ある夜、月の灯りに惑う
どうしてこうなった。
私の右手を取ったまま目の前に傅く褐色の肌をした男性。その顔を凝視したまま、私は眉根を寄せた。
月明りに照らされた鳶色の瞳は真摯な色をたたえ、じっと私を見つめている。まじまじと見ると、やはり兄妹だ。クローディアによく似た切れ長の目につんと伸びたきれいな鼻筋、そして形の良い額を惜しげもなく見せつけるように分けられた長い前髪。ただ一つ違うのは、彼女が黒髪なのに対して彼の髪は透き通る銀糸のような美しさということ。
気怠く艶美な雰囲気のヴェンディとは異なる種類の、気高さが漂うイケメンに見つめられるのは心臓に悪い。
もともとそういう人種とは接点がなかったんだから。
既にいわゆるキスハントは終わっているのに私の手を離してくれないのは、騎士の礼としてどうなんだと言いたいけど言えない。無言の圧力というか、熱のこもった視線がそうさせてくれなかった。
騎士の鎧を脱いで館の主らしく少し緩んだ装いの胸元からは、ヴェンディの白く華奢なものとは異なり筋肉の弾力性を感じさせる肌がのぞく。浅黒くつやのあるそれは、とてもセクシーだった。目のやり場に困って彼の顔より視線を下げられず、結果として彼の瞳につかまってしまう。
ヴェンディ麾下の騎士団長、クローゼの――。
どうしてこうなった。
――ことの起こりはやっぱりヴェンディだった。
クローゼとクロ―ディアの二人に今朝の食事を振舞うように言われ、しぶしぶ執務室にそれらを運んでもらうと、魔王はどうだと言いながら彼らの目の前で嫌いな野菜をもりもりと食べはじめた。
それを見て大喜びしたのが騎士団長クローゼ、顔を真っ赤にして怒ったのがその妹クロ―ディアだった。
曰く、これまでどんな工夫を凝らした料理であっても(とはいえこちらの料理なので、まあ、うん)絶対食べなかったのに、こんなにおいしそうに野菜を平らげるなんて、と。
これで人の王との晩さん会でも恥をかかせずに済むと感涙にむせぶ兄とは対照的に、妹のほうはとにかく悔しかったようで次は自分が作るといって癇癪を起こして地団駄を踏んでいた。妖艶でえろいフェロモンが駄々洩れの女性が子供のように地団駄を踏む様はなんだかちょっと異様だったりかわいかったり、それでもやっぱりゆさゆさと揺れる胸のせいでえろく見えたりするもんだなぁと感心したのもつかの間。
「城の厨房は勝手が分からないから我が屋敷へいらしてくださいませ! ついでに晩さん会まで屋敷でお世話しますわ」
と、言い出したのだ。
てっきり固辞すると思いきや、ヴェンディはあっさり了承してしまいその判断にクローゼも従った。ということは晩さん会のメニューの打ち合わせに私も同行せざるを得なくなって館に連れてこられたらこのザマだ。
館に着くなりヴェンディはクロ―ディアにいそいそと客間へ連れていかれ、もうどこにいるのかよくわからない。荷物をもってついていこうとしたらクロ―ディアの侍女たちにそれらを強奪され、控えていた下女と思われる少女に、使用人部屋の空いているところへと連行されてしまった。
クロ―ディアに言い含められているのだろう、ちょっと申し訳なさそうにドアを閉めたあの子に文句はない。
清々しいほどの待遇に、まあこれはこれで色々邪魔されずに寝られて快適だと思った。どうせヴェンディはあの豊満美女とよろしくやるだろうし、邪魔されたくもないだろう。いつもなら絶え間なく降ってくる事務仕事に忙殺されている時間なのに、まったりとお茶を飲めるなんて。
――座ったベッドは硬く、お茶はとんでもなく薄かったけど。
まあこれはこれで晩さん会のメニューなんかを考えたり、持ってきた本からこの世界の人間の風習なんかを学べる良い機会だと思ったんだ。
「んー、でも私、そんなに自炊してなかったからこれと言ってちゃんと作れるレシピなんてないんだよなぁ……」
ノートにいくつかメニューの候補を書いては消して、書いては消してを繰り返した。どれもこれも作ったことはあるけどレトルトの調味料やレシピサイトを駆使したものだ。自力で、しかもこっちの貧弱な調味料で作れる自信なんてない。
マヨネーズもカッテージチーズも、たまたま常駐していたネット掲示板で話題になってたやつを作ってみて簡単だったから覚えていただけである。
酒のつまみでトリワサやネギ塩タンなんかも大好きだったけど、ワサビもなきゃごま油も無いしそこから作れと言われたら挫折するしかない。そもそも酒のアテで晩さん会を開いていいものかどうかも疑問だし。
「うーん……」
