ある昼、東奔して西走する⑤
どのくらい飛んだだろう。少し喉が渇いた、頭も使いすぎて甘みが欲しい。そう思ったころだ。
「ミエタ」
あたりに竜の声が響いた。
すぐさま口の隙間から外をのぞくと、確かにいつの間にかもうすっかり山岳地帯を飛んでいて、少し開けた山間に小さく軍勢らしきものが見える。キレイに並んだその列とひらめく小さな見たことのない旗印は人間の軍だろうか。整然としたその様はまだ戦闘が開始されていないことを物語っていた。
しかしその陣の向かいの丘には、別の一群の姿が見える。こちらは雑然とした塊で全体的に黒っぽい。つまり魔王軍、いや騎士団長が急遽集めた軍勢か。
両軍は山間と丘に布陣してにらみ合いをし始めたのだろう。一触即発というほどの距離感ではないが、お互いに攻撃すると決めたら届く間合いだ。
間に合った。
私は安堵のため息を吐いて、それから両手でほっぺたを叩いた。気合だ。気合だ。気合だ。
「ドウスル? ドコニ オロス? ニンゲンノ、オウノ、チカク?」
「王は後方でしょ? 軍の上をあなたが飛び越したら向こうの人たちがびっくりして話どころじゃなくなるかも。あの人間の軍の前に下ろして。エライ人に話を聞いてもらえるように頼んでみる」
「ワカッタ、ボク、アノマエニ、オリル」
「ううん、私だけ降ろしてすぐにクローゼ様にお知らせに行って。にらみ合いしてるから、どっちかが動けばすぐ戦になっちゃう」
竜は了承の意味だろう、のどの奥で低く唸り声を上げるとスピードを上げた。人間の軍へ一直線だ。そしてその途中、私の体をまた舌で絡めとった。
「オリルトキ、オチナイデ」
「ありがとう!」
優しい心遣いに感謝し、お言葉に甘えて舌を命綱にする。降下が始まると、ぐっと気圧が変化して耳が痛くなった。思えばどれくらい上空を飛んでいたんだろう。口の隙間から見える人間の軍勢がどんどん大きくなっていく。突如現れた竜に驚いて、迎撃の態勢をとるもの、慌てる馬を落ち着かせようとするもの、上空に槍を伸ばすもの、様々だ。
騒然とする軍の中に特に偉そうな装飾を施された馬に乗った、騎士っぽい人が見える。
「竜ちゃん、下ろして!」
私が叫ぶと、竜は咆哮を上げて口を大きく開いた。音波の衝撃は正面からの風圧を緩和する。口外へ出された私は差し出された竜の前脚に飛び乗り、はばたく彼と共に地上へ降り立った。
人間から見たらこの姿はどう映っただろう。突然、矢のように飛んできた竜の口からドレス姿の女が飛び出してきたのだ。警戒するなという方が無理なのは当たり前だ。
恐慌状態の軍の前で竜の前脚から降りた私は、なるべく優雅に見えるように、ちょっとでも「なんだこいつ」という間を設けるためにも、ゆっくりとカーテシ―をして見せた。その間に竜は地面から飛び立ち、背後へと去っていく。向いの丘にいる魔王軍へ、出撃しないよう連絡に行ってくれたのだろう。
「な、なに奴だ!」
一瞬の間ののち、我に返るのが少しだけ早かった人間の一人が私に向かって槍を突き出した。ぎらりと光る穂先に背筋が凍る。両脚が震えてしまうのは仕方ないだろう。こんなシチュエーション、生まれて初めてだ。
でもそれを勘付かれないように殊更優雅に顔を上げる。可能な限り、堂々と。そして私は大きく息を吸った。
「わたくしはこちらの領主である魔王、ヴェンディさまの使者として参りました。戦をする前に人間の王様へお知らせしたいことがございます。どうかお目通りをお願いできますでしょうか」
多くの人間がざわめく陣へどれだけ声が届いたか分からない。なるべく凛と聞こえているといいなと思った。とにかく今は、ひざが震えているのを知られないように虚勢を張るしかない。
「魔王の使者だと? 今更、何の用だ!」
「王様へどうしてもお伝えしなければならないことがございます。我等が主は貴方さま方との戦いを望んでおりません。むしろ互いに手を取り、共存共栄の道を図ろうとのお考えです」
向けられた殺気がわずかに緩んだ。ような気がした。私の胸に槍で狙いをつけていた兵士は見るからに動揺し穂先が地面に向いている。勢いに乗って魔王領へ攻め入ったはいいが、やはり力の差がある魔物と正面切って戦うには恐れがあるのか。
であれば、和平の申し出に聞く耳は持ってもらえるかもしれない。
「王様にお目通りを。我が主は決して皆さま方との争いを望んではおりません。この度の戦も元をただせばこの地域の人々の貧しさからと伺っております。それを解消するべく、双方にとってよりより道を選びたいと仰せです」
前線の兵たちは明らかに戦意を失ったように見えた。お互いに顔を見合わせ、こちらを見て、また何かざわざわと話をしている。手に持った剣や槍などの武具も収めてよいのか、構えたほうが良いのかも分からない様子で宙ぶらりんの状態だ。
すると歩兵たちの間をかき分けるように一頭の馬に乗った騎士が進み出てきた。
面当てからたてがみの飾りから、鞍、予備の武具入れまで、華美すぎるといってもいいくらいに飾り立てた馬はちょっとよろけながら歩兵の間を縫って出る。その鞍上にいるのは、やはり相当に装飾が華美な騎士姿の人間だ。最前列の歩兵さんの動きやすさ重視の装備に比べると重そうだし、そもそもそんな全身を包み込んだ甲冑で(しかもいろんな飾りや彫刻もついているし)戦えるんだろうか。
そんな心配をよそに、騎士は馬から降りることもなく私の前へと近づいてきた。そして手に持った巨大なランスで私の胸へ狙いを定めた。
「魔王の使者というのは貴様か」