宇宙猫・結
「まあ補足するとだな」
私が文書を読み終えたのを察してか、目の前の男が口を開いた。その瞬間、私は口から涎が垂れていたことに初めて気付いた。そして、これを読んでいる間、殴られたことも攫われたことも、ついさっき見聞きしたこと一切を忘れ去っていたことに気付いた。男はこちらの用意が整うのを待つように見つめてきた。
「対X-qの免疫血清が作れなかったのはな、動物には効かなかったからだ。遅かれ早かれテロメアが消え失せて死ぬ。だから抗体ができることはないが、ジョーンズはアナフィラキシーショックで死んだ」
どうやら、そのジョーンズこそ私が死因を探していた猫のことだったらしい。だが、もうそんなことはどうでもよかった。私は呆然として男の話を聞いていることしかできなかった。
「G-90という悪魔が現れてからというもの、政府はそれを抑え込むことに躍起になったが、イタチごっこだった。兵士が傷つき、感染し、そのためにまた兵士が送り込まれた。空爆前日には、感染者は200人以上になっていたらしい。だが、そこまでだった。軍は三日三晩ミサイルの雨を降らせ、連中を街ごと焼き払った。その中に健常者がどれだけいたかは知らないがな」
そう言ってにやりと笑った。私は微動だにしなかった。いや、できなかった。
「作戦が終わって、誰もが安堵した。もう人が喰われるなんて馬鹿げた事態は起こらないとな。だがその頃にはもう、取り返しがつかない程にX-qが蔓延していた。国全土に広がってたんだろう。そこで初めて、X-qの存在が世の中に明るみになった。
パニックだ。国中が荒れに荒れ………隣国は国境を封鎖した。別の国はウイルスの拡大を防ぐために発生源を叩きのめす必要があると主張し、ハルガマダ連邦王国の都心部に強硬に熱核爆弾を打ち込んだ。その一発で王国の国家機能は壊滅しかけたが、それでも報復に出た。そこからは戦争だ。ためらいもなく核兵器を撃ちまくるような戦争が長らく続いた。第三国までX-qの感染が広がっていることが分かると、その国も戦争に巻き込まれて、目的も忘れて争った。そして焼け野原だけが残った。煙る空の下で、人類はトカゲを追いかけ、鳥に石を投げるような生活を送った。
だが、その後に1つ変化があった。ウイルスとの共存だ。我々の細胞と内臓を死に至らしめるという恐るべき病は、長い年月を経るにつれて徐々に人間社会に溶け込み、やがては受け入れられた。『寿命』と名を変えてな」
私はいつの間にか失禁していたが、それももう気にならなかった。
「ここまでが、今から約2300年前の話だ。そして」
男は上を指差した。
「ここの真上にいるのが、ビリー・ブラウンだ。現存する唯一のG-90感染者。奴は治験に参加したことで死を免れた。その代償は見ての通りさ。今ここにいるのは、X-qに感染してない人間を絶滅危惧種みたいに保存しようっていう有志団体に保護されてきたからだ。そして、スウィンガーはその最後の一人になった。奴は今でもワクチンを作ってる。俺はその実験台だろうな。」
上を見上げてみた。天井しか見えなかったが、発電機の音に混じってかすかにブラウンの足音が聞こえる気がした。
「上の檻を見ただろ?壁全面に電熱線がびっしり張ってある。ブラウンは壁を壊せるからな。俺はここに20年くらい住んでるが、確か7、8年くらい前まではこの牢屋は奴が使ってた。それでこの通りさ。」
そう言って、男は鉄格子を差した。等間隔に並ぶ鉄の棒が、一か所だけ波紋のようにうねり、人一人分の隙間を空けている。
「奴をこの真上の牢屋に押し込めた時、スウィンガーは俺を囮にした。これはその時の傷だ」
男の右腕の包帯を見た。7、8年間巻きっぱなしだったのか、変色してなにやら汁が垂れていた。
「だがもうこれで安心だ。凶暴な感染者が檻から出てくることはない。そう思うだろ?」
男はそう言って私を見た。私がその意図を測りかねていると。男はため息をついた。
「鉄格子を含め、四方の壁に高熱を流せば奴は触れられない。壊せないし、出られない。だが、一か所だけそれが通じない場所がある。どこか?床だ。文字通りの落とし穴ってわけだ。足場まで焼いたら生活できないからな。俺たちは、奴がそれに気づかないことを祈るしかない」
その瞬間、爆発のような音と同時に牢屋全体が揺れ、私たちは天井に視線を奪われた。そこが音のした方向だった。再び爆発音。そして振動。すぐに理解した。ビリー・ブラウンが床を壊している。だが私も男も、逃げるどころか座って天井を見つめたまま、ピクリともしなかった。激しい音と振動が繰り返し牢屋を震わせ、天井からは塵が降って来た。それでも私たちは動かなかった。その理由は今でも分からない。そして、数秒後に天井は崩れ落ち、瓦礫と共にビリー・ブラウンが私の目の前に落ちてきた。
そのあと私の身に起こったことは言うまでもないし、その内容ゆえ、詳細をここで述べることは差し控える。ただ一つ、おかげで分かったのは、眠りに落ちる瞬間と同様、死ぬ瞬間もまた認識不可能だということだ。