ある昼、金がモノをいう世界を知る④
「だめ!」
伸ばしたままだった手で咄嗟に子コボルトの腕をつかんだ。その異様なほどの細さにぎょっとしたものの、尻もちをついたままだった子を引っこ抜いて抱きかかえる。顔の真横で風切音がしたかと思うと、ガシャンと剣が地面を叩いた。剣戟の強さで石畳の一部が砕け、粒になった欠片のいくつかが頬に当たる。
痛いと思う余裕もなかった。
このガイコツ、いやスケルトンてタイプのモンスターか。有無を言わせずにこの子を殺すつもりだった。ぞくりとすると同時に、今いるこの世界が魔界だということを改めて思い出す。
今までが、のんびりと平和すぎただけだったのかもしれない。
「リナさま!」
聞いたことがない程大きいナナカの叫び声が辺りに響く。スケルトンと私の間に割って入ってきたナナカは、鎧を軋ませて振り返ろうとしていた兵に向かってばっと両腕を広げた。その華奢な背中にはっとした。
有能な侍女である彼女は、ダークエルフ族ではあるもののクローディアやクローゼのように戦闘に特化した一族の出ではないという。腕の中で子コボルトが小さく、しかしはっきりと震えているのが分かった。マズイ。心臓が、驚くほど大きく跳ねた。その時だ。
「お、お待ちください! 店先でそんなことされちゃあ困るんですよ! ほらお客さんが逃げっちまうじゃないですか!」
そう忙しない口調で割って入ってきたのは、これまた小さな体格で丸顔、丸目のケットシーだった。銀色の優雅な毛並みは美しくたなびいているが、ケーキ柄のプリントのギャルソンエプロンを巻いた腰に拳をあていわゆる仁王立ちをしている。
そのケットシーはまん丸の猫目を吊り上げて、ぐるりと周囲を睨みまわした。万引きだと叫んだ誰かのせいで、私たちの周りは野次馬が集まっている。その無責任な見物人の多くは、猫の鋭い視線に首を竦めて目を逸らした。
「こちらのおちびさんはたまたま路地から飛び出してきただけの浮浪民ですよ。うちの店のものが万引きされたなんて、不名誉なことを言い出したのは誰だい? うちの店が城下にふさわしくないって思われちまうだろう?」
「だ、だってよお」
「だってじゃないさ。良かれと思ったのかもしれないけど商売の邪魔だよ! 野次馬どもはさっさと散っとくれ! 店主が万引きじゃないって言ってんだ。それでも万引きされたていうなら、うちがやられたっていう証拠を持ってきな!」
威勢の良い啖呵を切る猫店主に旗色が悪いとみたのか、それとも騒動が収まりそうだと判断したのか、ぶつぶつ言いながらも野次馬は一人また一人と散っていく。ものの数分もしないうちに人の流れは元通りになっていった。
「さ、巡回にお戻りになって下さいな」
ささ、とケットシーはスケルトンの兵を促した。万引きはなかった、と店主が言うだけで警邏が納得するだろうか。しかし店主はそっとスケルトンに近づくと、なにやら耳打ちをするような仕草を見せた。それと同時に、猫の手が何かを兵の鎧の隙間にねじ込む。
賄賂か、と呆けた頭で思いついたのは彼らがお互いの顔を離してからだ。
意思があるのかないのか、落ちくぼんで光の無い眼窩でしばらく猫を見つめていた兵は、やがてまた鎧を軋ませながら路地の向こうへと去っていった。
「ったく、ほら。あんたたちも商売の邪魔だよ! さっさとどっかよそへ行っとくれ!」
しっしっと猫の手がこちらへ向かって追い払うように動いた。礼を言うべきか、と迷ったがナナカに急かされ会釈をするにとどめる。腕の中で小さくなったままの子コボルトを抱えたまま、私たちは足早にその場を後にしたのだった。