プロローグ2:「知っている場所」での急患
プロローグの2話目です。
テレーゼが急患に対応します。
5月3日 患者様来院直後の視診で「肩を張るとことが」→「肩を張ることが」の部分の修正を行いました。
昼食休憩が終わって午後の勤務に入る。
本日、お世辞にも患者様の来院が多いとは言えないが、夕方になり、当院にサラリーマンの急患が来院された。
前屈みで肩をすぼめ、両腕を組むように腕を固定しつつ、右手で左肩の前部内側を押さえて来院されたことから、左鎖骨を骨折したものと思われる。
早速問診を行う。
帰宅途中、左側が道路工事で道幅が狭くなっていた道路を右寄りに歩いているとき、後方から走ってきた車を避けようとして、勢い余って道路側にはみ出した電柱に右肩を強打したとのことだった。
次に視診と触診を行う。
問診、視診、触診を「三診」と言い、患者様の容態確認の基本である。これに打診、聴診を加えたものを「五診」という。
基本的に柔道整復師の場合、「三診」を用いることが多いが、打診や聴診についても、専門学校の授業で習得しており、患者様の容態により用いる機会もあるため、あくまでもケースバイケースといえる。
なお、患者様が来院された直後の歩容(歩様とも書く。歩いている様子のこと。)を確認することは、前述の「視診」そのものである。テレーゼの推察について作者が彼女に代わり具体的に解説する。
・前屈みで肩をすぼめ:肩を張ることができない理由が存在する。
・両腕を組むように腕を固定:腕を動かすことができない理由が存在する。前述の症状と共通の理由と考えられる。
・右手で左肩の前部内側を押さえている:手で押さえているのは左鎖骨付近であり、痛みがある部分を右手で押さえている。つまり、左肩を張るような・左腕を動かすような動作を行うとき、左鎖骨部分が痛むのであれば、そこが骨折しているのではないか?という結論である。
以上の症状と判断理由から、テレーゼは患者様が来院直後の段階で、左鎖骨骨折であることをほぼ認識していたことになる。
余談であるが、テレーゼが問診後以外にも、来院直後から注意深く歩容などを確認する「視診」を行っていたのは、専門学校在学中に教わった恩師の「患者様が来院される動作や仕草には、患者様の容態を把握するヒントがふんだんに含まれている。それを当たり前のように汲み取れてこそ一人前の柔道整復師だ。」という言葉に深く感銘を受け、常々実行しているからである。
恩師の言葉の有用性に関しては、前述の患者様の例を持ち出すまでもないことであるが、今の彼女が、かつて教わったことをきちんと咀嚼して、自分の糧として昇華している証拠と言える。
閑話休題。テレーゼ本人に視点を戻す。患者様の容態を確認した結果、左鎖骨の骨幹部(骨の真ん中寄りの部分)が骨折し、骨が転位(折れた骨が元の位置からずれていること)しているが、幸い皮膚に損傷がなく複雑骨折でないことが確認できた。
なお、右肩は打撲していたが幸い骨折していなかったことから、患部を冷やすため、冷湿布を患部に貼り急性期の炎症緩和を行うことにする。
患者様が右肩を強打したのにどうして左鎖骨を骨折したのか?と疑問に思われる向きもあるかも知れないが、可能性としては比較的起こりうる骨折である。
発生機序(骨折が起こったメカニズム)としては、右肩を強打した外力(骨折を起こさせる力)が右肩から身体の左側に伝わり、比較的脆弱な部位である左鎖骨が外力により骨折した、ということである。
これを介達外力による骨折という。
因みに、右肩の強打で右の上腕骨なり肩甲骨なりを骨折していたら直達外力による骨折という。
要は間接的な力(介達外力)による骨折か直接的な力(直達外力)による骨折か、の違いである。
患者様にインフォームド・コンセント(この場合、骨折の説明と治療方針に同意を得ること。)を行い、早速骨折の整復(折れた骨を元の位置に戻すこと)を開始する。
助手には、椅子に座った患者様の左腕を、胸に引き寄せるような状態を保持してもらい、患部を弛緩させた状態にして、その間に骨折した鎖骨を慎重に元の位置に整復して、テープやガーゼや包帯で固定する。
そのあと、三角巾で左腕を固定して終了である。
もちろん、これらを全て愛護的に行うのは、今回に限らず全ての施術における鉄則である。
因みに、整復した骨折の固定だけでなく、三角巾で骨折していない左腕の固定も行った理由であるが、左腕を動かすと固定した鎖骨の骨折部が再転位してしまうので、それを防ぐためである。
再転位とは、骨折した骨を元の位置に整復したあとで、何らかの理由で骨が再度ずれてしまうことを指し、そのまま放置すると骨折がきちんと治癒せず予後が悪化する。鎖骨骨折は、骨折の中でも再転位の危険性が高い骨折の1つである。
施術後、患者様には提携の整形外科での早期受診と、今後のリハビリテーションを当院で行うことを整形外科に伝えて欲しい旨を説明し、次回の来院予約もしてもらう。
因みに鎖骨骨折は全治3ヶ月程度であり、その間の経過観察とリハビリテーション(リハビリ)は、予後に強く影響するため、非常に重要である。
リハビリテーションとは、受傷した身体の機能回復を図る訓練のことであるが、本来は「復職」「復権」「名誉回復」といった意味があり、これが転用されて現在のように医療用語として用いられている。
接骨院の受診後に、提携の整形外科の受診を患者様にお願いする理由であるが、接骨院受診には患者様が医師の承諾を口頭なり書面なりで受ける必要がある(急患時は一刻を争うため、順番は先に接骨院を受診しても構わない)のと、接骨院と病院で患者様の容態をダブルチェックすることで、万全を期すためである。
前述の通り、人体の構造に通暁する柔道整復師が、患者様のリハビリテーションを行えることは、職業的なストロングポイントの1つであり、それ故に、提携の整形外科が時間外で、病院に来院できない患者様のご紹介を受けることもあるため、病院と良好な関係を構築することは、相互補完に繋がり非常に重要である。
ここまで話を読まれて、骨折の整復は案外簡単じゃないの?という認識を持たれる方がいたとしたら、それは大きな間違いで、無資格者の施術は、患者様を危険に晒すことと同義であり言語道断である。
但し、骨折した人がいたら、病院や接骨院への搬送の前に、骨折部分に添え木を当てて固定することは強く推奨する。
患者様の骨折による疼痛(痛みのこと)緩和や、骨折の転位が大きくなることを防いでくれるからである。
あと助手には常々話しているが、柔道整復師とは、マッサージだけでなく骨折や脱臼の整復をはじめとした外傷の施術が行えてこそ、その価値がある、ということである。
極論すれば、いざというときに対処できる技術に乏しい接骨院は、現状の過当競争の中で生き残りにくいことは誰が見ても自明である。
当院の経営は決して楽ではないが、本日の骨折の整復で、改めて有事に備えて己を磨く気概が大事だと感じた次第である。
正直な話、急患の骨折の整復よりも、建物ごと「知らない場所」に移動していたことがあまりにも衝撃的だったが、そこは口癖が「レッツ・ポジティブ・シンキング!」の彼女らしく、(「国境」問題は、自室側が違う世界であることを知られなければ当面は何とかなるだろうし、明日からどんな患者様が来院して下さるかな?)などと、両親が国際結婚をしたという思い切りの良さは娘にも強く受け継がれており、「知らない場所」への順応性はなかなかのものであった。
最後まで読んで下さり、ありがとうございます。
次話は、テレーゼの身に降り掛かったことに対しての思索回です。もしよろしければお付き合い下さると幸いです。