『泉と老人』
それは、美しい少女だった。
ただ川沿いを散歩しているだけだというのに、金色の髪が風になびくだけで、川遊びや釣りに興じていた皆がその少女に目を奪われてしまうのだ。
けれどその美しさはどこか現実離れしていて……。
少女は静かに近くにいた若い夫婦の元に歩み寄ると、
「あの……」
ガラスの風鈴を彷彿とさせるような澄んだ声で話しかける。
「はっ、はい……」
「なっ、なんでしょう?」
男と女は、どちらも少し緊張した面持ちで少女の言葉の続きを待つ。
「あの! 川遊びもいいですが! いえ、本当にいいですし、ここの川を守っている精霊様はいい方ですが! 泉に興味はありませんか! ほらっ、斧を投げ入れてしまったら、貴方が落としたのは、金の斧か銀の斧かとか尋ねてきてくれる精霊様がいるあの、泉! イ・ズ・ミ! 実は川の水をそのまま飲むのって危険なんですよ! だって上流で動物が泳いでいたり、尾籠な話ですけれど糞尿をしたりしている可能性もあるんですから! ですが、この近くにある泉ならば、決してそんなことはないんですよ! 獣は入れないように結界を張っていますし、心の清い人間しか入ってこられないようにもしていますから! まぁ、そのせいで人が一人しか尋ねてきてくれずに何年も経ってしまって、私はこの上なく寂しいんです! もうその方も高齢ですし、私が力を込めた泉の水を飲んで寿命を長くしてあげると言っても頑なに飲もうとしないんですよ! だから、貴方方二人か、お子さんでもよろしいので、泉の新しい管理人になってくださいませんか! ほらっ、毎年アウトドアにこうして出かけて来られるのでしたら、その季節だけでもよろしいですから! そうしてくださるのでしたら、私だって張り切ってサービスしますよ! いえ、分かっています。今の時代は女性が美しくなるだけでなく、男性も見目に気を使う時代だというのは! ですから、寿命だけでなく、美容にも良い泉に案内しますね! ほら、行きましょう、すぐに行きましょう!」
少女は早口で言葉を言い続けたが、息が切れたのか、はぁはぁと肩で息をする。
そして、ものすごく期待に満ちた視線を若夫婦に向ける。
「いっ、いえ、その、そういうの興味ありませんので……」
「わっ、私も、川遊びをしているだけでいいかなぁ~。ねぇ、貴方?」
「うん、そうだね。ほらっ、そろそろ宿に戻ろう」
若夫婦達は子どもたちを川から上げると、すぐに後片付けを始めて、逃げるように去っていった。
そして、その際にはあれほど凝視していた少女ともう目を合わせようとはしなかった。
少女は釣りをしていた中年男性に声をかけようとしたが、彼らも何故かすぐに帰り支度を始めていなくなってしまった。
そして、少女一人だけがその場に残された。
「……ああっ、久しぶりにあの人以外の人間が近くに来てくれたのに……」
少女は絶望を顔に浮かべながら、その美しい顔を涙で濡らす。
けれど、少女は前向きだった。前しか向いていなかった。一点だけを見ていた。憧れていた。空想していた。泉の精霊である自分を、多くの人間が敬い、信仰してくれる未来を!
