ある朝、青天に霹靂を生ずる②
こちらに転生してきてどのくらい経ったことだろう。初めて見るヴェンディの様子に、私は足元がガラガラと崩れ落ちる感覚に襲われた――訳はなく、頭の中で何かがぶちっと切れた音がしたのを感じた。
何あれ!
何なんあれ! 腹立つ!
つまり、私が思う通りにならないからわざわざ同伴者としてクローディアを呼びつけたってことか。
大人げないにもほどがある。勝手に勘違いして拗ねた挙句、別の女を連れ込むなんていい大人のすることじゃない。どういう思考をしたらそうなるのか、奴の頭を勝ち割って脳みそに直接問い質したい。
しかも何なの、あのクローディアの顔。勝ち誇ったような、見下したような、あの態度。人間界との戦のあとに部屋から飛び出していってから、なにも音沙汰がないからどうしたんだろうと心配してやってたっていうのに。
ぐわああああっと湧き上がる怒りの感情を持て余し、私はドアに拳を叩きつけた。
「っつぅ……」
しかしどんなに力任せに叩いたとしても所詮は人間の女の力である。硬い木製のドアは容易く私の拳を跳ね返した。衝撃と痛みにじわりと視界が歪む。じりじりと痛む拳を見れば、ちょっと血が滲んでいた。
この年まで生きてりゃ人間、一つや二つは言いたくない事だってあるってことになぜ思い至らないのか。なぜそこを分かってくれなかったのか。それが無性に腹立たしく悲しかった。
昨日今日知り合った仲じゃない。愛を誓いあった相手が言い淀んでいるなら、言う気になるまで待つとかいうのが大人としての対応だろうに。――でも。
拳に滲む血に、昨夜の濡れたようなヴェンディの紅い瞳が重なった。あれは不安な時の顔だったのではないか。そう思うと、直後に見せた寂しそうな背中が脳裏に浮かぶ。最後に言っていた同族ではないということは、思いのほかヴェンディにとっては引け目になっているのかもしれない。
不安がっていた彼に、安心を与えなかったのは私だ。
ずきっと胸が痛んだ。
急激に怒りが静まり、代わりに酷い後悔が襲ってくる。
「逢坂さん?」
男声にしてはやや高めの明るい声に唐突に呼ばれ肩が跳ねる。耳に飛び込んだのはもはやすっかり呼ばれることがなくなった私の姓だった。昨夜呼ばれたときはただパニックに陥っただけだったが、改めて逢坂と聞けば以前の記憶が引き出しを開けたときのようにあふれ出た。
いい思い出も、そうじゃないものも。
むしろ冴えない自分だったころのあれやこれやがぶわっと湧き出てしまい、体が硬直したように動けない。
視線を落として立ちすくんでいた私の背後から、優し気なテナーの持ち主が顔を覗かせたのはその直後だ。
「こんな所でどうしたんです? そちらの魔王様が昨夜と違う女性をお連れになったので確認させていただきに来たんですが……」
はっとトーヤ、いや遠山さんが息を飲む気配がした。
「その手、どうしたんです? 血がでてるじゃないですか!」
「……いえ、なんでもありま」
「何でもありませんじゃないでしょう。早く手当を!」
「いえ、結構ですから……」
今は放っておいてほしかった。過去を知っているこの人に、変に優しくされたくない。あの頃の妙に卑屈な自分がむくむくと大きくなってくるのが分かった。
「舐めといたら治りますから」
「日本と違って衛生面じゃ何があるか分かんないですから。早く手当を!」
「でも……」
煮え切らない態度に業を煮やしたのだろう。ああもう、と吐き捨てるように遠山さんが呟いた。そしてそのまま私の手を取ると、ぐいぐいと引っ張って歩き出したのだった。