30
昭人が302号室へと入ると、そこには机の上に突っ伏したまま眠っている柊の姿があった。昭人は柊を起こさないようにそっと真向かいの椅子を引き、そこに腰かける。耳を澄ませば、外から聞こえてくる雑音に混じって、柊の寝息が聞こえてくるような気がした。
昭人は頬杖をつきながら、じっと柊が目覚めるのを待った。このまま何時間も目を覚まさなかったらどうしよう、なんて考えは昭人には浮かんでこなかった。柊が目を覚ますまで、いつまでも待ち続けるつもりでいた。自分自身でもなぜかはわからない。ただじっと時間に身を任せたい気分だけなのかもしれない。
しばらくしてから、柊はゆっくりと顔を上げた。前髪をかき分け、昭人の姿を認めると、少しだけ恥ずかしそうにはにかんだ。
「いつからそこにいたの?」
「さっきからだよ」
「そう」とだけつぶやくと、柊はまどろむような目つきで昭人の顔を見つめた。そして、おもむろに手を伸ばし、本当にそれが存在しているかを確かめるために、昭人の右ほおをそっとなでる。冷たく小さな手だった。
「ちょうど夢を見てたんだ。子供の頃の昭人が出てきたの。昭人が私の胸くらいの身長しかなくてね、上目遣いで、私の顔を見上げてくるの。でね、それでね……」
柊はそのまま夢の内容を語り出す。昭人は黙って柊の話を聞いた。相槌を入れたり、話しに割って入ることもせず、ただ柊の春の風を思わせるような眠たげな表情を見つめながら。
柊が夢の話を語り終え、ふうっと小さくため息をついた。そして「何か、昭人も話をして」と雑に話題を振る。昭人はすぐには応えられず、二人の間に沈黙が流れる。開け放たれた窓の外からは、風に揺られて葉が擦れ合うことが聞こえてくる。
「ちょうどこの前さ、羽田っていう同級生と久しぶりに会ったんだ」
昭人はかすれるような声でぽつりとつぶやいた。あまりに細い声だったため、柊の耳に届いたのか不安になるほどだった。しかし、柊はじっと昭人の目を見据え、何かを悟ったかのようにこくりとうなづく。彼女の右目の端が朝露のように濡れているのが昭人にわかった。
「恰好とか見た目はもちろん変わってたけど、雰囲気は昔と変わらなくてさ。前から少し浮いてたけど、ちゃんと自分を持ってる奴なんだ。無神経で人を怒らせるようなことも平気で言っちゃうしさ、誰かと積極的に仲良くなろうともしないんだけどさ、どこか憎めないし、やっぱり根はいいやつなんだよ」
「うん……」
昭人の声は涙声になっていった。話しを聞く柊の目の端の涙も少しづつ大きくなり、そして一滴が頬を伝って流れ落ちた。その柊の様子を見て、さらに昭人の胸に何かがこみあげてくる。昭人は自分でもそれがなにかわからなかった。今ではもう思い出せないもの、もしくはもう失ってしまったもの。そういったものが混じり合って、昭人の目頭を熱くさせた。
「今度さ、ここに連れてくるよ。きっと柊も気に入るんと思うんだ。きっと、きっと連れてくるからさ」
「うん……うん」
柊はこと切れたように嗚咽交じりに泣き始める。
「夜まで馬鹿みたいな話をしてさ、トランプをして遊んだりしてさ、そして、花火をしよう。夏なんだから。羽田と柊と……他のみんなも一緒に!」
「……待ってる、待ってるよ」
昭人もまた柊につられるようにして、頬をとめどなく涙がしたたり落ちていく。誰もいない廃マンションの一室で、二人はわけもわからず泣き続けた。柊は赤みを帯びた目をこすり、昭人に微笑んだ。それはどこか痛々しくも、美しい表情だった。
「私……待ってるから!!」