「やっぱり、セールストークがまだまだ足りないのね! うん! やっぱり町まであの人に行ってもらって、週刊誌をまた仕入れてもらわないと!」
少女は涙を拭い、より一層の努力をしようと決意するのだった。
◇
照間清隆は、毎日の日課をこなし、いつものように最後にその泉を訪れる。
健脚だった足も、六十の半ばを過ぎては老化によって辿々しいものになってきてしまっているが、それでも彼は、雨の日だろうが風の日だろうが、この泉に来なかったことはない。
台風が来るときでさえ、決してなかったのだ……。
泉の側までやってくると、不思議と周りの天候は関係なくなり、温かで心地良い春の陽気に包まれる。
だからこそ、台風でもこの泉の側までくれば大丈夫なのだ。
「ほらっ、娘っ子。今日は街に出てドーナツを買ってきたぞ」
清隆が皺の刻まれた顔を破顔させ、立派に整地された誰も居ない美しい泉に声を掛ける。
すると、泉の上に、金色の髪の愛らしい少女が現れた。
「わっ! 清ちゃん、ありがとう! もちろん、私の好きなフレンチクルーラーはあるよね!」
やたらと元気のいいこの娘は、嬉しそうに清隆に近づいてくる。
「ああ、それと、いつもの週刊誌も買ってきたぞ」
「わーい! ありがとう、清ちゃん。やっぱり、持つべきものは良い信徒だよね」
清隆の持ってきた週刊誌を受け取り、ドーナツの入った箱からお目当ての品を手に取った少女は、嬉しそうに、そして美味しそうにそれを頬張りながら、週刊誌に目を通し始める。
清隆は近くの石に腰を下ろして目を細めて見守る。
清隆と少女の出会いは、もう三十年以上前になる。
祖父が亡くなり、その所有していた山を受け継いだ清隆が、現地にやって来てたまたまこの姦しい少女の本体である泉に行き着いたのが始まりだった。
その際に、
「えっ! 貴方人間! 人間よね! 生きている人間よね! 幽霊とかではなくて、生身の人間よね! うん、その血色の良さと陽の気は間違いなく生きた人間だわ! ああっ、素晴らしい! 私はこの時を待ち望んでいました! あっ、貴方は精霊様を信じていますか? いえ、答えは聞かないわ。だって、愛らしいこの私を見て、もう私のことを信仰したくてたまらなくなっているはずだものね! というわけで、貴方を栄えある私の、泉の精霊の信奉者第一号に任命します! さぁ、私を褒め称えて、敬い、感謝と祈りを捧げなさい! そして、信者をどんどん増やして……。
あっ、待って、帰ろうとしないで! 今なら入信特典として、若返りの水とか、ええぃ、持ってけ泥棒! 不老不死の水だって作ってあげちゃうから、私を一人にしないで! 何百年も待ち続けたんだから、この出会いを大切にしてよぉ~!」
とてつもない早口で訳のわからない勧誘を受けた。
正直、山の麓に住んでいる頭のおかしい女の子が変な遊びをしているのかと思った清隆だったが、少女は本当に泉の精霊だったのだ。
それから、清隆は彼女の押しに負けて、この山の管理をするために仕事を辞めてここに移り住み、毎日の日課を決めて、それが終わってから泉を訪ねるようになったのだった。
「あれから、もう三十六年か……」
清隆にはつい昨日のことのように思えるが、年月というものは確実に過ぎている。変わらないのは、この姦しい少女の姿だけだ。
もっとも、彼女の本体である泉は、清隆によって整備されて立派な外観になっている。
まぁ、なぜかはよくわからないが、西洋かぶれな少女の注文のとおりに整備したせいで、神聖で厳かな雰囲気などはない。
そのうえ、その西洋っぽい様式なのに、これまた彼女のリクエストで、『商売繁盛! 健康長寿! さぁ、素晴らしい泉の精に感謝をして、信徒を増やしましょう!』といった内容の紙が、少女の形のモニュメントのプレートに挟まれている。
ちなみに、そのモニュメントを作らされたのも、字を書いたのも清隆だ。
「清ちゃんも食べようよ!」
週刊誌から目を離し、二つ目を食べようとしていた少女が、そう言ってドーナツを差し出してくる。しかし、清隆はそれを断った。
「済まないが、クドくて胃がもう受け付けな……」
そこまで言ったところで、清隆は咳き込んでしまう。そして、彼は吐血してしまった。
「清ちゃん! なんで血が……。まさか、病気?」
「……ああ。済まないが、医者の話では、あと一年もすれば、死んでしまうらしい」
清隆は笑って言い、口元を手の甲で擦る。
「もう! 早く言ってよ! そんな病気くらい、私の力で治してあげるんだから! それと、若返りの水をいい加減飲んでよ! 清ちゃんには、まだまだ元気で居てもらわないと困るんだから!」
少女はそう言うが、清隆は首を横に振った。
「いや、それはできん。そして、悪いがここに来るのは今日で最後だ。毎日の日課をこなすだけでも、今の俺には精一杯だからな」
清隆はそう告げると、静かに立ち上がって少女に背中を向ける。
「ちょっ! ちょっと待ってよ! いきなりそんな事をいう事ないでしょう! それに、私のところにも毎日来てくれていたじゃあないの! それだって日課でしょう?」
「違う。俺はここに来るのを日課だとは思っていなかった。だから、すまん……」
「いや! 嫌だよ! 清ちゃんともう会えなくなるなんて!」
少女がそう言ったが、清隆はそれ以上何も言わず、そのまま泉から立ち去っていったのだった。
◇
……私の初めての信奉者が、清ちゃんが亡くなった。
一年と言っていたけれど、彼は半年ほどで命を落としたのだ。
それは、病が進行してからも山の神様にお参りに行き、供物を捧げて帰るという日課を続けたことが原因だったようだ。
私は悲しくて仕方がなかった。
けれど、それと同じくらいに悔しかった。
だって、清ちゃんは私と会うことよりも、山の神様に会うことを優先したのだから。
「きっと、清ちゃんは同情してくれていたんだ。一人ぼっちの私に……」
彼の心はきっと山の神様に向けられていたのだ。だからこそ、余命幾ばくもないときでさえ、『日課』を欠かさなかったのだ。
それはそうだ。
精霊は所詮神様には叶わない存在に過ぎないのだから。
うん、そうだ。きっとそうだ。
だから、私も清ちゃんのことは忘れよう!
