潮騒
■ 赤馬 ■
郷里で夏休みを過ごして、約2ヶ月ぶりに沖縄、那覇空港に帰ってきた。この晩夏時期になっても沖縄の暑さときたら、九州福岡で生まれ育った私でさえ、熱射病になってしまうかも知れないほどで、予想はしていたものの、この時期の福岡と沖縄の気温差は、瞬く間に肌の表面にみるみる大粒の汗の玉ができてしまう。厳しい。
手荷物受け渡しの回転テーブルで、自分の荷物を探していたら、ガラス面の向こうに見慣れた顔がこちらに手を振っている。彼は同じ郷里の、同じ高校の同窓生で、今は大学の同級生で、しかもルームメイトでもあり、親友の赤馬 奏磨である。バイトに行く時間前なのに、出迎えとは律儀な奴である。
「お〜い、帰ってきたぞ〜。」
「お〜、お母ちゃんのおっぱいをたらふく飲んできたか?」
「お出迎え、ご苦労、ご苦労。」
「何を言ってるんだか、今日は夜の授業なんで俺の帰りが10時回るから、部屋の鍵を渡しておかないと、お前部屋に入れんのぞ。」
「え?部屋の鍵?」
「そうだよ。お前、バイクの鍵と部屋の鍵を一緒にしてるやろ?お前の机の上に、ポンと置いてあったよ。」
「あ〜、そうやった、そうやった。2ヶ月も前の事だから忘れていたよ〜。」
私たちの部屋があるのは那覇の中心、国際通りの端にあたる「安里」にあって、正確に言うとアパートではない。個人の学習塾が入っている、縦にひょろ長いビルの一角なのである。1〜3階までは学習塾が使っていて、4階が3部屋あって、1部屋ごとの間取りが2LDKもあるので、そのうちの1部屋を2人で格安で使わせてもらっているのだ。
「あ、佐藤君、おかえりなさい。」塾長
「はい、長く留守にしてすみません。またバリバリ頑張りますので、シフトをよろしく。ぼくって次はいつ入るんですか?」
「今日帰ってくるって聞いたから、明日の中3の英語からね。」
「わっいきなり英語かぁ〜、予習しなくちゃ。」
そうなのである。この学習塾が私たちのバイト先。つまりバイト先の4階に住んでいるのである。大学までも近いし、繁華街もすぐそこ。すばらしいロケーションと便利性、しかも家賃は赤馬と折半だから負担も少ない。悠々自適のキャンパスライスをおくる大学3年生の夏の終わりなのである。
「あのさ、佐藤、後で話があるんだ。いいかな?」
「なんだよ。改まって、いいよ。今日はどこにも行かないからさ。」
部屋に戻ると、相当散らかっているだろうと想像していたのに、やけに整理整頓されている。と言うか、まるで使われていない部屋のような感じである。違和感を覚えて自分の個室に入ると、2ヶ月前に出て行ったままの部屋のありさま、、、でもまぁ、これが普通なのである。
「ピンポーン♪」
「はいはい、どちらさま?」
そこには塾の社長の奥さんでもある塾長がいた。
「佐藤君、、、」
「あ、塾長。どうしたんですか?4階に来るなんて珍しい。」
「ええ、実は赤馬君のことなんだけど、何か聞いてない?」
「え?なにか、どうかしたんですか?」
「私の杞憂なら良いのだけれど、赤馬君って、ちゃんと授業しにくるから問題ないんだけど、ここ1ヶ月半くらいこの家には戻ってきてないわ。」
「え?そうなんですか?いえ、何にも聞いてませんけど、、、」
そう言えばさっき何か話があると言っていた。この2ヶ月の間に、何か私の知らない事が起こっているのは間違いなさそうである。
赤馬の家は母子家庭で、お袋さんと弟と妹の3人で、母方の実家の離れに住んでいる。親父さんは彼が中学生の時に亡くなって、看護婦のお袋さんが頑張って家計を支えて、赤馬が大学を卒業して帰ってくるのを待っている。本来なら高校卒業と同時に社会に出るつもりの赤馬だったが、母親の希望もあり進学させてもらったのだ。そう言うわけなので、生活費や学費は赤馬が自分で捻出していた。塾の講師や家庭教師は割がいいアルバイトで、夏休みなどは塾の夏期講座などが集中して、余分に稼げる絶好の機会なので、実家にも帰らず頑張っているのである。