せめて調理法で、単純に塩振って焼くだけの肉じゃなくてスパイスやハーブっぽいものを組み合わせてローストビーフみたくするか、それとも鳥の腹にそれらを突っ込んでオーブンで焼いてもらうか、などと唸っているとドスドスと荒々しい足音が聞こえてきた。
大きな音で二回ほどノックされ私が返事をすると、現れたのはこの屋敷の主人である騎士団長クローゼだった。何処から走ってきたのだろう、浅黒い肌がうっすらと上気して赤くなっていた。
見るからに、怒っている。
「クローゼさま、どうかなさいました?」
だらしなく腰かけていた姿勢を慌てて正し、急な来訪者をカーテシーで出迎える。しかし入ってきたクローゼは会釈をすることも忘れたように、憤怒の表情のままテーブルに置いておいた私の荷物をひったくった。
「なっ……!」
突然のことに声が詰まる。まさかここの家は兄妹そろって私を追い出すつもりなのか。使用人部屋で大人しくしてたのに。
ところがだ。
私の荷物を抱えたまま、はっとした顔をしてクローゼが膝をついたのだ。
「大変申し訳ございません、リナ殿」
「ど、どうなさったんですか」
「まさか妹が私の知らぬ間に貴女へこのような無礼をしていたとは。面目次第もありません」
「このような無礼って、いえ、私、快適でしたのに」
「いえ、貴女は閣下と同じく我らの大切な客人です。すぐに別のお部屋へご案内します」
「お気遣いはありがたいのですが、本当に私このお部屋で結構ですので……」
「そういう訳には参りません!」
思ったより大声で怒鳴られ、意図せず私の体はびくっと震えた。会社で幾度となく怒鳴られていたから男性の大声には慣れているつもりだったけど、なんていうか迫力が違ったんだ。
じわっと両目が熱くなり視界がぼやける。あれ? と思った時にはぱたぱたと大きな涙がこぼれていた。はっとしたようにそれまで険しかったクローゼの表情が戸惑ったものに変わった。
「も、申し訳ございません。怖がらせるつもりはなくて、そのっ……」
「いえ、いえ、大丈夫です、すみません! 少し大きなお声に驚いただけで……」
「こちらこそ申し訳ございません……私の悪い癖です。もう、その、大きな声は出しませんから……」
涙を拭いてください、と真っ白いハンカチを手渡された。申し訳ないけどありがたく受け取り、目元を軽く抑える。涙は一過性のものだったらしく、ほどなくして落ち着いた。
その間、クローゼは身の置き所が無いのか私から目をそらし、こちらが落ち着くのを黙って待っていてくれた。
「もう大丈夫です、クローゼさま。お見苦しいところを……」
「いえ……あの、リナ殿……」
「はい」
「こちらのノートは、リナ殿が?」
涙を拭き終えると、クローゼはさっき私があーでもないこーでもないと書きなぐっていたノートを指さしていた。メニューの案とも言えない、たたき台にもならない代物だ。しかも相当に汚い字で。
あははと苦笑いをしていると、クローゼはそれを肯定と受け取ったのか改めてノートを拾い上げてまじまじと読み始めてしまった。
「お返し下さい、クローゼさま。そちらはまだ人様にお見せできるようなものではないのです」
「いえ、この香りのよい葉や実を使って調理するなんて、初めて見ました。塩以外の味と風味が付け足されるとは、想像しただけで……」
「この地方でどれだけ探せるかわからないので、晩さん会に間に合うかどうか。それに、お口に合うかどうかもわかりませんし、晩さん会のメニューとしてはまだ検討の余地が多いと思います。予算だって、どのくらいかかるか……」
「いいえ。このようなアイデアをお持ちなのが素晴らしいのですよ。我々はずいぶん古くから伝わる調理法でしか食事を作っていません。伝統の名に縛られすぎていると常々思っていたのです。しかしどうやってそこから脱するか、考えたこともなかった」
「でもそれは伝統を重んじる騎士様の世界では大切なことなのでしょう? 私ごときが出しゃばってしまってはご迷惑になりますし。この件はまた明日、改めて魔王さまにもご相談を」
「閣下は貴女の仕事ぶりをいたく信頼されているとのことでした。実際お目にかかるまで失礼ながら私は半信半疑でしたが、噂通りの方だったようですね」
「噂?」
「たいそう美しく頭の良い、人間の女を侍らせている、と。しかも城の財政管理で鬼とも恐れられているとも」
まあ、と私は口に手を当てて驚くふりをする。「オニ」と呼ばれているのはナナカからもよく聞いているし、そこは否定しないけど「侍らせてる」呼ばわりはいかがなものか。
「魔王さまが取り立ててくださったおかげですわ」
「いえ、実際こうしてお話しして噂に嘘がないと確信できました」
「鬼の事務員、と?」
魔王城で言われていることを皮肉っぽく付け加えると、クローゼはふっと微笑んで首を振った。