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「じゃ、田辺くんは予定通りに高校進学ということで決まりね。そうと決まれば、あとは合格に向けて勉強するだけ。田辺くんのことだから心配は要らないだろうけど、頑張って!」
オレンジ色の夕日が部屋から差し込む教室の隅で、担任の佐々木先生が田辺に確認を取る。昭人が「はい」と愛想よく返事をすると、佐々木先生は満足げな表情を浮かべながら目の前に広げていたおそらく昭人に関する書類をまとめはじめる。昭人は自分の足元に置いていたカバンを手に取り、担任に軽く会釈をする。そのまま椅子から立ち上がり、部屋を出ていこうとすると、背中から声をかけられた。
「そうそう。次の三者面談ではさ、ちゃんと親御さんも連れてきてね」
昭人が振り返ると、担任の先生は屈託ない笑顔を浮かべていた。窓の外から見える夕焼けの空は青みを帯び、燃えるような夕日の上半分は赤褐色の雲で覆われているのが見えた。
「うちに両親なんていませんよ」
昭人は大げさに肩を上下させ、おどけるようにそうつぶやいた。そのままもう一度担任に軽く頭を下げ、そのままその教室を後にする。教室から廊下に出ると、向こうの方からちょうど羽田香織が歩いてくるのが見えた。右手には生徒会の書類を手に持ち、昭人の姿を認めると、少しだけその歩みを緩める。
「おっす」
昭人がぎこちなくそう挨拶すると、羽田もまた同じようなぎこちなさで挨拶を返す。違うクラスになり、こうして挨拶を交わすこと自体が二人にとって久しぶりだった。
「進路相談か何か?」
「ああ、そんなとこ。結局〇〇高校を受験予定なんだけどさ。……そういえば羽田は?」
「私? 私はもう推薦で✕✕高校に進学が決まってるから」
羽田は厚みのある書類を片手で持ち直しながら答える。せっかく生徒会役員になったんだし、高い内申点を利用しないとね、と羽田が気怠げに付け加える。むしろ高い内申点を得るために、なり手の少ない生徒会役員に立候補したんじゃないのか。昭人は相槌を打ちながら、ふとそんなことを考えた。あの事件以降昭人は羽田のことを妙に意識するようになっていた。別に会話が増えたり、二人でどこかへ遊びに行くということもない。むしろ、二年生になってクラスが別れて以降、こうして挨拶を交わすこと自体も減っていた。
しかし、羽田の名前が出てくるたび、どこかその動向を気にしてしまう自分がいた。目立つことを嫌っていた羽田が学級委員長になったこと、生徒会役員に立候補したこと。同級生との会話、あるいは他の人の会話の端っこにその名前が出るたびに、昭人は少しだけ胸がざわついた。羽田の名前が耳に聞こえるたびに、羽田の姿を認めるたびに、昭人の脳裏にあの事件が起きた日に言われた言葉が甦った。
「田辺って姉か妹がいたんだっけ?」
脈絡のない質問に昭人はハッと現実に引き戻される。
「いや、いないけど。どうして?」
「カバンにさ、女の子向けアニメのキーホルダーが付いてるから」
昭人は自分のカバンに目をやる。いつもカバンの内側にぶら下げ、外には出ないようにしているキーホルダーがカバンの端っこからだらりとぶら下がっていた。小学生のときに流行っていた女児向けアニメのキーホルダー。昭人は慌ててそれをカバンの中へとしまい込む。こんなものを男友達に見られたら、きっとからかわれてしまう。
「それって誰かからの贈り物?」
「いや、確か、ずっと前にガチャか何かで当てたやつだよ」
「なんでそんなものを大事そうにしてんの? 変なの」
羽田は若干呆れたようにそう言い放つ。それと同時に五時を告げるチャイムが校内に鳴り響いた。遠くからは町内会が設置したスピーカーからで流れる「ななつのこ」のメロディがかすかに聞こえてくる。
「じゃ、私は生徒会の用事があるから」
「ああ」
羽田はそういうと、生徒会室へと歩いていった。昭人は少しだけその場に留まったまま、遠ざかっていく羽田の背中を見送った。羽田が廊下を曲がり、その姿が見えなくなってようやく、昭人もまたその場から去っていった。