赤馬はその日の遅くにやってきた。
「俺さ、大学をやめて働こうと思っているんだ。」
「へ?いきなり何を言うのかね?あと1年半で卒業やろう。実家が心配なのか?」
「いや、実家へも帰らない。お袋には悪いが、沖縄で暮らしていく。」
彼の口調からただならぬ気配を感じ取れた。これは冗談などではない。
「言ってる事が全然分からんぞ。親弟妹思いのお前がどうしたんだ?何があったんだ?」
「お袋や実家の事は弟に任せて、俺は沖縄に消えるつもりだ。自分のやるべき事があるんだよ。」
「まったく要領を得ないぞ。ちゃんと一から説明してくれ。」
「とにかくだ、俺はもういなくなったとお袋に伝えてくれ。」
「そんな無茶な話があるか。いったい何をする気だ?」
「説明、、、できない。でも、悩んだが、後悔などしない。そう決めた。」
そう言うと自分の部屋に引き篭り、荷物を片付け始めた。この塾の寮からも出るつもりなのだろう。
「赤馬!お前!いい加減にしろ。だいたい俺はなんてお前のお袋さんや塾長に説明したら良い?勝手がすぎるぞ。」とドア越しに私
「、、、。どんなに理不尽な事を言っているのか、自分でも分かっている。でも抑えようがないんだ。佐藤、見逃してくれ。」
その言葉を最後に赤馬は何も返事しなくなった。
彼は若い世代には珍しいほどの直線的な性格で、その性格ゆえ人望もあったし損もした。高校2年のときにはラグビー部のキャプテンをしていた。彼が率いる我が高校は、花園大会に常連の強豪高校と、がっぷり四つ相撲を展開した。均衡した試合だったが、地力に勝る相手高校に敵わず、ついに1年間、一度も勝てなかった。器用に立ち回って、相手の隙をついて攻撃すれば、勝てるチャンスもあったと思うのだが、それでも自分のやり方を変えない、真正面から挑む戦い方が、彼そのものを語っていた。
翌朝、早い時間に彼は出て行った。工学部だった彼の部屋には、もう使わない製図板付きの机や教科書が残されて、そう言うものを残したら、彼の荷物はカバン2つほどしかなかった。出て行く彼の後姿は、試合に負けても自分自身を通した時の、自信に満ちた背中のままだった。そんな彼を私は見送るしかなかった。
「赤馬!何か本当に困った時があれば、いつでも頼ってきてくれよ。」
聞こえたのか聞こえなかったのか、彼が少しうなずいたように見え、しばらくすると雑踏が彼の姿を消してしまった。
「女ね」
見送る私のすぐ後ろで誰かが言った。振り向くと塾長がいた。
「女だから直感で分かるのよ。」
「ええ、そうなんですか?夏休みに入る前には彼女なんていませんでしたよ。」
「恋に落ちるのに時間なんてかからないわよ。今朝早く、彼が辞めて出て行くって言いに来たの。説明にもならなかったけど、彼が生き方を変えるほどの事ってそれ以外に考えられないわ。」
「あの堅物が、ですか?考えにくいですよ。」
「そうかしら?あの子の目って、そんなに節穴じゃないわよ。それよりも、新しい講師を採用しなくちゃ。彼のシフトの穴を埋めなきゃ。大変だわ。」
彼は思った通り、大学にも来なくなった。未だに状況の説明ができない私は、とりあえず彼を家庭の事情による休学扱いにしておいた。最初のうちは姿を見せない赤馬を気にかけて、所在を訊きにくる者もいたが、一月もすると誰も訊かなくなった。たった1ヶ月ほどで赤馬の存在は何もなかったかのように消えてしまったのである。
■ みゆき ■
砂浜の白と、海や空の青しかない沖縄にも秋になれば、黄昏時にはそれなりにセピアカラーに染まる。大学は学園祭を明日に控えて各ブースの仕上げに追われ、あわただしくなっていた。
