6-4 月のウサギ
ベリーの表情は、ゆがみきっている。
「おい、シュテッタ、えらい騒動だったみたいじゃないか」
「フラウ」
不定期でシュテッタの淹れるお茶を飲みに来るフラウ、その日もどこで仕入れたのか裏情報を持ってきたのだが、珍しく手土産品を携えていた。
「なに、それ?」
「月面の旅行土産さ。アンティークっちゅうほどのもんでもない、雑貨だな」
「そう云えば、フラウって表向きは月面の雑貨やなんかを売ってるんだっけ?」
「表向きは、な」
フラウが小箱をテーブルに置き、シュテッタが開けると、月の石や月面の灰のような砂を融かして作ったウサギの置物だった。
「ウサギ?」
シュテッタが、不思議そうにそれを手に取った。
「なんでウサギなの?」
「ああ……」
フラウが、その大きな身体を小さなテーブルへ預けながら、
「このカナーデル東部の古代伝承でさ、月にウサギが住んでるって」
「ウサギぐらい、いるでしょ?」
「ちがうちがう」
フラウ、優し気な顔で苦笑。
「もっと大昔さ。月面に、人が住んでなかった頃の。地球から見る月の模様が、ウサギに見えたんだって」
「ウサギに? そうかなあ?」
シュテッタは、笑いながら湯を沸かし始めた。
「世界中でカニとか若い女の横顔とか、いろいろあったんだって。それで、いろんな種類のやつを作って売ってる」
「へんなの。きょうは紅茶でいい?」
「いいよ、何の紅茶?」
「いっつもマンオークだけど、珍しくヨールンカが売ってたから」
「ヨールンカって、紅茶作ってたんだ?」
この時代、気候が変動し、人類生活圏の移動や集約もあって、高層集積都市以外で暮らす人はほとんどいない。それは、農家や畜産、漁業従事者も例外ではなかった。巨大高層都市内に、農場や牧場、養殖場がある。もしくは、大規模な農業・牧畜・漁業専用高層都市型プラントがあった。
実際に地面や海で栽培・採集される第一次食糧は、オーガニック素材として非常に高価なものになっており、超特権階級のみが口にすることができる。
ちなみに、味や栄養価などは、あまり変わらない。
むしろ、天然土壌や海洋、湖沼、河川、さらには空気にすら前西暦時代の汚染物質がまだ残っており、忌避する者もいる。
それでも、純粋に「ステータス」を求める層は、いつの時代、どこにでもいた。
さて、煎茶は六〇℃ほどで淹れるが、紅茶は沸騰湯で淹れる。そうしないと、茶葉が開かず味も香りも出ない。シュテッタはどこで習ったものか、とても茶を淹れるのがうまく、フラウはいつも感心した。
「今日はさ、クッキーを焼いてきたんだ。ちょうどよかったな」
「ホント? ありがと」
ティーポットとカップを盆にのせ、シュテッタがキッチンよりダイニングに出る。
それから夕方まで世間話に興じ、二人で買い物にでかけ、二人で夕食を作って食べ、それからフラウは帰宅した。
その、たった数時間後……。
深くねむりにつくシュテッタの寝室に、月の石を加工したウサギがあった。
ウサギから、微かに魂魄子の痕跡が立ち上っている。
それは、かつては「念」などと定義されていたものに似ていた。
あまりに薄く、かつ小さいもので、特別な探知プログラムが無いと、とても感知できないレベルだった。
それを辿って、次元の裏からゲントーがシュテッタへ近づいた。
一口に「次元の裏」と云っても、三次元的に認知すると無数の層があり、単に位相空間転移・次元反転法プログラムが組まれているだけでは、とてもその全てを瞬時に把握して隠れている敵を見つけることなどかなわない。超高性能の専用次元監視ユニットか、アンデッドであれば二型の中でも、その力に特化していなくては、認識すらできない。
ヨールンカでリリとピーパがゲントーを発見・攻撃できたのは、ゲントーが次元の「非常に浅い層」にいたのと、コンダクツによりゲントーをとらえるマーラルの補佐があったからだ。
いま、ゲントーはマーカーを頼りに深深度を航行する潜水艦めいて次元の奥深くよりシュテッタの精神深層へ接触した。