最近、創作となろうの作品に関して感じること。
初めてエッセイを書いてみました。
グダグダしていたりわかりにくいこともあるかもしれませんが、よろしければおつきあいくださいませ。
○6/29 例え話に関しての補足を追加しました。
最近、なろうの作品を見ていてふと感じることがある。
それは、『───「ポイント」や「ランキング」に縛られすぎているのではないか────』ということだ。
たしかに、ランキングに載れば多くの人の目にとまりやすく、読んでもらえる機会を得ることになる。
そのまま、上手くいけば書籍化……なんてものを思い描く作者様も多いのであろう。
だが、果たしてそれでいいのだろうか?
私自身、大学で創作に関する考え方を習ったりする機会が多い為か、最近は考え方が偏ってきている自覚がある。
しかし、完全なる的外れな意見、というわけでもないだろう。
最近、相互評価をしているLINEのグループが掲示板にて晒され、たたき上げられる騒動があった。
実際には、相互評価をしていないグループまで相互評価をしているグループだと決めつけられ、チャットのスクショを晒されてしまい多くの人が迷惑を被っている。
この騒動により、相互評価に対し、賛成派や反対派に分かれて論争をしている方もいて、自身の思いや考えをエッセイにて発信している人も見受けられる。
それらを読んでいて、私も創作に関して習い始めた頃から感じるようになった、なろう作品への意見をエッセイという形にて書かせていただこうと思い至り、今回、筆を執った次第である。
まず、創作とは何なのか。
これは多くの人がそれぞれの持論を持っているだろう。
おそらく、私の意見に対し異を唱える方もいるであろうし、賛同してくれる方もいるであろう。
個人個人の感覚によるものである以上、仕方のないことなのだろう。
私としては、「既存の要素を、自分の感覚や感性を入れて組み上げ、新しいものを創り出す」ということなのではないか、と考える。
今ある多くの作品は、既存の要素を組み替えているものばかりだろう。
元をたどれば、大昔の人々が考えた神話が物語というものの原点であり、それらの要素をそれぞれの時代に生きる人々がそれぞれの感性に基づき、「自分の感覚や感性を入れて」組み替えているに過ぎないのだと思う。
ここで重要なのは、「自分の感覚や感性を入れる」ことだ。
人それぞれ違う人生があって、それぞれの過程で培われた価値観や見方をもち、人によって違うものの捉え方がある。
作品を創ると言うことは、それらが他の人に伝わるように作品で表現することなのではないだろうか。
その人の価値観や捉え方が入り込むからこそ、その人にしかできない作品ができるし、「その人にしかできない」作品だからこそ、他の人は目にしたときにその作品へ魅力を感じるのだと、私は思う。
しかし、現状のなろう作品はどうだろうか?
その人らしい感性が入り込んだ作品になっているだろうか?
多くの作品はランキング上位の作品や、書籍化した作品をただ模倣し、「ポイントを狙っているだけ」の物になってはいないだろうか?
ポイントがつきやすいもの、多くの人に好まれやすい傾向やニーズを調べることは良いと思う。
しかし、それに囚われすぎて自分の感性や感覚を入れず、ただ模倣するだけでは魅力を感じないただの量産品になってしまうのではないだろうか?
少し話は逸れるかもしれないが、縁あって広告業界にて働く方のお話を伺う機会があった。
その際、私はその方のアイデア出しの方法を聞いて衝撃を受けたと同時に、なおさら「なろうの作品はポイントに囚われすぎている」という印象を受けた。
その方法とは、下記のような物だ。
1、資料を収集する
2、収集した資料を咀嚼する
3、一度収集し、咀嚼した資料を忘れる(ふとしたときやキーワードを聞いたとき、「あぁ、そんなのもあったなぁ」と頭の中に引っかかる程度には覚えておく)
4、何か別のことをしながら過ごす
↓
結果的に、アイデアが出てくる
こういう方法で普段CMなどのアイデアを出しているそうだ。
これをなろうに置き換えてみれば、資料とはポイントの高い作品の要素だったり、多くの人に好まれやすい傾向やニーズだろう。
収集し、咀嚼するということはおそらく多くの方が行っているだろう。
しかし、そこまでやったあとは机やパソコン、スマホなどに向かってうんうんと頭をうならせ、考えてアイデアが降りてくるのを待っている方が多いのではないだろうか?