自分たちの学部が出すのは、どこにでもあるような「お団子茶屋」。教室を改装した茶店で、女学生が作ってきた団子とお茶を売って、コンパの費用にあてる算段になっているのだ。祭りごとが好きな私は率先して会場作りに励んでいた。
「佐藤、さっき、お前を訪ねて女の人が来ていたぞ。」
「ふうん、誰だろう。どんな感じの人?名前訊いた?」
「落ち着いたOLさんっぽい人だったよ。30歳くらい?の美人だね。あの人、誰?」
「え〜、誰やろ?塾長が仕入れでも持ってきてくれたのかな?でも塾長は50歳はいってるしなぁ。ううむ、、、」
学園祭の準備がだいたい終わって、帰り着いたのはもう深夜になっていた。部屋に入り、ポストに投げ込んである郵便物に目を通すと、切手が貼られていないメモのような紙が4つ折にして入っていた。
「突然 失礼いたします。私は宮良みゆきと言います。赤馬奏磨君の事で相談があってきました。明日、安里バス停の前ある喫茶店『アルバトロス』に、夕方5時にいらしていただけないでしょうか?お待ちしています。」
直感で、この人が昼間、大学に私を訪ねてきた女性で、同時に赤馬が出て行く時に塾長が予感していた女の線がよみがえった。
赤馬が出て行って3ヶ月以上経っていたが、彼の行方はつかめなかった。彼が出て行った後、どうしてもっと強行に引き止めなかったのかと悔やまれてならなかった。彼がいなくなって始めての手がかり、行くべきである。「アルバトロス」と言う喫茶店は、ほぼ毎日通る国際通りにある店で、場所は知っていたが入った事はなかった。
翌日、学園祭はそっちのけで5時になるのを待ちきれずに「アルバトロス」に向かった。「アルバトロス」は店の表が太い角材でできた格子になっていて、やや暗い店内はさながら鳥かごの中にいるような閉塞感が息苦しい。罪悪感はないのだけれど、外からの日が差す窓側の席は、につかわしくないような気がして奥の席に向かった。すると一番奥の席の影が動いた。
「佐藤さん、、、」
まだ目が暗がりに慣れていないせいで、はっきりと顔が分からないのだが、女性の声に足が止まった。
「すみません、お呼びだてしてしまって。」
「いいえ、赤馬は元気にしていますか?」
宮良みゆきと名乗るその女性は、とても小柄で痩せていた。照明が弱いせいか、元々色黒なのか、絶望的に顔色が悪く、暗い印象の女性ながら、整っている顔立ちの魅力的な女性だった。
「あの、私は事情が全然分からないでいるんです。あなたとはどういう関係で、彼はなぜ大学をやめなければならなかったのか。今 何をしているのか。何も分からないんです。」
「あの、私、佐藤さんとは初対面ではありません。」
「え、どこかでお会いしましたか?」
彼女は、せわしく質問する私を制して話し始めた。
「お忘れになったのは仕方ありません。今年のまだ寒い春ごろの事でした。駐車場の横の溝にタイヤを落としてしまった私を、赤馬さんと佐藤さんは助けてくれたんです。」
「え、えっと、うん、あ、覚えています。たしか、化粧品屋さんの営業の車じゃなかったですか?二人で車をかかえ上げて差し上げました。そうそう、その時はオレンジ色の事務服みたいなスーツでしたね。思い出しました。」
「覚えてくれたんですね。そうです。あの時は会社の制服を着ていました。」
「私が次に赤馬さんにあったのは、妹の大学受験の時で、通っていた塾の特待に選んでもらって、個別指導員に赤馬さんが付いてくれて、指導要領を説明していただいた時です。」
「宮良さんとおっしゃいましたね。宮良、、なみえちゃん。ですか?医学部志望の?」
