ある朝、機知によって策を練る④
どの位がたごとと荷車に揺られていただろう。途中、大きな起伏や荒れた道を通らなかったところをみると、ひょっとしたらまだ城下町なのかもしれない。とにかく転がされたままなので振動がダイレクトに頭や頬に当たって痛い。
なんてことを薄ぼんやり考えていると荷車がぴたりと止まった。振動を喰らいすぎてまだ脳が揺さぶられているようだったけれど、被された布ごと引き起こされる。自由の利かない視野でも、何となく辺りが暗いのは分かった。
倉庫か、屋敷の中とか、なにか建物の中?
すんっと鼻をひくつかせてみるものの、布にまぶされた香水のにおいしかわからない。視覚も嗅覚もだめで声も上げられない。これはとにかくこの拘束なんとかしないことには、と私は腹を決めた。
「さて、と。こっちが先に着いちまったようだね」
がさごそと音を立てて目の前から布の覆いが外される。と同時にさるぐつわも外された。これは叫んでみても無駄ということか。試してみようかと息を吸ったところで、ぴたりと頬に銀色に光る冷たいものを押し当てられた。
「変な気を起こさないでくださいましねぇ。いっくら人払いしてるからっていっても、耳ざとい奴らは大勢いるんで、あんたの叫び声なんてすぐ聞きつけられちまう」
にやりと口元をゆがめたケットシーの口調はのんびりしたものだったが、目つきは笑っていない。ひんやりとしたものは刃物だろうか。うちの城にいるケットシー、モナエルは虫も殺せないようなお嬢さんだけれど、こいつは簡単にその刃を突き立ててきそうだ。
ごくり、と喉が鳴る。顔の覆いとさるぐつわは外されたけれど、手足はまだぐるぐる巻きにされていて身動きもままならない。
「おや、ビビってんのかい?」
喉が上下したのが見えたのだろう。ケットシーは肩を揺らした。
小馬鹿にされたままではいけない。なんとかして状況を把握して、逃げる隙を探さなきゃ。
今自由になるのは顔と口だけだ。私はカサカサに乾いて貼りついた唇を無理やり引き剥がした。今なら相手はこのケットシーだけ。なら、と暗がりで大きく開いた瞳孔を睨みつける。
「ビビッてなんてないわ。一体何の用なの? こんなことしたらただじゃすまないわよ」
「おや、急に強気だねぇ。ただじゃすまないって、どうなるってんだい?
「下手したら外交問題に――」
「あんたが『殺されでもしたら』ってね。でもバレなきゃどうってことない。アタシとしてはニンゲンの小娘なんぞさっさと食い殺しちまえば証拠隠滅なんて簡単にできる」
にゅっとケットシーが顔を突き出した。綺麗にカットされたヒゲの先がちくちくと当たるほどに近づく。お互いの鼻が触れるかどうかほどの距離で、彼女はぎらりと牙を剥いた。
躊躇なく噛みついてきそうな、ぬらぬらと光る唾液がまとわりついている牙に一瞬身が竦む。肌で感じるこの空気は、戦場で感じたものと似ていた。命の危機のにおいだ。
どうにかしなきゃ、という焦りでこめかみのあたりがずくずくと疼いた。目の前の一人だけ、なんて甘かった。こいつ、場数踏んでる悪党だというにおいがぷんぷんと漂っている。
にらみ合いはほんの数秒だったけど、気圧された私に気が付いたのかケットシーは牙を収めてにやりと笑った。
「今すぐ取って食いやしないよ。あんたに用があるのはアタシじゃないからね」
なんだと、いや、そういえばさっき先に着いたとかどうとか言ってたっけ。
私は視線だけで周りを見渡した。薄暗いけれど、天井はそこそこ高い。顔回りには彼女の香水のにおいと布のにおいがまとわりついていたけれど、その隙間からなんとなく香ばしいパンのにおいがする気がした。
パン屋さんか、お菓子屋さんか、食べ物屋さんが近いのかもしれない。ただアルバハーラの地理に疎いため、その情報は何の役にもたたなさそうだったが、なんとなくここは倉庫なのだろうとあたりを付ける。
お菓子屋さんの倉庫――となるとこのケットシーの店の倉庫か? そりゃ自分の店なら自由にできるだろうけれど、アシがつきやすいのではないだろうか。それに商店街に近いならひょっとして叫べば警備兵も来てくれるのでは、と思ったところで室内に一条の光が差し込んだ。
あんた、とケットシーの声が心持ち華やぐ。細く開けた扉から、一つの人影がするりと室内に滑り込んできた。逆光になっているけれど、明るい色の髪がふさふさと揺れている。
「さて、お着きだ。あとはごゆっくり。そうそう。うちのひと、怒らせると怖いんですよ」
ねえ、としなを作ったケットシーが振り返った先を見て、私は言葉を飲んだ。
「よう、早かったな」
肩で風を切って、という言い方が合ってるのかどうかは分からない。けど城での様子とは一味も二味も違う様子で近寄ってきたのは、間違いなくあのトーヤだったのだ。