そこで、勇気を持って収集し咀嚼した資料を忘れることをしてみてほしい。
頭の片隅には残っていて、キーワードを聞いたりふと思い出したりとかする程度に忘れ、何か他のことをしてみてほしいのだ。
そうすることで、ポイントという枷を超えるアイデアが浮かぶと、私は思うのである。
また、話は戻るが自分の感性を作品へ入れ込むことをしてほしい。
ここで例え話をしよう。
まず、瓶が一つあるとする。
その瓶をカメラでただ白黒写真として撮ったものと、同じ瓶を見た人が一生懸命にその人が感じたことを入れながら鉛筆で描いたデッサンの絵があったとして、人はどちらに魅力を感じ部屋に飾りたいと思うだろうか?
写真が好きとか、デッサンのうまさとかを抜きにしてみて考えてほしい。
もちろん、どちらも飾りたくないとかそういった屁理屈も抜きである。
これを読んでいる貴方は、どちらかを部屋に飾るとしたら、どちらを飾りたいと思うだろうか。
多くの人はデッサンの絵と答えるだろう。
写真で撮った物は機械で撮れるところまでしか撮れない。
アングルやライトなどの撮る側の感性は入るかもしれないが、瓶その物を人が観察した際に感じるはずの感性は入らないのだ。
しかし、デッサンは感性ある人間が描いた物である。
描いた人が観察して実感して感じた感性がこめられているので、機械が表現できるところを遙かに超えているのだ。
多くの人はそうした感性がこめられたところに魅力を感じたりするのだ。
そうしたことができるのは感性ある人間だけであり、機械には決してできない。
極論を言えば、昨今は機械の発達も凄まじい訳だし、人間だからこそできるものを入れない物を創るのなら、機械に任せてしまったって良いだろう。 むしろ、その方が正確且つ迅速にできるのではないか。
しかし、小説はロボットや機械、人工知能ではなく、人間が書いているのだ。 そこをよく考えてみてほしい。
この例え話でいうデッサンとは作者が自分の感性をこめて創った魅力を感じる作品であり、写真とは多くのポイントに縛られたりしすぎてポイントが高い作品をただ模倣したり、ランキング上位の作品の要素を詰め込んだだけの、その作者独自の感性が見えない魅力を感じない作品である。
ここで留意してほしいのは、決してカメラマンの方や写真が趣味の方を貶しているわけではないことだ。
もちろん、写真を撮ることもまた創作活動の一つであることは私も重々承知している。
上で述べたように、写真はアングルやライトの配置などの点において、撮る方の感性が入り込む。
しかし、今回、写真とデッサンを例えに挙げたのは、魅力があまり感じられない作品と魅力のある作品の違いである感性について、伝わりやすいと思ったからである。
ここでは、言ってしまえばデッサンを描く人の脳と写真を写すカメラを比べているのであり、写真を撮るカメラマンについては比べる対象としていないので、そこは了承していただきたい。
ちなみに余談だが、2045年には人工知能が人間を超えると言われ、同じ年には今ある職業の半分以上はなくなると言われている。
事務仕事などは、どんどんと機械や人工知能へ仕事が回されていくのだ。
既存の仕事がなくなる代わりに、時代に合わせた新しい仕事もまた生まれては来るのだろう。
だが、これから先大事になっていくのは機械とかにもできることではなく「人間にしかできないこと」、「人間だからこそできること」なのである。
人間だからこそできること、それは文化的なことであり創造的なことだと思う。 つまり、人間が持つ価値観を入れ込んだものを創り出し、文化的な活動をすることだ。
これらだけではないかもしれないが、人間にしかできないことをいかにして探していくかが、おそらくこれから生きていく上で重要になるのであろう。
話は逸れてしまったが、ではこの価値観や感性はいかにして磨けば良いのか。
日々の生活の中のものを当たり前とは受け止めずにいろいろ初めての気持ちで見たり観察したりして、その際に感じた自分の心の動きを大切にしていく。
大切にし、どうしてそう感じたのか言葉にしてしまわずに自分の中に蓄える。
そうしていくことで自然と自分の中にいろいろなものが蓄積され、感性などが自分の中にデータベースのようにしてできていくのだそう。
そしてできた自分の感性の中にあるものを、物を創作する際に色々当てはめていったりするのだそう。