次第に点と線が結ばれてきた。塾は表面の成績をあげるために、高い偏差値校へ合格できそうな生徒には時間外で指導する制度があり、彼女の妹もその特待生で赤馬の担当だったのだ。確か、宮良なみえは本土の私大の医学部に合格した記憶がある。赤馬も喜んでいた。
「それで、あなたと赤馬が付き合うようになったのですね。でも、だからと言って、彼が学校をやめる理由にはなりません。」
「はい、ついつい彼の好意に甘えてしまって、でも、私がいくら言っても彼は聞いてくれません。佐藤さんからも彼に学校に戻るように説得してください。」
彼女との会話は2時間に及んでいた。どうしても理解できない部分はあるものの、赤馬の性格を考えると分からなくもない。宮良みゆき、なみえ姉妹も赤馬同様、母子家庭なのである。難病を患っている母親は故郷の八重山にいて、親戚に囲まれて細々と一人暮らしの生活をおくっている。先に就職で那覇に来ていた姉のみゆきを頼って、妹のなみえが高校受験と同時に上がってきていたのだ。姉のみゆきは化粧品販売の仕事で、妹の授業料や生活費を工面し、そして八重山の母親にも仕送りしているらしい。赤馬がこのひたすら前向きに生きている姉妹に接していくうちに、同情に似た愛情が生まれたのだろう。
「分かりました。では来週、日を改めて赤馬の説得に行かせてもらいます。宮良さんの自宅で良いですか?」
「はい、お願いします。」
「あの、、、それで、みゆきさん、肝心な点なんですが、赤馬の事をどうお思いなんですか?」
「、、、。」
「好きかどうかです。」
「私と奏磨さんとは7つも違うんです。年下なのにしっかりされているし、尊敬しています。」
「そんな事は訊いていません。好きかどうかです。これから強行に赤馬を大学に戻せば、もう会えなくなるかもしれないんですが、それでも良いのですか?」
「私も、好きです。彼の真剣さは本物で、私などに勿体ないと感謝しています。できれば私も彼の気持ちに応えたい。でも、私のようなものが彼のそばにいては、いけないんです。絶対にいけないんです。」
今までの会話では赤馬の事を“赤馬さん”と呼んでいたのに、恋愛感情の有無を問うと“奏磨さん”に変わり、それまで懸命に気丈に努めて、無表情だったのに初めて血が通った表情になった。その表情に不思議な安堵感をおぼえた。しかし、同時に顔の変化とは反面に違和感を感じるほど厳しく否定する姿勢に疑問を感じた。それ以上は訊いてはならないような気配を感じて、自宅の住所のメモをもらって帰った。
自宅に戻り、赤馬をどう説得するか思案してはみるものの、良い糸口がつかめない。それに事情が分かってくればくるほど、一人では重過ぎて抱えきれない。塾長に意見を求めた。
「私も覚えているわ。八重山から出てきていた姉妹ね。ふうん、赤馬君が黙ってみていられない気持ちは分かるわ。でもそれは教え子の妹さんじゃなくて、お姉さんの方なのがちょっと意外ね。」
「あぁ、でも、僕、赤馬と付き合い長いから、何となく分かりますよ。」
「気になるのは、なみえちゃんて私大の医学部だったわね。医学部って6年行かなきゃいけないのもあるんだけれど、学納金の額がちょっと半端じゃないのよね。だいたい初年度は一本いくわよ。母子家庭ではそうそう出せる金額じゃないはずよ。」
「一本って?百万円って事?じゃないすね。」
「一桁違うわよ。6年通すと三本以上になると思うわ。」
「事情が事情だから、奨学金や学資ローンの対象になると思うけれど、それでも相当の返済になるはずね。」
「ううむ、思いもつかなかったけど、それを知った赤馬の奴が、、、」
「それでも安直すぎる気がするわね。でも私は赤馬君の献身的な愛情も、やはり愛情だと思うわ。よく決心したと思うの。応援したい気持ちだわ。」
「応援?何言ってンすか。困っているんですよ。」
