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バスを降り、昭人と羽田は二人並んで見慣れた帰路を歩いていく。住宅街を抜け、田園風景が右手に見える狭い私道を抜け、再び住宅街の中へと入ったところで、羽田がふと立ち止まった。羽田の視線の先にあったのは近所でも有名な廃マンションだった。白い万能塀に張られた一枚の張り紙を見て羽田がつぶやく。
「へえ、やっとこのマンションも取り壊されるんだ」
昭人も羽田の横に並び、張り紙を読んでみる。近隣住民からの訴訟で建設が中止されたのは十年以上も前のこと。訴訟で敗訴した事業者が自ら費用を出して撤去することを嫌がり、未完成のままずっと放置されたまま。近隣住民のカンパによって最近ようやく撤去の目途が立ち、今年度中に撤去工事が行われる旨が記載されていた。
その張り紙を読み終えた時、昭人の胸で何かがざわめきだった。昭人は何度も何度もその張り紙を繰り返し読む。隣にいた羽田はそんな昭人の様子を不審そうに見つめてくる。
「どうしたの、そんなに熱心に読んで」
昭人は羽田の質問に答えることもせず、万能塀とブロック塀の境目へと吸い込まれるように近づいた。昭人は少しだけ逡巡したのち、ひょいと塀の上に飛び乗り、立ち入りが禁止されている塀の向こう側へと侵入した。後ろから昭人を呼び戻そうとする声が聞こえてくる。しかし、昭人の耳に羽田の声は届かなかった。昭人は何かに取り憑かれたように、廃マンションへと走り出す。
昭人は息を切らしながら階段を駆け上っていく。自分でもどこに向かっているかわからなかった。しかし、進行方向を迷ったり、足が止まるということはなかった。昭人の身体が、心がどこへ向かうべきかを理解していた。
三階まで一気に駆け上った時には、汗が吹き出し、突然の激しい運動のせいで左腹部に鈍い痛みが疼いていた。昭人は走り続けることはできなかったものの、休むことなく廊下を歩き進め、二番目の部屋の前で立ち止まる。開かれた窓枠から吹き込む風雨にもかかわらず、部屋の中はそれほど劣化はしておらず、入り口近くの壁や床は灰白色を維持していた。窓枠からは裏手にある私有林の樹幹と薄く積み重なった雲が見える。昭人はじっとその風景を眺めた。そのまま外側から部屋の中の様子を伺った後、そっと部屋の中に入っていく。
昭人は部屋の中央まで歩き、周囲を見渡してみる。すると家具も装飾もない空き室の奥に、なぜか大きな床置き時計が置かれていることに気がつく。昭人はゆっくりとその床置時計に近づいてみた。時計の針は止まり、金属製の振り子はピンで止められているかのようにピクリとも動かない。昭人はその振り子の円盤に目を凝らす。銀色に塗られたその円盤の縁には外国語で何か文字が刻まれていた。
「何してるの?」
昭人が振り返るとそこには息を切らした羽田がいた。羽田はほっとしたような表情を浮かべながら、部屋の中に入ってくる。部屋の中を見渡し、特段何もないことを確認すると、何をしていたのかと昭人に尋ねてきた。
「いや、外の風景を見てたんだ」
「何もないこんな空き部屋の中で?」
昭人はもう一度部屋の中を見渡した。羽田の言う通り、ここは物もなにも置かれていない、四角い無機質な箱だった。立ち入り禁止の場所なのだからそれが当たり前。しかし、昭人は妙に心が締め付けられるような気がした。羽田も部屋の中をぐるりと見渡した後、先程の昭人と同じく額縁に切り取られた外の風景へと視線を移した。一陣の風が部屋の中に吹き込み、二人を頬をなでる。優しく、二人を包み込むような風だった。
「帰ろう 」
羽田がそう言った。昭人は羽田の言葉にうなづく。そうだ。帰ろう。昭人は自分で自分にそう言い聞かせるようにその言葉を繰り返す。昭人と羽田は他愛もない言葉を交わしながら、何もない廃マンションの一室を後にした。