宇宙猫・プロローグ
18世紀の政治家ラオプルトスの提唱した思考実験が、彼の晩年の著書に記されている。彼はその後サインド派神学者に暗殺されたという噂もあるが、真相は定かではない。
例えば、資本主義国家が一つあったとする。その国の国民や政治家は、殆どが資本主義者で構成されている。だが全員がそうとは限らない。中には共産主義者や、その他様々な思想を持った国民や政治家が多少なりとも含まれていることだろう。
そんな状態で、資本主義者が国から一人減ったとする。それだけで国の資本主義が滅びることはなかろうが、さらにもう一人減らしてみる。また一人。資本主義国家から資本主義者が減り続けた場合、一体何人減った時点でその国は資本主義国家でなくなるだろうか。少なくとも資本主義者の数が共産主義者のそれを下回れば、その国で資本主義の時代は終わりを告げるだろう。では同数になった瞬間ではどうか?あるいはまだ資本主義者の数の方が多い時でも、その差がたった2、3人になったら?その他全ての国民を資本主義の制度に縛り付けることはできるのか?
では逆に、一人の資本主義者がいたとする。そこへもう一人の資本主義者がやってきて、二人は意気投合する。やがて、二人に共感する人々が周囲に集まり、次第に大きな資本主義のグループが形成される。だが、時には資本主義に批判的な思想を抱く者も現れる。そういった人々はグループに入り込むと、資本主義者を説得して自らの思想を植え付けたり、逆に自らが資本主義に染まったり、といった変化をもたらす。この状態が続いた場合、どの位の人間が集まれば資本主義国家が創立されるに至るだろうか?
これら2つの問いに共通する答えは「不明」である。ラオプルトスはこの思考実験を通して、「客観とは主観の集合体である」と主張した。現在客観的事実として知られている物事は全て、それが正しいと「主観的に」認識している人間が集まった結果に過ぎないのである。
この例を用いれば資本主義を是とする国家は資本主義者の集まりと捉えられるが、元来国民でない資本主義者を寄せ集めたところで「主観の集合」が「客観」に変わる正確な瞬間を特定できない限り、何人集まろうとも理論上資本主義国家は誕生し得ない。政治学・経済学と同様に解析学の研究にも熱を注いでいたラオプルトスはこれを「極限の悪魔のトリック」と呼び、形而上学の根幹を否定することを試みた。そして、その年内に彼は亡くなっているのである。
だが、もし仮に、より広い視野を持ち、より柔軟にものを考えることができていれば、彼は死ぬ前により多くを理解していたことだろう。あなたの見上げた天井も上から見れば床であるように、あらゆる真逆の存在は常に隣り合っているものである。理不尽な現実を受け入れ、異なる側面から我慢強く物事を観察していれば、あるいは私の迎えた結末も少しは良いものになっていたかもしれない。