「あら、嘘じゃないわよ。考えてもみなさいよ。今のニッポン、ソロバンはじいて結婚するか、勢いで子供ができちゃって、結婚するしか解決の方法がないかじゃない?本当に相手の事を知った上で、思い、思われて結婚する人なんてほんの一握りしかいないんじゃないの?でもね、本来の意味で夫婦になるって、そう言うことなんじゃないかな?だったら彼の選択はもっとも正しいって事になるわ。」
「そんな事言ったって。当のみゆきさんが連れて帰ってくれって言ってるんですから。」
「それよ、それ。これは女の勘だけど、その姉さん、まだ何か隠しているわよ。赤馬君の気持ちに応えられない何か、、、実はもう既婚者だったりしてね。」
「これ以上、面倒な事になるんですか?勘弁してくださいよ。」
■ 潮騒 ■
約束のその日がやってきた。何の解決策も持たないまま、私はバイクを走らせていた。彼らが住む宜野湾市は那覇市の隣町で、国道58号線を名護市向けに進む。宜野湾市に入ると大謝名交差点を右折。ほとんど那覇から出る事がない私は地図をたよって進んでいたのだが、どうやら道に迷ったようである。
「この辺りなんだが、、、」
まだ時間にゆとりがあるので、そう慌てる事もない。道沿いに目印の大きな黒い鳥居型のアーチを見つけた。夕焼けに照らされたその鳥居は、まるでアメリカ西部劇の砦の入り口のような趣で、砦の中は木造平屋建ての昔の長屋のような集合住宅のようになったものが、何棟も並んでいて異様な雰囲気、間口の狭いスナックが並んでいるように見える。これが噂に聞く真栄原社交街である。
戦後の沖縄は風俗においても米軍占領後、駐留する米兵による強姦、殺人、住居侵入等、女性を目的とした犯罪が増える中、これらを抑制し防波堤として特殊飲食街があちこちに建設され、管理売春が行われていた。沖縄にはこれらの名残りが返還された今でもいくつか残っているのである。真栄原社交街もそのひとつ、今でもそう言う風習が残った街で、学生の立場ではご法度の領域なのである。彼らの住む古い木造のアパートは真栄原社交街のすぐ裏手にあった。赤馬に会える。気持ちは昂っていた。
2階の部屋である。呼び鈴を押すとみゆきさんの声で返事、ほどなく扉が開かれた。
「よくいらしてくれました。彼ももう戻っています。どうぞ。」
「はい、失礼します。」
部屋は入り口が土間になっていて、簡単な下駄箱があるだけ、すぐに台所になっていた。壁は化粧合板の昔風の造りで、ガラス戸の向こうに二部屋あるくらいの慎ましい部屋である。
「佐藤!」
奥の部屋から懐かしい声がとぶ。
「赤馬、、、わぁ、なんか陽に焼けて、凄みが増したなぁ。」
「ははは、今は港湾労働者だからな。ずいぶん力がついたぞ。」
「あの、すいません、来ていただいて。お茶がいいですか?コーヒーにしましょうか?」
6畳の部屋にちゃぶ台を出して、今しがたまで、そこで食事をしていた様子で、まるで新婚の友人宅に遊びに来ているような錯覚に陥ってしまう。言われなくても幸せな雰囲気は伝わってくる。
「聞いているとは思うが、みゆきさんに頼まれてお前を連れ戻しに来た。」
「うむ、お前には面倒ばかりかけるな。いまもみゆきさんを叱っていたところだ。前にも言ったように俺の決心は変わらん。戻るつもりはない。」
私と赤馬はちゃぶ台を挟んで座った。みゆきさんは、やや離れた位置に座って、会話を聞くのに徹しているようだった。
今までの彼らの行動の経過は私や塾長が想像していたものと大きな開きはなかった。しかし、最初に感じていた「赤馬の同情」と言うのは間違いで、二人は純粋に恋愛をしていた。
「佐藤、お前、“再生不良性貧血”って聞いたことあるか?」
「いや?知らない。」
