ヘルプヤクの魔女
「イフ・ケイク・ワン――」
木漏れ日が差し込む、暗い森の奥深く。
そびえる木々は多いが、陰鬱な雰囲気はない。
天を見上げると、爽快な青い空と、紋様を浮かべる碧い空。
異なる青色が、明確な境界線を分けて広がっている。
そうした二色の天の下。明かりは乏しいが、明るい森のなかでも。
一人の魔女と、大勢の美女とが、立ち位置を分けて向き合っていた。
「……こんにちは、万命の令嬢の皆さま」
森林の一角。一軒だけポツンと建っている継ぎ目のない茶色の木製家屋の前で、高めに結った白銀色の一本髪を背中に下げて揺らす、真っ黒な姿の女。
美しい銀髪の下には、鮮やかな深紅宝玉のブローチを首元にハメ込んだ黒絹のローブ。ささやかな陽光に照らされた表面は、うっすらと輝いて見える。
「……今日もいい天気ですね」
意志の宿る浅緑色の両目には、派手めに強調されたアイライン。
整った小鼻は愛らしいが、一文字に閉じた無愛想な唇は寡黙のそれ。
生気を感じさせない乳白色の素顔も、まるで調度品の陶器人形のよう。
その装いを一言で表すのなら、森に潜む「銀髪の黒魔女」の姿。
そんな魔女が今、両目を薄く閉じ、唇を固く結んで。
眼前に立つ大勢の美女たちからかけられる、優しい声に耳を傾けていた。
「ナビ、こんにちは」
「おはよー、ナビぃー」
「今日も命ゴイはいい天気だねえ」
「ナビナビぃ、これあげるー」
「ねー、ナビもお城にいこーよー」
「ナビ、次はどこ行ったらいい?」
形容するならば、それらの声の発信源は美女そのものだ。
けれど、正しくは人型。女の形をしただけの魂なき亡骸たち。
彼女らはみな一様に、豪奢なレースで彩ったドレスや、華美なプロケードで仕立てたマントで身を包み、才気あふれる才女のような雰囲気をまき散らしている。
そうでなければ、普通の社会的動物にそのような姿はできっこない。
ここがもし、生命が育まれない、数式で作られた仮想世界でもなければ。
「……あらためて。今までずっと、ありがとうございました。令嬢の皆さま」
お礼を口にした魔女に反して、美女たちの姿形には、明らかな違和感。
彼女らの顔面や身体にはところどころ――。
波打つ海のように不規則に揺れる、骨格。
刺繍を貫いたマチ針のように尖る、皮膚。
曖昧な境界線で混在する不自然な、体色。
人体の構造としてはありえない、破損のようなものが見て取れる。
そして、それは文字通りの破損だった。
現実世界ではありえない物理現象にすら見える、それは。
ここ「十三皇騎士ノ命ゴイ」のゲーム世界では。
いわば、テクスチャ破壊のバグと称されるべきもの。
「……決心しました。森を出ます。あの黒い天塔まで、少し旅をしてきます」
一人、沈痛な面持ちをした魔女が顔を正面に向けたまま一歩、二歩と後ずさり、美女たちと家屋から距離を取る。面に浮かぶ情は恐怖ではなく、悲哀。
ものを知らぬ幼子が、保育園の入口で母と引き離されるときのような顔。
一方で。
「ナビ、こんにちは」
「おはよー、ナビぃー」
「今日も命ゴイはいい天気だねえ」
「ナビナビぃ、これあげるー」
「ねー、ナビもお城にいこーよー」
「ナビ、次はどこ行ったらいい?」
家屋の前ではずっと、大勢のきらびやかな風体の美女らが同じ発言を繰り返し、落ち着きのない少女のように上半身を動かして、愛想を振りまいてくる。
けれど腰から下、両足はいっさい動いていない。全員が全員、下半身を微動だにすることなく、顔面と両腕だけで、同じ言葉を魔女に投げかけ続けていた。
まるで、意識と両足が壊れた不気味な人形劇のように。
それら美女たちの背後に、不可思議な紋様を浮かべる碧い波が迫る。
それは天空も木々も地面もすべてを塗り替える、壁のような碧波。
それが徐々にかしましい美女たちを、魔女の一軒家を飲み込み。
「…………さようなら、よき日々を。私の、わたしの……たくさんの――」
水分なき涙をこらえるようにして、魔女がキッと目を上げると。
視界にはもう、先ほどまで存在していた美女の姿も住み慣れた家屋もなく。
ただただ、さざ波のように不安定に揺れては迫る、碧い波だけが映った。
サディスティック恋愛オンラインRPG「十三皇騎士ノ命ゴイ」。
略称「命ゴイ」。ちょっとサディズム嗜好な女性向けMMORPG。
体感没入型の意識接続機能「ALR」(オール・リアリティ)対応。
サービス開始は、二〇六一年の十月。半年後には大型アップデート。
サービス終了は、二〇六二年の十二月。一年二ヶ月ぽっちの提供期間。
コンセプトは”十三人のイケメン騎士を音声バトルで屈服させて辱めてやろう”というもの。この世界は、ドSな女たちが意識と全身をそのままゲームに投影して、普段はさらけ出せない本性のままに罵詈雑言を言いまくれる自由さで。
圧倒的なゲームバランスの悪さから、敵たる皇騎士らが抗することはかなわず、言葉の精神ダメージで「くぅ!」だの「グァッ!」だのと散々うめかせられ叩きのめされ、地べたに這いずるおしおき姿を衆目に晒されネットリとニヤニヤされる、「NPC」(ノンプレイヤーキャラクター)相手ながらも業が深い内容で。
さすがにあんまりなテーマの先鋭さと、コア層の少なさにより先細りし。
どの時代でも珍しくはない、早くにお亡くなりになった運営ゲームだ。
この世界はもう終わった。人たるプレイヤーは誰一人として存在しない。
この森に残された者もたった一人。ゲームのチュートリアル役を担い。
今まさに逃げだそうとしている、ヘルプヤクの魔女「ナビ」だけだ。