたモダンな佇まいをしていた。

モガ、と呼ばれる存在を初めて見た私は一瞬驚いてしまったが、すぐに「柳原です」と名乗って、要件を窺った。


「代書をお願いしたいの、蓮ちゃん、いる?」


女性はあっけにとられているような私を見て、くすりと笑うとすぐに要件を告げてくれた。

蓮ちゃん、というのは叔父のことだろうと分かるのには一瞬時間がかかってしまった。

というのも、父は蓮太郎、叔父は蓮次郎だから蓮ちゃんではどちらのことか戸惑ってしまう。

私が振り返ると、叔父は寝間着の上に軽い羽織をかけただけの姿で軽く微笑んでいた。

玄関から入ってくる柔らかい春の日差しの中で微笑む叔父は、線が細く、本当に顔だけならばそこらの役者よりよほど美しいと思えてしまった。


「まあ、円ちゃん、よお来たなあ。 まあ、中はいってえやあ」


間延びした京都弁と共にせわしなく手招きをして、いそいそ縁側に向かう廊下に向かっていく叔父の姿は本当に、顔だけなら二枚目なのだ、と言わざるを得なかった。

円ちゃんと呼ばれた女性はパンプスを脱いで、小上がりに上ると、そのまま縁側の方へと歩いていった。

私は昨日、案内された応接室に連れて行かなくていいのだろうか、と思いながらちらりと縁側の方を見た。

叔父は帳面を手に取り、片手には鉛筆を握っていた。


「今度は? また、恋文?」

「うん、そうなの。 でもね、多分、上手くいかないわ。 だって、あの人はまともな家の人だもん」

「そんなん大したことないよ、大店のボンボンやのに作家やってる僕が保証したるわ」

「蓮ちゃん、真面目な話よ」

「ごめんごめん、そんで、どんな人なん」


吉田さんが夕飯の買い物に向かっているので、私がお茶を出しに縁側に近寄ると、話し声が聞こえてきた。

恋文、という言葉に私は思わずどきりとした。

雑誌で恋愛、というものは読んできているけれど、そういうものは学校の先生たちもいい顔をするようなものではない。

やはり東京のモガは違うのだ、と思いながら、私は2人の側に近寄ってお茶を出しながら、聞き耳を立てるのを止められなかった。

はしたないことだとは思うのだけど、どうにも好奇心はままならないものだった。


「そうね、いい人よ。 優しくてね、私みたいな女にも親切で」

「へえ、ほなええ人やわ。 円ちゃん、気い強いから、勘違いする男ばっかりで文句いうてたもんな」

「その人は違うのよ。 とにかく、真面目に働いてて、今まで私みたいな女と遊んだことなんてないんでしょうね。 なのに、嫌な顔ひとつしない」


私はお茶を出し終わって、縁側から離れても柱の側からじっと2人の様子を眺めていた。

叔父さんはうんうん、と頷いて女性の話を聞きながら、時折帳面に何か書きつけていた。

女性の方は叔父さんと話しているうちに、その恋人のことを思い出すかのように笑顔になったり、遠い目をしたり、時々切なそうに眉を寄せたり、次々に話をしていた。


聞く限り、女性の恋人は誠実で真面目な会社員。 だけど、彼女は元々カフェーの女給をしていたから、ご両親はきっと自分たちの交際も結婚もいい顔をするはずがないとのこと。

いっそ駆け落ちでもと恋人に言われているという言葉を聞いたとき、私は思わずぎょっとして叔父の顔を見つめた。

叔父は何のこともないようににっこりと笑って女性の肩に手を置いた。


「円ちゃん、別れんときや、その人はええ人やねんから。 なんもかんも上手くいくよ」

「蓮ちゃんいっつもそうやって気楽に言うんだから」

「ええやんか、言うだけタダやがな」


叔父がそういうと、女性はそれまでの思いつめたような表情から、ふっと気持ちが晴れたように笑っていた。

誰かに聞いて欲しかっただけなのかもしれない、そう思いながら私はそっと廊下を後にした。


その日の夕方、夕食の後、叔父は書斎へと籠っていた。

夕飯を作り終えると吉田さんは帰っていき、私も近くの銭湯から帰ったばかりだが、昼間に訪ねてきた女性のことを思い出し、少し興味がわいて叔父に茶を持っていこうと書斎に向かうことにした。

書斎の扉を少し開けると、背筋をしゃんと伸ばして机に向かう背中が見えた。

墨の香りが柔らかく漂ってくる中、私はそっと中に入っていった。

なんとなく、声をかけては悪いように思えて、お茶を乗せた盆を手にしたまま私は叔父の背中を見つめていた。

叔父の手はよどみなく、すらすらと動き、何か書き物をしているのは分かった。

書斎の中は両側に大きな本棚が入り、その中に行儀よく綺麗に本が大量に詰め込まれている。

その中で、叔父の腕が動き、時折硯へと筆を動かす動作の静かな流れだけが繰り返されていた。

そのまま十分かそこら経った頃、叔父はふーと息を吐きだしていた。

私はそこでやっと声を出していいのだと感じた。


「叔父さん、お疲れ様」

「ああ、エミちゃん! どうしたん」


振り返った叔父にお盆の上で冷めてしまったお茶を差し出すと、叔父は軽く会釈をしてから湯飲みを受け取った。

私がちらりと机の上を見ようとすると、叔父は目ざとく私の視線を遮るように体を動かした。


「あかんよ、これはよそさまの手紙やからね」

「書いたんは叔父さんやん」

「僕は代理。 心はよそさまのもんやけどね、誰でもホメロスになれるわけやないんや」


そういうと叔父はくすくすと楽しそうに笑っていた。

後日、叔父の書いた手紙を受け取った女性はその内容を確認もしないうちに封筒に入れてもらい、投函を頼んでいた。

私はなんとなく、その姿が偽物の真心のように思えて少し、見も知らない女性の恋人に対して後ろめたい気持ちになった。

恋人が書いたわけでもない恋人からの手紙……何故、叔父がそんなものを喜んで受けているのか、私にはまださっぱり分からなかった。

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