「お国が定める特定疾患、つまり原因や治療法がまだ確立されていない難病だな。みゆきさん、なみえちゃんのお母さんはそれなんだよ。なみえちゃんが医学部に固執していたのは、母親を苦しめるこの病気の根絶の仕事がしたいためだ。みゆきさんはその後押しをして、俺はその姿に感動し、そんな生き方のみゆきさんに惚れた。ただそれだけだ。他には何もない。」
「そんな病気とは知らなかったが、私大の医学部の学納金は半端じゃないぞ。悪いが、お前がどんなに頑張って働いても6年間に3000万円とか稼げないやろ?」
「ふむ、よく調べたもんだな。現実には6年の後、2ヶ年間の研修医の義務があるから8年や。いろんな機関の奨学金制度や銀行の融資を集めて、足りない分はみゆきさんの貯金で初年度の支払いはできた。できたんだよ。でも、後7年間、特に学費が発生する残り5年間は、みゆきさんの化粧品店の美容部員としてのお給料では到底無理な話。だから俺が二人の夢に乗っかったわけだ。自分の好きな女と同じ夢のために働けるのって幸せだぞ。俺は充実している。」
「でもそのために、お前はお前の未来を犠牲にしているやないか。もしもお前がちゃんと卒業して社会に出て成功し、基金をつくって難病撲滅の資金援助をしたって同じ夢の結論だろうが、自分自身の手でって言うのは単なる自己満足でしかないぞ。」
ひとしきり論争は続いた。それからしばらくの沈黙に入り、そして先に口を開いたのは赤馬だった。
「佐藤、お前、女の人を本気で好きなった事はあるか?」
「う、、付き合った事はあるが、本気でとなると疑問はある。」
「俺は、簡単に舞い上がるお調子者ではないつもりだ。俺なりに真剣にみゆきさんが好きなんだ。」
「う、うむ、、、その事に疑う余地はない。」
「俺は入学金を支払う時にみゆきさんの貯金が700万円以上もあったことに驚いた。彼女の毎月の給料は手取りで14万円ほどしかない。普通に生活してもそんなに楽な方ではないと思う。それなのに、八重山のお母さんのところにも仕送りしていたんだ。」
「、、、、、、。」
「みゆきさんは化粧品店ともうひとつ、別に仕事をしていたんだ。」
黙って聞いていたみゆきの肩に力が入った。
「今、お前が通ってきた道の角に真栄原社交街があっただろう。そこが彼女の夜の職場。彼女は身を削って、妹の入学金をつくっていたんだ。」
「え、、、」
「佐藤、お前の父さんは建築会社の社長やろう。お母さんもそこの専務さんやんか。お前に何かあったら無条件で融資してくれるだろう。でも俺や彼女にはそんな後ろ楯なんてない。いつだって自分の労働対価しか考えられないんだ。女の身で3000万円なんて金額は、身を売るしか思いつかないんだよ。俺が初めて“この人”だと決めた女は、その時にはもう社交街の女の顔も持っていたんだ。青っちょろい感傷とかではなく、愛おしく感じた。俺はこの人と生きると決めた。」
「本当か、、、」
今まで押し黙っていたみゆきが口を開いた。
「本当です。妹から医学部へすすみたいと打ち明けられた時に、私は費用の事を確かめて愕然としました。でも妹の母親を想う気持ちに、姉として応えたかった。私の一時期を犠牲にすれば、妹がお医者さまになれる。私はそれで、かまわないと思ったんです。でもそんな私は奏磨さんの気持ちに応える資格をなくしてしまったんです。」
私は言葉をなくしていた。あまりにも真剣に生きている二人に、何事か介入する隙間を見つけることができない。むしろ、この二人が眩しく、自分がひどく意味のない存在に思えてきた。
「まだそんな事を言っているのか。資格がある、ない、などを決めるのは俺なんだ。俺はすべてを知った上で、お前を選んだ。後悔などしていない。」
「でも私にとって、妹も大切なんですが、奏磨さんもそれ以上に大切な人なんです。私の犠牲になって、これからがある人の未来を断つような事があってはなりません。」
