雨が
濃い緑の葉の表全体にびっしりと露がついていた。泣き雨は通り過ぎ、薄墨色の紗がかかったようであった天には今、その詫びをするかのように虹の橋があった。何か、暗いところに置いて来た罪を許してくれそうな、そんな空模様が人々の心を少しだけ優しくさせた。寛容な許しに人はほっと安堵し、そして人にもまた寛容になる。そういう心の機微の仕組みが人間にはあった。ある人は、もしかしたらあの時あったかもしれない幸福を思い、ある人は深沈とした思考に沈み、解き放ってやれば良かったと思った。想いの連鎖が地球という小さくて大きな星の上に王冠のようにして輝いている。女の手を引く男の手は大きくて少しざらついていた。けれど、その温かいことが女の唇を綻ばせた。二人共、濡れていたので、近くの旅館に入った。家は、双方に遠かった。心の距離においても。家が帰るべき場所と言うのであれば、彼らにはもう家がない。背を向けてしまった。逃げるように。いや、正しく逃げて来たのだ。風呂を使った二人は人心地ついた。部屋に置いてあった浴衣を着て、双方の身体から、温もりが湯気のように立ち昇っている。男は女の手首を掴んだ。決して荒っぽくはなく、花に触れるような慎重さで。女は男の胸にしなだれかかった。
「雨が」
また降り始めたと言おうとした女の唇を、男は塞いだ。女は息が止まりそうだった。男に殺されると思った。思って歓喜して応えた。女は自らするりと片肌を晒した。旧家に嫁いだ女はそこで雁字搦めにされた。悪い夫ではなかった。だが万事に厳格で、何より年が離れ過ぎていた。初めてを老年の夫に捧げた女は、心を殺す術を覚えた。なのに、今、目の前にいる男が、まるで春の嵐のように現れ、女の心を別の意味で殺してしまった。男と女の浴衣は乱れてそのほとんどが畳の上にはんなりと落ちていた。足と足が触れるだけで、初心な少女のように赤面してしまう自分を、女は別人であるかのように感じた。男はもう、女を離したくなかった。ずっと高根の花だと思っていた。手折ることの許されぬ姫百合のような女の夢は、夜毎、男を苦しめた。婚約者がいたが、心に違う人が住んでしまったと言って別れた。相手は泣いていたけれど、こればかりはどうしようもなかった。女の声は歌のようであり、泣き声のようであり鳴き声のようだった。肌と肌の区別がつかない。ここまで融解してしまっては。男は女の肌が練り絹のようであることに驚いていた。きめ細かいとは思っていたが、こうも滑らかな感触だとは触れるまで解らなかったのだ。
再び降り出した雨は稲光を連れて来たらしい。激しい閃光が、室内の様子を影絵のように浮かび上がらせた。
そこにはただ、ただひたすらに狂おしく愛し合うだけの男女の姿があった。