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 ほこりが端っこにたまった階段を登り、昭人は廃マンションの302号室へと向かった。部屋の中に入ると、中には誰にもいなかった。中央に置かれたテーブルに腰かけ、昭人は部屋全体を見渡す。壁の塗装は剥がれ落ち、端っこの方の敷き詰められているタイルの一つは浮き出ていた。四角い枠に切り取られた外の風景は、爽快とは程遠い曇天で、今にも雨が降ってきそうな模様だった。家具はほとんどない。あるのは、昭人が座っているテーブルと郵便ポスト型の貯金箱が置かれた棚、そして窓枠の横に設置された大きな床置時計だけ。


 昭人はすることもなく、ただぼーっと外の風景を眺める。まとわりつくような夏の湿気で、身体が気怠い。昭人は机に突っ伏した。固い木の机は体温より少しだけ冷たく、ひんやりとしている。このまま眠ってしまおうか。昭人はそんな誘惑に駆られ、目をつぶった。


「昭人?」


 昭人は顔をあげ、声のする方へと振り返った。そこには水の入ったバケツを両手で持った柊の姿があった。柊はバケツを持ったまま、ゆっくりと昭人の方へと近づいて来る。柊は足音一つ立てず、辺りは誰もいないかのような静寂に包まれていた。柊はバケツを持ったまま、何かを探すように周囲を見渡す。


「静かだね」


 柊の言葉に昭人は呆れたように微笑んだ。


「そんなのずっと前からじゃん」

「違うよ」


 柊は表情一つ変えないまま、昭人のそばへと歩み寄る。昭人は怪訝そうに眉をひそめ、まじまじと柊の顔を見上げた。しかし、そこからは求める答えを引き出すことはできなかった。


「違うってなんだよ」

「ごめん、なんでもない。忘れて」

「なんだよそれ」

「なんでもないってば」


 柊の突っぱねた言葉に昭人は少しだけむっとした。しかし、柊もまた昭人と同じように不機嫌そうな表情を浮かべながら座っている昭人を見下ろしていた。柊の表情は何かをくみ取って欲しいというわがままなもののようでいて、人を見定めるような鼻につく何かが感じられた。


「ねぇ」


 柊はバケツを足元に置きながら、冷たく、懇願するような声で尋ねた。


「昭人はずっとここにいてくれるよね?」


 昭人は柊の顔からさっと目をそらした。そして、自分にも聞こえないほどの小さな音量で舌打ちをする。別に柊が嫌いだというわけではない。しかし、何度も何度もしつこく同じことを聞かれ続けてきた昭人にとって、柊のその質問は自分の周りを飛ぶ蠅の羽音のようだった。


 柊は昭人を見つめ続ける。視線の圧力に耐えかねた昭人はぶっきらぼうに返事をすることしかできなかった。


「そんなのわかんないよ」


 柊の表情を昭人は直視することはできなかった。彼女がどうしようもないほどに寂しげな表情を浮かべていることが昭人にもわかっていたからだった。


「ねえ、昭人がいなくなったら、私はこの誰もいないマンションで一人ぼっちになっちゃうんだよ」


 昭人の胸に柊の言葉が重くのしかかる。いっそヒステリックにわめき散らされた方がどんなに楽か。昭人は目をつぶり、唇を強くかみしめた。それでも、柊の言葉は鎖のように昭人の身体全体に重くのしかかり、この場から逃げ出したいと言う誘惑に駆られてしまう。


「一人ぼっちは嫌。誰とも関わらずに過ごすなんて、そんなの生きていないのと一緒だよ」


 柊はそっと昭人の肩に手を置く。あまりに静かに、そしてゆっくりとした動作だったため、窓から迷い込んできた木の葉が乗っただけなのかと錯覚するほどだった。昭人は目を開け、顔を恐る恐る柊のほうへと向けた。柊の目は沼の底のように淀んでおり、唇は色を失っていた。


「それでも、そうしたいなら……いっそのこと殺して」


 柊は昭人の肩から腕、そして手首へとその手を動かしていく。そして、か細く絹のように白く透き通った手で昭人の手首をつかむと、そのまま自分の首元へと近づけていった。昭人はその手を振り払うこともできずにただなすがままに任せていた。昭人の左手が柊の細い首筋に触れた。こんなに柊の首は細かったのかと、昭人は頭の片隅でそう思った。柊は昭人を懇願するかのような目で見つめる。昭人は椅子から立ち上がり、もう一方の手も柊の首まで持っていく。


 柊はすべてを受け入れるかのように目をつぶった。それでも、身体全体が彼女の意思に逆らおうとしているかのように小刻みに震えていた。昭人は両手で柊の首をつかんだ。昭人の手ですっぽりと収まる程度の細い首をゆっくりと昭人は締め上げていく。力を入れていくに従い、親指が首の中へと食い込んでいく。苦し気な呼吸音が昭人の耳に入っていっては抜けていく。柊の手がだらりと下へ垂れ下がる。足元のバケツと柊の足がぶつかり、バケツが横に倒れる。中に入っていた水が地面に跳ね返り、昭人の足を濡らす。それでも昭人は力を緩めることはしなかった。


 柊の身体が膝から崩れ落ちる。昭人はそのままゆっくりと、柊を前へと押し倒していく。首から手を離さないまま、そっとバケツの水で濡れたコンクリートの床へと倒しきる。その時にはすでに柊の呼吸は止まっていた。ようやく昭人は柊の首から手を離す。白い首筋には赤黒い手の跡がくっきりと残っていた。


 昭人は手を柊の口元まで持っていく。そこには空気の流れはなかった。昭人は床にあおむけの状態で寝かしつけられた柊の死体を冷めて目で見降ろした。彼女との今までの思い出が走馬灯のように彼の頭の中を駆け巡ったが、不思議と涙は流れてこなかった。


 しばらくその状態のまま立ち尽くした後、昭人は壁際の棚に近づき、上に置かれた貯金箱を手にとった。中身が詰まった貯金箱はずっしりと重く、軽く上下に振ってみると、硬貨がぶつかりあう鈍い音が聞こえてきた。少なく見積もっても、一万円以上のお金が入っていることがわかる。何のためにこの貯金箱にお金を貯めていたんだっけ。しかし、浮かんだ疑問は霧のようにぼやけ、そのまま消えていく。昭人は貯金箱を手に持ったまま部屋をぐるりと見渡した。そしてそ冷たくなった柊をそのままに、昭人は302号室を後にした。

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