それぞれが想う気持ちの深さを思い知らされた。一つ一つの言葉に意思の強さを感じる。解決の糸口を見出せないまま、時間だけが過ぎていった。
「あのさ、こう言う案はどうだろう。赤馬は今、3ヶ月ほどの休学状態にあります。卒業までは後1年と少し。1年先の就職状況は分かりませんが、たぶん彼ならどこぞの企業に就職できると思います。これはなみえちゃんの2年生の時期にあたります。初年度と比べ学納金はかなり少なくなっているはずです。彼は卒業して、きっとみゆきさんのところへ戻ってきてくれます。それまで他の仕事でつなげませんか?」
「はい、どうか学校へ戻ってください。なみえが言うには、医学部も最初のうちは普通の大学生と変わらないんだそうです。普通にアルバイトもできるからと、仕送りの減額を言ってきてます。それに、今も奏磨さんのおかげで社交街に行かなくなり、時間があるので、少しでも役に立とうと、那覇の24時間食堂の厨房の仕事の面接に行ったんです。もらえるお金は、うんと減りますけど、奏磨さんを裏切らなくてすむ仕事ですから、頑張ります。」
じっと話を聞いていた赤馬が大きく息をした。
「、、、、待てますか?待っていてくれますか?」
「はい、私などで良いのでしたら、待ちます。一生懸命待っています。」
ようやく帰路に着いたのは、もう深夜12時を回っていた。それから1週間ほどして、赤馬は大学に戻ってきた。赤馬は以前よりも明るくなったように思える。3ヶ月間の休学によるブランクは、レポートの提出で補って単位取得していった。みゆきが始めた夜間のアルバイト先は、「大道」と言う、塾がある「安里」と近い位置にあったため、しばしば夜食ついでに、働くみゆきの横顔を見にも行った。 みゆきも厨房の隙間から赤馬を見つけると、子供の弁当のようにメニューや飯にケチャップや海苔などでサインを出したりした。幸せだと感じる時間が過ぎていった。新年度を迎え、夏を待たずに赤馬は、本土資本の電機メーカー直営の沖縄子会社の就職内定をもらっていた。
しかし、幸せな時間は突然、終わりを告げる。暑い沖縄の夏が過ぎ、街がふたたび秋色に染まる頃、みゆきは病院のベッドにいた。みゆきは母親と同じ「後発性の再生不良性貧血」を発症してしまったのだ。
そして、みゆきがひたすら待っていた赤馬の卒業を間近にひかえた寒い朝、那覇港から八重山へ向かうフェリーに、妹のなみえの首にかけた小さな箱に入って帰っていった。
今にして思えば、みゆきに呼び出された時に私が感じた絶望的な顔色の悪さは、すでに症状が出始めていたのではないか。みゆきは自分の運命を、あの時すでに、察していたのではないか。当の本人がいなくなってしまった今では、もう確かめようもない。
「みゆきさんの志は、なみえちゃんに乗り移って、果たせたかもしれないけれど、残されたお前はやりきれないだろうな。」
「みゆきが逝く前に、人って生まれてきた時に、何らかの役目を背負って生まれてくるんだって言ってたよ。みゆきは間違いなく、自分の生まれてきた役割を一生懸命生きたと思うよ。悲しくてたまらないけれど、俺もその運命を受け入れて生きていこうと思う。」
「彼女の生命保険の受取人名義がなみえちゃんに書き換えられていたんだって?」
「うむ、そうすることで、俺を故郷で待っている家族の元へ返そうとしたんだろう。もう俺が沖縄にいる意味はないものな。みゆきってそんな考え方をする女だから、、、。」
遠く南の海に帰っていく船影を私と赤馬はいつまでも見送っていた。
自己犠牲と言う言葉だけでは言い表せない生き方の女の人でした。いい加減な大学時代をおくっていた私に、真剣に生きると言うことを教えてくれました