彼は同情で私に付き合ってくれていた人に過ぎない。
私よりも神様を選んだひどい人なのだから。
そう思ったのだけれど、私の瞳から止めどもなく涙が溢れてくる。
そして、浮かんでくるのは、清ちゃんとの楽しかった思い出ばかりだ。
「ああっ、そうか……。私、幸せだったんだ。清ちゃんがいてくれたから、他に信徒がいなくても」
失って、私は初めて気がついた。どれほど私にとって清ちゃんが大切な存在だったのかと。
そして、私はまた一人に戻った。
一人ぼっちになってしまったのだ。
相変わらず、新しい信徒は見つからず、山に来てくれた人間に私の巧みな話術を持って勧誘しても、逃げられるばかりで……。
そして、その事を大して悲しく思わない自分に気がつく。
もしも新しい泉の管理人が見つかっても、それは清ちゃんじゃあないと思うと、やる気がでないのだ。
「ううっ! 清ちゃんの馬鹿! なんで私じゃあなくて、山の神様を選んだのよ!」
私はつい感傷的になり、文句を口にしてしまった。
もっとも、こんな事を言っても誰の耳にもこの言葉は届かない……。
「うるさいなぁ。俺にだって都合ってものがあったんだよ」
えっ?
この声って?
私は慌てて声のした方を振り向く。
そこには、清ちゃんが立っていた。
けれど、私の知っている清ちゃんではない。もっとずっと若い。私が初めて清ちゃんに出会ったときよりも。
「よう、待たせてしまったな。元気にしていたか、娘っ子」
今までと変わらない口調で、清ちゃんが話しかけてくれる。
「清ちゃん! どうして? 死んじゃったはずなのに?」
「ああ。たしかに死んだよ。だが、この森の神様にお願いをしていたのさ。俺が死ぬまで供物を捧げてお祈りをする日課を続けたら、俺のことも精霊として生まれ変わらせて欲しいとな」
清ちゃんはこともなげに言う。
「どうだ? 人間として長くお前のそばにいるのも考えたが、俺はそれ以上の近い距離でお前と過ごしたかったんだ。だから、日課をやめるわけには行かなかった。お前との逢瀬を、デートを我慢してもな」
その上、こんな気障ったらしい言葉まで言う。
悔しい。きっと何度もこの状況を想像して言葉を考えていたな!
「もう! 清ちゃんの馬鹿! 私に惚れていたのなら、素直に言いなさいよ!」
「いやぁ、年が年だから、みっともなくてな。だが、今の俺ならお前の側に居てもおかしくないだろう?」
あまりにも話の主導権を握られて悔しかった私は、清ちゃんにすっと近づいて、不意打ちで口づけを、キスをしてやった。
これには清ちゃんも顔を真っ赤に染める。へへ~ん。いい気味だ!
そして、私は、いいえ、私達は、二人で泉の精霊になった。
その後、この泉が人間に発見されて、恋愛成就、子孫繁栄、若返り、健康の泉として有名になるのは、これからまだだいぶ後の先の話。
でも、良いんだ。私は幸せだから!