これは美大の予備校などで教えていたお方に聞いたお話である。
当てはめる際に自分の感性をどうやって作品に入れ込むか。
それがその作品の魅力を決めるとても重要な部分だろう。
これができるのとできないのとでは、大きく違ってくる。
私個人的には、これができない方はクリエイターではないと思っている。
作家はクリエイターであるはずなのに、今のなろう作品を書いている大半の方はクリエイターらしさを失っているように感じてならない。
では、クリエイターとは何なのか。
クリエイターという言葉には、大きく分けて2種類の存在が内包されている。
アーティストとデザイナーである。
アーティストとは、誰にも理解されなくても良いから自分の表現したい物を表現している存在だ。
過去の有名な画家とかは生きているうちには理解されず評価も大してされていなかったが、自分の表現したい物を創り続け、死後物凄い評価を受けるようになった方々がいる。
そうした方々がアーティストと呼ばれる存在である。
デザイナーとは、クライアントの要求を満たせるように、その要求の中で自分の感性を入れ込んで表現したい物を創る人々だ。
自分の表現したいものを創る上で、デザイナーはアーティストと違い他者にも伝わるように工夫しなければいけない。
クライアントからの要求を満たすように表現していないのであればデザイナーとは呼べない。
他者にも伝わるように、理解されるように表現をするのか。
自分だけがわかっていれば良いから表現したい物を創るのか。
そこがアーティストとデザイナーの違いなのである。
違いはあれど、この二つはクリエイターである。
クリエイターである以上、どちらにも自分の感性を入れ込んで表現するところは通じる物がある。
感性を入れられない、そういう人はオペレーターとして使われる側になって良いように扱われて終わりになってしまうかもしれない。
特に機械が発達し、人間らしいところを求められ始めている現代において、人間ならではの感性をどう表現するか、どう色々な物に生かすのかを求められているのだ。
上の方でも書いたが感性を入れてないものを作るだけなら、機械にもできるし、それしかできない人は良いように扱われて終わりにされてしまうだろう。
せっかく、なろうなどのネットで誰でもクリエイターになれる環境がある現代に生きていて、なろうで作品を書こうとしている、または書いているのだからこそ、クリエイターの一人として自分の感性を大切にしてほしい。
そう、私は色々な作品を見ていて思うのだ。
日々の生活の中に、普通なら何とも思わないような物事にさえ面白いところや感動を見いだし、自分の中に感性として蓄えていく。
そして感性を以てよりよい作品を創り出せるように努力する。
こうして培われた感性はきっとこれから先の人生においても自分の糧となって役立つ物であるだろう。
普通、多くの人はこうしたことをする環境に身を置いていない。
しかし、私を含め、これを目にしている貴方達はなろうというこの誰でもクリエイターとして活動できる環境にいて、感性培いながら作品作りに試行錯誤できるチャンスを手にしているのだ。
これがどれほど価値を持ち、貴重な物であるのか。 どれほどありがたいことなのか。 考えてほしい。
決してこの環境は当たり前ではない。
人それぞれ、この環境に関わりを持つようになったきっかけは違うだろう。
しかし、今ここにいる以上、せっかくならこの機会を、チャンスを、環境を充分に活用して役立ててほしい、と私は願わずにはいられないし、自分の感性を大切にしてほしいと思う。
そして、ランキングやポイントに縛られすぎず、ニーズや傾向を知るために有効活用しながら、自分の感性を培い信じて良い作品を作ってほしいのだ。
もし、このエッセイを読んでほんの少しでもこういう考えもあるのだと知ってもらえて、何かを考えるきっかけとなったのなら。 良き創作活動のきっかけとなれたのなら。
それは筆者である私にとって、とても幸いなことである。
ここで書いていることはあくまで私個人の考えでもありますので、必ずしも受け入れる必要はありません。
こういう考えをする人もいるのだな、程度に思っていただけると良いかと思います。
それでももし、このエッセイが何かしらのお役にたてたり、何かのきっかけとなったのなら、作者としては光栄の極みであり、喜ばしく感じます。
これからもよろしくお願いいたします。